09: 「何もしないでゲームばかりしている」再考 ―スマホで子どもたちがやっていること―

 学校に行かなくなった中学1年生のシゲルは部屋に閉じこもり、1日中スマートフォンを触っている。シゲルの母は言う。「ずっと何もしないでスマホでゲームをやっているみたいなんです。あまりにひどいので見かねてスマホを取り上げようとしたら、今まで見たこともないように怒って、暴れて。」シゲルは壁を殴って穴をあけ、絶対に渡さない、とスゴんだ。普段おとなしい彼の豹変に両親は驚き、途方に暮れて面接に訪れたのだった。

 近年、ひきこもりや不登校の相談にスマホはセットのように登場する。親から見れば、やるべきこともやらず、小さい画面を見つめて何をやっているのか見当もつかない姿に危惧を覚える。そして、スマホを買い与えなければよかった、と嘆息し、ネットの接続を切った方がいいのか?時間を制限したい、と叱責へと変わっていく。

 スマホやネットは諸悪の源のように言う論調もある。ネット依存やスマホ中毒は大きな社会問題として取り上げられ、スマホやソーシャルメディアによって現実のコミュニケーションが疎外されてしまうことを指すファビング phubbingという新語がアメリカで生まれているというニュースは、この問題が世界規模で生じている普遍的で身近で大きな課題となっていくことを予想させよう。

 今回は、それらの議論を一旦脇に置いて、子どもたちはスマホで実際になにをやっているのかしっかりと目を凝らしてみよう。

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 シゲルの話に耳を傾けよう。

 学校の授業もつまらない。勉強もいまいち苦手。クラスでは、スクールカーストの三軍にいて、誰にも相手にされない。かと言って虚ろな家の雰囲気もきらいだ。母親は、高校や大学の話ばかりで、勉強はそのためにやれと常々言われてきた。自分が学校に行かないと母親は一日不機嫌でリビングにいけばどうせろくなことがない。父親はもうすっかりあきれたのか何も言わない。

 結局スマホのせいだって言われる。はじめは一日2時間までって言われて、最近はスマホ取り上げるとか、料金を払わないとか。そればっかりやるから学校に行けないんだって言われる。学校に行かなくなってからスマホをやるようになっただけなのに。とシゲルも負けじと溜息をつく。

 シゲルにスマホで実際何をやっているのかを問うと、急に眼を輝かせていくつかのゲームを見せてくれた。ゲームにはさまざまな攻略があり、アイテムを貯め、自分がパワーアップしていくようだ。「特にみんなと助け合うプレイが盛り上がる。それぞれが援軍を送りあってもっと強くなるんだ!戦略をマスターして、メンバーに尊敬されるときが一番嬉しい!神っていわれたことあるよ。あと、大人はお金を払ってアイテムを買うけど、中学生は課金できないからね。地道に稼ぎ続けるしかないんだ。時間はかかるけど、ムカキンは尊敬されるんだ!」(お金を使わないでゲームをすることを“無課金”と言うらしい)


 さらに、そのゲームにはチャットというなんでも書き込める掲示板があり、そこではおじさんやおばさん、高校生も大学生もまじえてゲームについて情報交換する。それだけでなく普通の会話もやりとりされている。シゲルはチャットでは本音を言っている。学校に行くのがだるいこと、親がスマホを取り上げようとしていること、時には英単語の覚え方を聴いたりすることもある。シゲルは言う。「きちんと礼儀をわきまえないと相手にしてもらえないんだ。お礼を言ったり、挨拶したり。ゲームの世界にもルールがきちんとあるから。それから年齢と関係なく、攻めがうまいと一人前に認めてくれる。ダメな時は落ち込んで、メンバーに励まされることもある。」たしかに、見せてもらうとメンバーが書き込めるチャットには、朝の挨拶からおやすみまでのやりとりがあり、勉強はちゃんとしているのか?学校に行っているのか?とメンバーから声をかけられている書き込みもあった。シゲルには“兄貴”とよぶ特に親しいゲーム仲間もいるようだった。(その兄貴はシゲルの父の世代に近いサラリーマンのおじさん!なのだ。)

 シゲルが言うには、ゲームをしている様子を動画で流している“実況”というものがあり、その実況者は彼らにとっての人気者で、カリスマのように思われているらしい。いつか自分も“実況”をやりたいとシゲルの憧れでもあるのだ。

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 疲れたようなかったるい雰囲気を醸し出していたシゲルが、生き生きとゲームについて語りはじめ、わたしはシゲルの本質を垣間見たような気がした。まず驚いたのは彼らの言う“ゲーム”は、わたしの考えていたものから大きく変化していることだった。ゲームの中のアクションや戦いで攻撃性が発散されたり、仮のキャラクターになるということだけではなく、そこには挨拶など日常の交流があり、愚痴の吐き場もあり、憧れや落ち込みといった情緒の動きもある。カリスマになったり、親密になったり、だからこそ仲間はずれにされたりという関係性もある。つまりゲームは、今やひとりでやるものではなく、他のメンバーと共に、というソーシャルな人間関係の要素がしっかりと取り入れられているのだ。実際、スマホを取り上げられそうになった夜、メンバーとの「大事な約束」(団体戦のチームプレイらしい)があってスマホを渡すわけにはいかなかったのだとシゲルは教えてくれた。

 虫取りをする野原がなくなった都会の子供たちの間で「ポケモン」という怪獣集めのゲームが流行ったように、ゲームを作る側もニーズをとらえるのに必死であり、流行るゲームには子どもたち(そしてもちろん大人たち)のこころを掴むそれなりの要素がある。ネットに常時つながっているスマホのゲームは、さらにそこに交流と関係性と言う“ハマる”要素を加味しながら、敏感に成長し、その場を彼らに提供している。「ゲームばかりして何もしていない」のではなく、攻略、冒険、そして交流といった体験が営まれ、生きられている。これが本当の交流と言えるのか?という大人たちの心配をよそに子どもたちはその営みの真っ只中にいる。

 思った以上に複雑で入り組んだことがゲームの中で行われていて、彼らの立場に立つと、魅力的な世界で、交流の質もその親密さも高いことに驚かさられる。グループへの所属、認められること、本音の交流、達成感などはシゲルにとってどれも切実な欲求である。

 もちろん、ゲームに多くの時間が費やされ、外的現実からの引きこもりが強化されることもまた真実だろう。これらが、商業ベースの論理によって巧妙に仕組まれているとみることができる。それが子ども自身にコントロールできるのことなのか?子どもに任せていいのかという問いも注意深く考えなければならない大きな問題である。ゲームという仮想現実で完結し、現実の関係がおろそかになり、スマホの世界の関係に埋没していくことはスマホ依存やスマホ中毒という問題と表裏一体である。

 しかし、シゲルや他の子どものことを知るにつれ、このゲーム内で行われていることに勝る興味深い体験世界を彼らの周りに私たちは作っているのだろうか?そして、それに対抗できる、あるいはそれを上回る関係性はなんなのか?そういう問いが突きつけられている、と考えさせられる。

 スマホやネットへの傾倒や依存の問題は、裏を返せば現実の欠落や欠損から生じているとみなすことができよう。子どもたちがはまっているスマホやそのコンテンツは、その子のニーズを表す合わせ鏡のようなものだ。学校や家庭がそれを彼らに十分に提供できていない、という事実が浮かび上がる。シゲルが学校や家庭への不満を冒頭で述べているが、それが鏡が映し出すもう一つの事実なのだ。そのことを見落としてしまうと安易な禁止という実は出口のない結論へとつながってしまう。なんの補償もないその親からの提案に、彼らは頑強に抵抗してくるはずである。そして問題は地下に潜るだろう。その無理解は禁止する大人と子どもたちとの信頼関係をさらに阻害し、悪循環を生じさせるだろう。

 大人・親が「"なにもしない” でゲームばかりやっている」と認識し、一刀両断していたら、シゲルをはじめとした彼らとの溝は決して埋まることはない。シゲルが頑なに抵抗する意味も、その気持ちもわかることもできない。そして、それに対抗する現実や関係を提供する機会も損なわれてしまう。

「一日中ゲームばかりをして」いったい彼らは何をしていて、何を感じているのか、そして何を求めているのかを理解することがこの問題を見直す糸口である。まずはこの突きつけられているスマホ問題を家族に対して切実な問いが突きつけられていることとして位置づけることが必要なのである。
(岩倉拓)
2016.01.04