12: 新しい自分になる

―他者と共に生きる道 2―

トオルくんのお母さんは心配性です。

トオルくんが生まれた時から「将来困らないように」と、一歩先を考えて準備してきました。万全の環境に身をおけるよう、幼稚園選びに時間をかけ、よいと思われる習い事に通わせました。小学校に入ると勉強に遅れがでないよう宿題を見てやり、友だちと遊ぶ時は家に呼び、こっそり様子をうかがいました。

成績の良かったトオルくんは、中学受験して進学校に入学しました。そこにはトオルくんと同じように、勉強もスポーツもできる子がたくさんいました。みなとても積極的で、トオルくんは次第に気後れするようになりました。

学校の先生たちは「失敗を恐れるな」「大事なのは結果ではない」などと、励ましの言葉をかけてきました。これまでは「失敗してはいけない」「結果を出すように」と言われていたので、親と違うことを言う大人がいることに、トオルくんは驚きました。

帰宅途中の寄り道は禁止されていましたが、中には学校帰りに友だちの家で遊ぶ子もいました。親しくなった友だちに一緒に来ないかと誘われましたが、お母さんの顔が浮かび、行くことができませんでした。

友だちの振る舞いとこれまで自分が取ってきた行動のギャップに、トオルくんは頭を抱えました。どうしていいかわからなくなり、勉強にも身が入らず気分も落ち込み、学校に行けなくなりました。

お母さんは学校に行けない我が子の姿を見て動揺し、感情的になってトオルくんを責めました。「一体何がいけないの?」「こんなことでは将来社会でやっていけなくなる!」と泣き叫びました。

その姿を見てトオルくんは自分を責めました。「僕がいるからお母さんを苦しめる」「僕がいなくなればいい」と思いました。どこか遠くに行ってしまいたいと、ある日家を飛び出しました。

姿が見えず連絡も取れないと気づいたお母さんは、血眼になってトオルくんを探しました。翌日帰宅したトオルくんを抱きしめて長い間泣きました。泣きながらこれまでの自分を振り返り、後悔の念に駆られていました。

トオルくんの家出の後、お母さんはセラピーを受けるようになりました。自分が変わる必要があると感じたからです。心の治療を通して、子どもの頃から自分を殺してきたと気づきました。お母さんもまた、親の期待する良い娘であろうとしていたのです。親に背き失敗することを恐れていたのは、自分自身でした。

親は悩みを抱えた子どもを静かに見守り、自ら立ち直るのを待つのがよいと、お母さんは知っていました。けれども実際には強い不安に襲われ、立ち止まっているトオルくんを責め、なんとか元のレールに戻そうと必死になりました。この対立と緊張の中で起きたのが、トオルくんの家出でした。

心に収まりきらない葛藤は、しばしば大きな問題行動を引き起こします。不登校も家出も、トオルくんの心が危機的な状況にあるという知らせでした。子どもの危機の背後には、親の問題が隠れていることがあるものです。

トオルくんのお母さんも、過保護な親のもとで育った人でした。仕事をもち社会で働きたい思いを断念して家庭に入り、子育てにひたすら力を注いできましたが、心の奥底では虚しさを感じていたのです。

親子の心はどこかでつながり、互いに影響を与え合っています。お母さんは自分を縛っていた「良い娘」「良い嫁」「良い母」の仮面を捨て去り、自由になりたいと感じ、外に出て働き始めました。同じ頃、トオルくんは再び学校に行くようになりました。

これまでの考えや信念に疑問や不安を感じると、人は自分を見失い、どう生きるのかわからなくなります。混乱して今まで通りのことができなくなり、先に進めなくなります。同時に知らなかった新しい世界が垣間見え、戸惑いを覚えます。以前はもてなかった新しい考えを取り入れて、自分を立て直す必要が出てきます。

心の問題を解決しようと苦しみ抜いて、そこを脱出した時に、以前とは違う風景が見えてきます。目の前に立ちはだかる課題を乗り越える過程で、人の心は大きく成長します。

トオルくんの不登校から始まった一連の出来事を通して、お母さんは自身の心の在り方について考え直す機会を手に入れました。大事な息子を失うかもしれないという恐怖が、自分を変える勇気を引き出しました。

人は親密な他者との関係の中で、自分を変え成長し続けることができます。家族や大切な人の危機に向き合う時、自分に何ができるのか考え、そうとは気づかないまま新しい自分になろうと変化を始めることがあります。

他者とともに生きることが、人の人生を豊かにしてくれるのです。

(松井浩子)

2017.02.09