14.親をケアする子どもたち
ヒルナさんは子どもの頃、お母さんと二人きりになるのが嫌でした。
外で大勢の人といる時、お母さんは優しい顔で笑っていました。けれども二人で家に帰り夕方になると、態度が変わりました。苛々して怒りっぽくなり、ヒルナさんを叩いたりつねったりしました。時には激しく感情的に、暴言を浴びせました。「あんたなんか、生むんじゃなかった!」その言葉を聞くと、胸元を掴まれたように息が苦しくなるのを感じました。
夜になりお父さんが帰宅すると、お母さんは何事もなかったようになりました。笑っているお母さんと怒っているお母さんが同じ人のように見えず、ヒルナさんは怖くなりました。「怒っているお母さんには悪霊が取りついていて、本当のお母さんではないのだ」と考えました。悪霊のお母さんが出てきた時は、なるべく見えないところに隠れ、息をひそめてやり過ごすようにしました。
思春期を迎えると、ヒルナさんは積極的に家事を手伝い、お母さんの負担を減らすように努めました。後から生まれた妹の育児があり、お母さんには家事をこなすだけの余力がないと、ヒルナさんは感じ取っていたからです。この頃のお母さんはお父さんの前でもヒステリックになり、体調を崩して度々寝込みました。お母さんが精神的な問題を抱えていることに、ヒルナさんは気づいていました。
年の離れたヒルナさんの妹は、学校に行けなくなりました。高校を出て会社に勤めたヒルナさんは、仕事をしながら一切の家事をこなし、鬱状態のお母さんと不登校の妹の面倒をみました。そんなヒルナさんを心配したお父さんは、休日は外に出て気分転換するようにと言いました。お父さんに促され、職場で時々話をする男性と出かけるようになりました。仕事のできる優しい彼にまもなくプロポーズされ、若くしてヒルナさんは結婚しました。
結婚生活が始まり、ヒルナさんは仕事を辞めて家庭に入りました。ようやく穏やかな日々が訪れるかと思いきや、ヒルナさんは強い不安に襲われました。帰宅した夫の顔を見ると何故か激しい怒りが湧きおこり、暴力を振るうようになりました。
ヒルナさんは夫のいない日中に、家の中で人が変わったように暴れます。食器を割り、家具を引き裂き、気がつくと自分の体も傷つけています。自傷行為の最中で遠のく意識の中、ヒルナさんはぼんやりと思います。「ああ、お母さんの悪霊が私についてしまったのだ」と。
小さい頃にお母さんから受けた暴力は、ヒルナさんの心に深い傷を残しました。その傷は表から見えない場所にあり、長い間ヒルナさんの心の奥にしまわれていました。結婚して安全な居場所ができた時、その傷から膿が出始めたのです。痛みの強さにヒルナさんは泣き叫び、かつての恐怖を再体験します。それに伴い虐待者の心が現れ、かつて自分が受けたような暴力を夫に振るうのです。
親にケアを受けられないと知った子どもが、一転して親をケアする側に回ることは少なくありません。親を支え手助けし、親がそれ以上崩れるのを防ぐことで、家族を守ります。それが自分自身の身を守ることになるからです。こうして無理な成熟を強いられた子どもたちは、その役割を貫こうとします。この代償として深層に埋め込まれた子どもの心は愛情に飢え、痛みを抱えたまま地獄を生きています。
安全基地を見つけると傷ついた内部の子どもは覚醒し、行動を起こします。再び開いた傷口が疼き出すのです。その人が真の自分になるためには、今度こそ心の傷を修復する必要があります。そうでなければ安心して生きることができないからです。
自らの置かれた環境で生き延びるために、子どもは時にありえないほどの力を発揮します。その犠牲となり生き埋めになったままの真の姿の子どもを救出することが、心の治療なのです。
(松井浩子)
2017.08.07