13:意識からの警告

私たちは基本的に、自分の行動を自らの意志で決めているという認識をもっています。とはいえ実際に四六時中それを意識しているわけではありません。朝起きて顔を洗い、食事して身支度を整える、学校や職場に向かう、授業を受けたり仕事をしたり、日常生活を過ごす上で、その都度自身の行動に意識を寄せているかと言えばそうではありません。

ではどんな時に人は自分の行動に意識を向けるでしょうか。朝の通勤電車が突然停止し、車内放送が遅延を知らせた時、私たちは次に取る行動を意識して考え始めます。このまま車内に残り運転再開を待つか、他の路線に乗り換えて目的地へと急ぐか。外の世界に何らかの異変が起きた時、それに対処する上で行動を意識的に選択する必要が出てきます。

同様にして他者との関わりが生じる時にも、人は自身の取るべき行動を検討します。仕事が終わり急な飲み会に誘われた時、そこに参加するのかそうせずに帰宅するのか、断る場合はなんと理由付けするのか等々、自身のこれからの行動を吟味し「意識して」選択し、最適な対処を選び出そうとします。

こうして人は必要に応じて意識的に行動し、それ以外は意識状態をフラットにして日常を過ごしています。ところがこの意識のスイッチが、時ならぬ時に外れてしまうことがあります。

例えば普段通勤で利用している電車で降りるべき駅で何故か乗車したまま、目的地を通過してしまいます。車内で読書していたとか、ゲームに没頭していたとか、他のことに意識を集中していたわけでなく、むしろ意識がぼんやりとした状態で起こります。電車はそのまま次々と駅を通過し、長い時間の経過とともに、気づいた時は見知らぬ土地にたどり着いていた・・という場合もあります。

呆然と過ごしていた間はあたかも意識が失われた状態のようにみえます。我に返った時は目的地から遠く離れ、時計をみると思いもよらず時間が経過しています。その日予定されていた会議はもう始まっており、今から引き返してもとても間に合いません。

ここでその人は考えます。一体どうしてこんなことをしてしまったんだろう。家を出る時には会議の資料も確認したし、自分のプレゼンではこうやって話そうとまで思っていた。電車に乗った時も初めはそれを考えていたはずだ。まてよ、その途中から・・・。

その後のことは何故かどうしても思い出せません。気になって会議の資料を見ると、乱暴な筆跡で書きなぐった跡が残っています。誰かを罵倒する怒りの言葉が赤い文字で書かれています。自分はこんなものを書いた覚えはないのに。

意識のない状態であっても、意識的にとったとしか思えない行動の痕跡が見つかることがあります。もしかするとその人自身とは別の意識状態が、その人から離れて行動したのかもしれません。

こうした意識の解離を経験したことのある人は、それほど少なくないようです。過度な疲労やストレス、または特殊な環境におかれたための心理的負荷が原因で、意識と無意識の境界が曖昧となり、時には意識が分断され、その人自身から離れた行動を取る現象は、どんな人にも起こりえます。

大事なのはそれが一過性なのか連続して起きるのか、原因やきっかけを特定し、取り除くことができるのかという点です。このような意識の暴走は、心理的な危機の警告といえます。背景として思い当たることがないままに、同じ現象が繰り返し起きる時は注意が必要です。その事態を引き起こす要因に対し、その人が否定的な感覚をもっていない可能性があるからです。

自分にとって有害なもの、不利益をもたらすものを、人は直感的本能的に識別し、その事態に身を置くのをできるだけ避けようとします。あるいは何らかの対策を講じようと努めます。けれどもこの選別のセンサーそのものが障害されてしまうと、自身にとって有害かつ不利益なものを排除しないばかりか、自ら積極的にその事態に身を投じようとすることさえあるのです。

これはいわば意識の病と呼べるかもしれません。その回復に役立つのは、安心と信頼の感覚を取り戻すための他者との交流です。もしあなたがこのような問題で困っている場合は、身近で信頼できる人に、そのことを打ち明けてみるのがよいでしょう。

(松井浩子)

2017.06.23