03: 心の傷のSOS
ハルちゃんは10歳の女の子です。
ハルちゃんのお母さんは、小さい頃から親に厳しくしつけられました。親のことが好きになれず、早く家を出たいと考えていました。
大人になって結婚し、ようやく親から離れることができました。しばらくして子どもが生まれ、幸せな日々が始まったはずなのに、赤ん坊のハルちゃんが泣き出すと苛々するのを感じました。抱いても泣き止まない我が子に対し、激しい怒りが沸き起こり、その場に叩きつけたい衝動に襲われました。「このままではこの子を虐待してしまう」と恐ろしくなりましたが、誰にも相談できませんでした。
やがてハルちゃんが泣き出すと、ベビーベットに置いたまま、外に出るようになりました。泣き止まない赤ん坊と二人でいると、自分がおかしくなりそうで怖かったからです。
ハルちゃんが3歳の頃のこと、夕飯を食べながらうとうとして、腕に触れた食器が床に落ち、音を立てて割れました。その瞬間お母さんは頭の中が真っ白になり、呼吸が苦しくなりました。気がつくと、我が子を激しく叩いています。「何故こんなことをしているの?」と頭の隅で考えながら、激しい怒りが吹き出します。お母さんの目の前には怖い顔の大人が浮かび、身体中の痛みを感じました。女の人の怒鳴り声が聞こえ、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き叫ぶ女の子が見えました。私は今どこにいるのだろう・・・怖い、怖い、怖い。ハルちゃんのお母さんは、その場に倒れてしまいました。
10歳になった時、ハルちゃんは隣の家の飼い猫の足をカッターで傷つけました。それを見つけたお父さんが、お母さんとハルちゃんを相談室に連れていきました。お母さんはカウンセラーに、これまでのことを打ち明けました。毎日とても苦しくてずっと誰かに助けてほしかったと、泣きながら話しました。
ハルちゃんとお母さんは、これから心の治療を一緒に受けるのです。ハルちゃんはお母さんが大好きなので、二人で一緒に相談室に通うのを嬉しく思いました。
これはひとつの例であり、ハルちゃんは実在の子ではありません。けれどもハルちゃんとお母さんのような苦しみを抱える人たちは、今この瞬間にもたくさんいます。ハルちゃんのお母さんは、自分が親からされたことを、我が子にはしたくないと思っていました。けれども子どもの泣き声や、ちょっとした失敗に、抑えきれない衝動が湧き上がってきました。同時に自分が受けた体罰の場面が、鮮明に蘇りました。外傷を受けた人のフラッシュバックと呼ばれる現象です。
フラッシュバックが起きるのは、心の傷が癒やされず、生々しい感覚のまま心に残っているからです。心に受けた傷つきがあまりにも強すぎると、自分の体験として取り入れられず別の場所にしまわれます。それが何かのきっかけで、生のまま現れるのです。その途端に時間や空間は失われ、恐怖に圧倒されて、その場その時に心が引き戻されてしまいます。時にはまるでその場にいるかのように、行動してしまうことさえあるのです。
心的外傷の治療では専門的な心理療法が必要です。ハルちゃんとお母さんのように、母子双方に症状が見られる場合には、母子関係の立て直しも大切です。
猫を傷つけたハルちゃんの心の痛みは、お母さんから譲り受けたものです。お母さんもまた傷ついており、誰も責めてはいけないことを我々は知っておくべきでしょう。お母さんのお母さんも同じ傷を負っているかもしれません。こうした世代間伝達は、治療によって断ち切ることができます。世代を越えて心の傷を引き継がないためにも、ハルちゃんとお母さんは楽になる必要があるのです。
生まれた時から憎しみを抱える赤ん坊がいないように、初めから我が子を傷つけたい親もいないのです。
この世に誕生した瞬間から、愛されない運命の赤ん坊は存在しないと私は考えます。対象に向かう怒りや憎しみは、経験によって生じます。その経験が誰にも理解されず、心の痛みが行き場を失った時、怒りを向ける対象は無差別に拡大するのでしょう。ハルちゃんは猫を傷つけましたが、それはどこにも向けられない怒りと悲しみが生み出した精一杯のSOSでした。その行為を咎めるのではなく、そこに込められたメッセージに気づくことが、虐待の連鎖を断ち切るために我々が取るべき行動です。ハルちゃんとお母さんは、心を取り戻す道のりのスタートラインに立ったのです。
(松井浩子)
2015.5.2