07: わたしは誰なのか


  気がつくと、フユトの目の前には雪山が広がっていた。
  いつここにたどり着いたのかわからない。そもそもここはどこだ?見慣れない風景。
  今はいつだろう? 何年何月? 信じられないほど頭が重い。

 


 同じ頃フユトさんの職場では騒ぎになっていました。大事な来客を待たせているのに、責任者が出社していません。みなで手分けしてメールや電話を入れても、どれもつながりませんでした。
 「まさか、失踪したのかな」
 誰かの不謹慎な冗談に、むしろ社内の緊迫感は増すばかりでした。

 その後フユトさんは無事に保護されましたが、これまでの生活史の記憶をすべて失っていました。自分がどこの誰だかわからない状態です。行方不明になった日には、普段通りに家を出て会社には向かわず、遠く離れた故郷に行きました。しばらくホテルで寝泊まりしましたが、この時期の出来事もフユトさんは覚えていませんでした。雪山で気づいた時には、過去の記憶が失われていました。

 解離性遁走と呼ばれるこの状態は、決してめずらしいものではありません。フユトさんは真面目で責任感が強く、どんな仕事も淡々と引き受ける人でした。けれども内心の疲れに自分では気づいておらず、積み重なった心の重みでついに最後の糸が切れたのです。

 限度を越えた負荷がかかると、人の心は多様な方法を駆使して、個体を危機から守ろうとします。記憶・思考・認知など情報処理の過程を歪めてしまうこともあります。時間軸が壊れ、目の前の世界が違ってみえることさえあるのです。

 我々は記憶の連続性により、「自分が自分である」という感覚を保っています。これらが失われると「わたしは誰なのか?」という恐ろしい体験に見舞われます。人は心理的な危機状況に陥ると、自己という存在の基盤を犠牲にしてまで記憶を断片化し、時には解体させてしまうのです。

 著しい記憶の欠落は、自己感覚の安定感を奪います。過去の自分がいなくなる、自分がバラバラになることは、想像をはるかにこえた辛く心細い体験です。自分が自分であるという当たり前の感覚に、我々の心は守られているのです。


 
(松井浩子)
2015.11.2