11: わたしでありわたしでないわたし

マサミが幼稚園の頃、雨が降るといつも部屋に来てくれる友だちがいました。同い年の女の子でした。いつの間にか近くにいるので、一緒に絵本を見て、人形で遊びました。小学生になってからは、学校で嫌なことがあった時に帰宅すると、部屋で待っていてくれました。

小学校5年生の時に、マサミはクラスの友だちと喧嘩になりました。翌日学校に行くと、それまで仲良しだったグループの友だちが、誰も口を利いてくれませんでした。そのうちクラス中の子どもたちが、マサミを無視するようになりました。

学校にいる時間は辛く、マサミは部屋でその子と過ごすことが増えていきました。中学に入る時、その子は言いました。

「これからはずっと一緒だから。」

その声とともに姿が見えなくなりました。どこにも見当たらず、家中を探しました。洗面所の鏡の中にその姿を見つけた時、マサミは声をあげそうになりました。

「ここにいたの・・・!」

マサミは自分がその子の姿になっていることを不思議に思いませんでした。その後のことは覚えていません。目が覚めた時は朝になっており、ベッドの上でした。

マサミは時々記憶を失うようになりました。学校であったことがほとんど思い出せません。けれども授業のノートはきちんと取っており、お弁当箱も空になっていました。

友だちからは「最近明るくなったね」と言われました。「前と感じが違うよね」と顔を覗き込まれることもありました。塾に行った覚えがないのに、塾のテストで上位になりました。

高校に進学する頃には、もっと不思議なことが増えました。知らない間に友だちと出かけているようでした。休みの日は気がつくと一日が終わっています。彼氏もできました。いつどうして付き合うことになったのか、わかりません。いつも頭がぼんやりして、頭痛がしていました。

大学生になると度々激しい頭痛に襲われ、夢をみているような感覚に陥りました。どこまでが現実でどこからが夢なのかわからなくなり、病院で診察を受けました。専門医に巡り合い、解離性同一性障害であることが明らかになりました。

マサミには二人の交代人格がいることがわかりました。大学の授業を受けて学業をこなす人格、友だちや彼と遊びに行くときに出てくる自由で奔放な人格です。それとは別に、頭の中でマサミを責める声が聞こえることもありました。

「嘘つき!」「本当はそんなこと思っていないくせに」「お前なんか生きる価値がない」と、強い口調で声に言われると、マサミは自分を傷つけたくなりました。体が動かず何もできなくなりました。

解離性同一性障害の人には、マサミのように小さい頃からイマジナリー・コンパニオンが存在していることが少なくありません。時にはそれが交代人格に発展することもあります。そのきっかけには、外傷的な体験が関係する場合も多いのです。

交代人格の存在は時に適応を手助けしてくれます。疲れ切って学校にいく気力のないマサミに代わり、授業を受け友人たちと交流し、一日を乗り切ります。マサミの心はそれ以上傷つきを重ねることなく、自己の内部に沈み込むことで仮の安全を確保するのです。

一方でマサミの受けた心の傷は、その場その時の感情と共にあり続けます。生々しい感覚は瞬間冷凍のように保存され、鮮度を失うことがありません。

ふと我に返った時、マサミはクラスメイトに無視された時のショックと共に、「自分はひとりぼっちだ」という孤独感が蘇るのを感じました。人が怖くなり、二度と外に出たくないと思いました。激しい頭痛が起きて意識を失い、代わりに目覚めたもう一人の自分が身支度をして家を出ました。大学で勉強に取り組む人格は周囲の人々に無関心で、与えられた課題を淡々とこなします。

そんなマサミに友人たちが話しかけてきました。勉強するために生まれたマサミは他人に興味がありません。人に囲まれて言葉に詰まると、新たな自分が現れました。人付き合いを得意とする社交的な人格です。それぞれの人格は、自分が登場するのに相応しい時と場所を知っているのです。

健康な人でも様々な顔をもち、その時々で多様な自己を使い分けながら日常を過ごしています。場面ごとの自分は異なる表情を見せてはいても、そこにはゆるやかな連続性があり、時間の流れをつないでいます。ところがこの障害の人たちは、その連続性が断たれた断片的な世界に生きているのです。

断片化が起きる背景には、自己の存在を脅かす深刻な傷つきの体験に加え、しばしば自責の念と罪悪感があるようです。辛い事態に陥ったのは、自分がいけなかったのだと彼らは考えています。悪いのは環境ではなく、環境に適応できなかった自分である、と。問題の原因が自分にあると思うがゆえに、相手に求めることをやめて、自身を変化させようとするのでしょうか。

この障害の人の多くは、助けを求めることが苦手です。他人に迷惑をかけるべきでないという信念を、子どもの頃からもっています。子どもが大人になる過程で手をかけてもらうのは当然のことなのに、厳しいしつけやゆとりのない子育ての中で、子どもでありながら大人のように振る舞うことを強いられてきた人たちです。

手のかからない子どもは、大人にとっては助かる存在です。大人が忙しく、自身のことに追われ、不安定な気持ちでいる時はなおさらです。子どもは大人に怒られることのないよう顔色をうかがい、期待や意図を読み取り、先回りして行動します。そうしないと大人に見捨てられるのではないかと、不安になるからです。

解離性同一性障害は過剰適応の病ともいえます。子どもを育てる大人の心に余裕のないことも、この障害が増えている要因の一つかもしれません。我々大人の社会でも、手のかからない従順な人を歓迎する傾向があります。皆と同じ行動を取れない人、皆と異なる考えをもつ人を排除する動きは、人の集まるところでは常に起きてくるものです。

大人も自分の身を守るのに精一杯で、他人の心の自由を奪わずにいられないことは、目を背けてはいけない課題として我々の胸を突くものがあります。精神障害の人たちが身をもって示している警告の意味を考え、互いに尊重し合い共に発展していける関係のあり方を見出すことが必要です。我々は自らそれを実現すべく、今からでも努力を重ねていくべきなのでしょう。

(松井浩子)

2016.08.16