01: 他者と共に生きる道

何年か前の今頃の季節に、身内の男性が亡くなりました。

いわゆる働き盛り、人生が味わいと豊かさに満ちてくるはずの年齢で、彼は病に襲われました。病巣はあっという間に広がり、手術の甲斐なく病名告知から数年で打つ手のない状態に陥りました。

彼の両親は共に世間の注目を浴びる仕事に就いており、再婚同士で結ばれました。遅い年齢で生まれた息子を父母は大切に育てましたが、親子はしだいに行き違い、周囲に心を閉ざした彼は、やがて社会に背を向けるようになりました。

職業を持たずに芸術の世界に身を置いていた彼が人との交流を始めたのは、両親が亡くなってからのことでした。人並みに生きようと決意して巡りあえた仕事に真摯な気持ちで打ち込み始めた矢先、突然の病に侵されたのです。

数年ぶりに再会した私に、彼はもう二度と働くことはないと宣言しました。病気と戦うのは嫌だ、安らかに死を迎えたいのだと。病室には思想や宗教に関する書物がいくつも並び、何年も前から信仰の教えに従い修行を続けていました。仲間は「ここまで悟りを開いた人はいない」とその姿勢を褒め称え、本人も死を受け入れ始めたようにみえました。

けれども死を迎えるための現実的な準備には、手間や労力のかかるものもあり、病を抱える身には大きな負担でもありました。残された時間が充分ではないという焦りからか、唯一の身近な親族である私に、しばしば苛立ちをぶつけるようになりました。思い通りに動かない私への怒りは罵倒や叱責となり、あまりの激しさに私の心は日常を成り立たせる機能を失いかけました。小さなきっかけで度々暴発する感情と激昂の嵐を恐れ、私は彼に近づくことができなくなりました。

やがて彼は再び心を閉ざし、私たちの音信は途絶えかけました。知人の配慮で病床を訪れようとした時も、強く拒否されました。発症以来入退院の度に付き添い、あらゆる治療の過程を共に見てきた私は、その最後に立ち会うことができませんでした。

彼の怒りの深層には、思うようにならなかった人生への深い憤りと悲しみが込められていたのでしょう。私に残されたのは、押し潰されるような無力感と絶望感でした。子どもの頃から死ぬまでの経過の全てを知る者に託された、大きな荷物です。 心に積もった喜怒哀楽の感情を、なかったこととして生きていくのは困難です。彼は悟りを開こうと努力しましたが、私を含め親族に心を閉ざしたまま死んでいきました。最後まで理解し合えなかった両親への恨みが、形を変えて私に向けられたのかもしれません。互いを大切に思いながらも時に傷つけあうのが、人と人との関係です。そこから逃れるため、彼はすべてを断ち切りひとりで死ぬことを選びました。

人生をどう生きるかはその人の選択であり、他者が口を出すべきではありません。とはいえその人の心に収まりきらない負の情動が、別の誰かの心を使って処理される時、その引き受け手は身代わりとなって苦しみ、傷つき、心を壊されます。このように他者の心を使わずには生きられない人たちは、容易に解消しがたい苦しみを抱えているのだと考えられます。

世間を震撼させる事件の加害者にも、そんな心の痛みをもつ人がいます。職場や学校の集団でトラブルを起こす人たちも同様です。周りを巻き込む対人関係の問題には誰かの心の傷つきがあり、そこに解決を求めるならば、限度を越えた負荷を担って生きる当事者の心が救われる必要があるのです。

人の心に極度に負担がかかり過ぎると精神に危機が及び、しばしば本人を取り巻く状況に悪い影響をもたらします。ひとりの人の心に起きたミクロな破滅が、集団全体をマクロに蝕むことさえあります。そうなる前に痛みと傷の根源を見つけ出し、然るべき手当を施したいものです。

心を閉じて孤独に生きる道を選ぶ人を、責めることはできません。そうせざるを得ないだけの重荷を背負っていることもあるものです。ただしその一歩手前で助けを求める人々に、自分のできる形で力を捧げるのは意味あることといえます。どんな人も生きる上で、誰かの力に支えられているからです。相手を支えることは自らが支えられることだと気づけた時に、人は他者と共に生きる道を信じることができるのでしょう。

(松井浩子)

2015.3.1