田中求(大学からの研究仲間)
笹岡君と初めて話をしたのは、まだバブルの名残があった1991年4月だったかと思います。お互い大学1年生でした。酒好き、議論好き、麻雀好きなど、いろんな学生が集まる4人部屋中心の男子寮には掲示板があり、そこにアルバイトの紹介、サークルの勧誘などのほか、本や青春18切符のやりとり情報も載せることができました。社会学関連の本を誰かにあげようと情報を載せた際に、すぐに連絡してきたのが笹岡君でした。寮の1階のロビーで待ち合わせていると、二日酔いだったのか、やや不機嫌そうに本を受け取りにきたことを覚えています。
これ以降、大学院で同じ研究室になってからも、割と気軽に、「この本くれ」「飲みに行こう(ただし、金はない)」「このネタ使ってもいいか」と言ってくるのが当たり前の関係になっていきました。あるとき、小田実の「何でも見てやろう」が私の本棚にあるのを見つけて、笹岡君が「これくれよ」と声を掛けてきました。何となく意地悪をしたくなり、「自分で買えよ」と話すとあっさり引き下がっていきました。なぜか私が悪いことをしてしまったというような気持が残っていて、しばらくして「やっぱりこれあげるよ」というと、全然うれしそうな顔をせず、今更なんだよというような不満げな表情で受け取っていました。
真剣な表情で熱く議論してくるときの笹岡君の表情もとても印象に残っていますが、これはどういうことなんだろう、なぜなんだろうという感じで、不満と不信感が混ざった、きょとんとした感じでじっとこちらを見つめてくるときの表情もとても良く覚えています。
インドネシアを中心にフィールドに深く入っていた笹岡君と、ビルマやソロモン諸島で長期調査をしていた私とは、一緒に現場に入る機会はごく少なかったけれど、インドネシア・カリマンタン島の村での聞き取りの解釈をめぐって議論したり、大学院でのゼミでも自分の目と耳と足で集めてきたデータ、受け止めてきた思い、その伝え方、解釈の妥当性について、いつも議論を重ねていました。
共通の恩師である井上真さんは、よく研究を饅頭に譬えていました。既存の議論や文献などの整理など研究の背景や枠組み、自分の研究を相対化するための部分が饅頭の皮だとすると、フィールドワークなどで集めてきたデータとその分析、考察が餡子になる、というものでした。私は、餡子ばかりで透けて見えるくらい皮が薄い饅頭のような研究ばかりでしたが、笹岡君はたくさんの文献も読み込んで、自分の血と肉にしながら、皮も餡子もしっかりとした大きな饅頭を作っていたと思います。ゼミの後の飲み会で、「熱いばっかりのバカが理論武装しやがって」と絡んだり、喧嘩をしたりもしていましたが、笹岡君がどんどんフィールドを歩く中で、皮と餡子のバランスを整えていっているのを感じました。
笹岡君が北海道、私が高知に異動してからは、あまり会う機会がなかったのですが、またいろんな形で一緒に研究や実践活動ができるんじゃないかと思っていました。残念な思いがたくさん残っています。
これまで、ありがとう。どうぞ安らかにお眠りください。