情報のシステム化が大切
情報のシステム化が大切(1987年記す)
時野谷 浩
* システムという概念
情報整理学とは勉学を進めるうえで最も重要であり、なおかつこの問題は万人に共通であり、また万象に適応されるのである。
私の情報整理の最初のヒントになったのは、河合栄治郎の『学生に与う』(社会思想社)であった。この本は河合教授が戦前に大学を追放されたあとに書かれたものであった。本書の内容は理想主義について述べられたものであるが、一方この本は非常に実際的である。勉強の仕方についても具体的に指摘されている。しかし、私に影響を与えた考え方は、人間が一個の個体であるならば統一的体系的な精神構造を持たなければならないということである。私はここで情報整理は、人間が情報と向かい合うとき、システム化されなければならないことを学んだ。
さて大学の研究室で仕事をすることになったが、研究生活は創造的な思考を持つことが必要である。こうしたなかで、『学生に与う』を何回も読んだが、情報が単位であるところから当時使っていたルーズリーフ・ノートに何回もいろいろな図を書いていた。何年かたって当時のノートを整理しフト、ノートにかかれた諸図をみているとき、この発想は川喜田二郎の単位情報をまとめるKJ法(『発想法』中公新書参照)と実に良く似ていると思った。私の書いていた図は、読んだこととか考えたことを体系あるいはシステム的な図にしたものであるが、その発想は殆ど同じであった。 私の助手時代はいわゆるコンピユータ革命のとば口の時代であった。将来の時代を予見するように、発想法の本があふれていた。私は自分の情報整理にかんする知見に自信があったので、趣味として随分読んだ。しかし梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波書店)は、題名が仰々しいので、本が出版されても数年間は読まなかった。だが学会出張の列車のなかで読もうとふと気が変わって買ったが、帰りの汽車の座席で引き付けられてしまった。要するに情報整理に関して『学生に与う』と本質的に同じことを、いっているということが閃いたのである。
どちらの本も情報をシステムとして把らえている。ただ梅棹は情報を京大型カードで分類するところに特徴があるといえるだろう。しかし私はルーズリーフでも同じことを大学生時代から行なってきた。授業を受けることは、教師のいいなりになるのでなく創造的な自分のシステムを造ることだ。今見直しても、本質は梅棹のカード的発想と変わらない。だから授業ノートを20数年も保管しているのだろう。
さてこの本にはコリにこった。丁度、この時期が助手から講師になった時期であり、このシステムに賭けてみようという意気込みがあったからだ。例えば、すべてをカード化した。また現在ワープロが盛んであるが、梅棹の本の中ではワープロの前の段階としてひらがなタイプライターがでていた。私は一時3台のひらがなタイプライターの使用を試みたり、またカード・キャビネットを10台も購入した。以上のことをまとめると、情報整理の基本原則は第1にシステム的に行なわれなければならないこと、第2に組替えが自由になされなければ、ならないことが、そのポイントである。
* 情報整理は生理的だ
さて,現実の情報生産はなかなか難しいものである。実際にカード・システムの欠点は膨大になった情報の管理もその一つである。私は結局、カード・システムを止めてしまった。その後、B4版の用紙を用いたりした。調査をするようになってから、資料が増え、袋にいれて整理したりした。しかし、ひょんなことで急に筆が進み始めた。それは、ある日突然、新聞に調査結果を発表することになり、とりあえず側にあったB5の便箋に書いたところ、きわめて早く書けてしまったことによる。この後私はB5の便箋を印刷所に持ち込んで刷ってもらい、原稿を書くのに用いるようになった。原稿のスピードは早くなり、多くの論文を書きあげることになった。これはどうしたことかと思い、いろいろ考えたが、どうも情報整理は生理的であるとの結論を得た。
一番大きいのはその人の視力ではないかと思っている。視力の強い人か弱い人か、遠視か近視か、眼が疲れやすいか疲れにくいか、などによりその人に適した書きやすい用紙のサイズがあると思う。ちなみに私は視力 0.1で限は疲れにくい方である。さらにその人の腕の長さも重要である。書斎の机と本棚との関係も腕の長さで最も効率的な配置が決まるであろう。この他、身長、座高、腕の強さなど生理的条件が現実的に情報整理の決定要因であろう。先に述べたひらがなタイプライターの場合、タイプを使った人の間でかなり個人差があることが解った。これは今日のワープロ・ブームにも通じるであろう。このところを見極めないとOA産業(人によっては虚業産業)のみを儲けさすだけのことになる。
かつてなくなられた東京大学教授池内一は「知的代謝論」という論文で個人の知的代謝には個人差が大きいことを示唆した。また私の専門分野の一つにマス・メディアの受け手がどのようにメディアを利用しどういった充足を得ているかという領域がある。この分野の理論は受け手が多様であることに結論が置かれている。情報整理は選択し収集した情報をいかに有効に活用するかという知的技術であるが、長年、実際にいろいろ実践・工夫していくなかでその人に備わる生理的条件が強く影響してくるという視点から研究されたものはこれまでになく、この仮説をゆくゆくは科学的にも実証してみたいと考えている。
* 小は大を兼ねる
さて情報整理でどのように情報を保管するかという問は、個人を取り巻く環境との関係に於て重要である。とかく都会の生活はなかなか場所がない。といっても質のよい情報をつくりだすには場所にこだわっていられないと、いった心理的側面もある。私の情報史を振り返ってもルーズリーフ(B5)→京大型カード→B4→便箋(B5)と繰り返してきた。先に述べた便箋システムで大部落ち着いてきたが、心のなかでは、大きいことは良いことだという意識が働いていた。文章をかくとき、考えるときは便箋紙が良いと思っていたが、それ以外はA4、B4などを使っていた。しかしこの考えを逆転させたのが4度目の米国留学であった。
このとき私は米国で名刺入れと同じ位のアドレス手帳を買い、これは命綱であるとともに米国での仕事で不便でなく十分足りてしまった。帰りの飛行機の中でなぜこんな小さい手帳でこと足りたかと思ったが、これは現在情報機器が軽量化、小型化に向かっていることに通じるように、小は大を兼ねることではないかと考えた。帰国後は一気に情報の縮小化に精力的に取り組んだ。サイズは2種類のみ、小はシステム・ダイヤリー(現在手帳数 400)、後はB5のサイズに全てを統一した。また機械化も進め大型ワープロ2台、コピー機の導入をはかり、手帳はシャープの電子手帳を使っているが、ものを考えるのは、やはりシステム・ダイヤリーである。そして情報の小型化と逆に情報量は増加し個人データベース化している。
要するに私の情報整理学とは前の基本原則を中心思想としてたえず自分に適したものを求めて行く情報体系化のプロセスといえよう。