06: 自分になるための決意

 勤めて10年になる会社を、アキホさんは辞めることにしました。退職を申し出た時、上司も同僚も驚きを隠せませんでした。彼女は仕事ができ、誰よりも意欲的に働いているように見えたからです。今後期待される人材の一人だと誰もが感じていました。

 入社して数年経った頃から、アキホさんの心の奥にはもくもくと黒雲が立ち上り、しだいに大きくなっていきました。学生時代からの憧れの企業で、希望通りのデザイン部門に配属され、やりがいのある毎日でした。残業も苦にならず、休日も仕事に役立ちそうな展示会に出かけ、新しい技術を学ぶためのスクールにも通いました。「アキホは、仕事の話しかしないね」と同期に笑われても平気でした。それくらい仕事が好きだったのです。

 「それなのに、何故時々苦しくなるのだろう?」と彼女は考えていました。

 ある時上司の指示を受けながら黒雲が大きくなるのを感じ、思わず意見を述べました。彼女の倍の年数のキャリアをもつ男性上司は黙って話を聞いた後、厳しい表情でひとこと言いました。「君はまだ自分の考えをもつのは早い」と。

 ただそれだけのことでした。心の黒雲から雨が降りだしました。言葉を失い、目の前が暗くなりました。

 その上司のもとで働き始めてから気持ちが沈むようになっていたと、アキホさんは気づきました。その人は社内ではやり手として有名で、彼の部下になるのは名誉なことでした。実際そのチームに入った時に周囲からは嫉妬の目を向けられ、アキホさんもどこか得意な気持ちになったのです。ただし彼は自分のビジョンを実現するために、部下を手足のように使う人でした。周りの意見には耳を傾けず方針はすべて一人で決め、仕事は常に成功を収めました。だからこそ、彼のやり方に異を唱える人はいませんでした。

 「ここにいる限り、私はずっとこの人の駒でしかないのだ」と、アキホさんは痛感しました。すると体に電気が走るような感覚に襲われました。「ここを出よう」という声が口を突いて出てきました。

 10年そこそこの経験しかないアキホさんが独立し、フリーランスとして出発することに、知人たちの賛否は分かれました。優れた上司から辛抱強く学ぶべき、という助言をくれる人もいました。自分に力が充分でないとわかっていても、アキホさんはひとつの思いに突き動かされていました。「自分になりたい」という気持ちです。失敗してもいいから、自分の考えで仕事をしたい。それが心に収まりきらなくなった時、アキホさんは会社を辞める決意をしたのです。

 アキホさんの行動を、若さゆえの愚かさとみる人もいるでしょう。彼女もそれは知っていましたが、新たに生きる場所を求めて巣立つことを選びました。彼女の未来は誰にもわかりませんが、会社を辞めてからアキホさんの心に黒雲はなくなりました。かわりに希望の光が灯り、それに向かってアキホさんは、以前にも増して生き生きとした日々を送っています。

 主体性を奪われると人の心には影が差し、アキホさんのように黒雲から降る雨が大地を濡らし続けます。そのままにすれば土地は崩れて、花を咲かすことはできなくなります。心の自由を手に入れエネルギーを保つことは、人が生きる上で欠かせません。生き生きとした大地に種を蒔くことができれば、やがてそこには花が咲き、豊かな世界が育ち始めることでしょう。


  (松井浩子)
2015.9.1