井上 真(早稲田大学/笹岡さんの東京大学大学院時代の教員)
セラム島にて(1994.10)
上流の村に向かう船にて(1996, 10, 東カリマンタン州):左から笹岡正俊さん、田中求さん(現・高知大)、井上、原田一宏さん(現・名古屋大)
ぜミ懇親会にて(2007.04, 田中求氏提供)
笹岡さんの訃報を受け取ってから現在まで、あなたの写真を目にするたび、いまにも「井上さん!」と話しかけられるのではないかと思ってしまいます。
あなたは、東京農工大を卒業直後に、私がいた東京大学・林政学研究室の研究生になりました。それ以来、あなたとの付き合いはおよそ30年になります。
あなたが研究生だったとき、私は別の研究室の学生とあなたに声をかけて、インドネシアのセラム島でフィールドワークを行いました。コモンズ論で興味深かったサシ制度について情報収集するためでした。途中の焼畑の小屋で一泊し、山の中の村まで歩いて2日間でたどり着くという、なかなかハードな調査でした。
その後、あなたは修士課程に進学し、一年間の休学中にインドネシア大学文学部に留学しましたね。弾丸が飛び交うセラム島で実態を取材しインドネシア語の新聞に記事を載せた行動力の源泉にはあなたの情熱がありました。帰国して博士課程へと進学し、2002年3月に博士課程を単位取得退学しました。それから6年後の2008年に、森林科学専攻から農学国際専攻に移動していた私のところで手続きをして、セラム島を対象とした素晴らしい研究をまとめ、学位審査にパスし、博士号を取得しました。
こういう話をすると、多くの人は「師匠と弟子の関係」と思うかもしれません。でも、私自身はあなただけではなく、そもそもしっかりと自立していて、しかも私自身よりもずっと質の高い博士論文を書き上げた人たちを弟子だと思ったことはありません。特にあなたの場合は、学生時代に、その真剣な目で、時おり私に勝負を挑んできました。私も全力で考え、あなたに必死でボールを打ち返すことを繰り返しました。具体的な例には触れませんが、私はいつもあなたとの議論によって、自分自身を見つめ直し、軌道修正するという内省作業を繰り返していました。その意味で、あなたも、私を教育者として、また研究者として育ててくれた仲間なのです。
あなたと私は、社会の差別や不正義の現状を少しでも良くしたいという目標を共有している同志でもありました。ただ、それに向かう戦術面で違いがありましたね。あなたは立ち塞がる敵に向かって真正面から戦いを挑んでいました。それに対して、私は、まずは敵に対話の扉を開いてもらうためにどうすべきかいつも考えていました。
ちょうど、あなたと出会った少し前の1993年に創刊された『週刊金曜日』という雑誌があります。スポンサーの意向を気にせず市民の立場から主張できるジャーナリズム、権力を監視し物申せるジャーナリズム、を目指して創刊された雑誌です。あなたも私もこの雑誌を定期購読していましたね(私は今でも定期購読しています)。この雑誌の編集委員のなかに本多勝一さんと筑紫哲也さんがいました。先ほどの戦術の違いに絡めて、あなたは本多勝一さんで、私は筑紫哲也さんのようだね、と笑い話をしたことが懐かしく思い出されます。
最後になりますが、私が早稲田大学に移動した年に始まった科研費のプロジェクトで、あなたは研究分担者としてインドネシア・カリマンタンの砂金採取にかかわる問題に取り組んでくれました。それをあなたなりに展開し、あなた自身が研究代表者として申請していたプロジェクトが採択されました。同時に、私を研究代表者とし、あなたに引き続いて研究分担者になってもらって申請したプロジェクトも採択されました。これらのプロジェクトを辞退せざるを得なくなったあなたの無念さは計り知れません。
あなたが育てた若い人たちが、あなたの遺志を継いで研究を発展させてくれることでしょう。そして、あなたとの切磋琢磨で育てられた私自身も、あなたとの思い出を抱きしめながら教育・研究を進めていきます。
北海道大学で宮内さんほか素晴らしい同僚と学生たちに恵まれ、またご家族の愛情に包まれながら過ごされた日々は公私ともに充実し、幸せな日々だったと思います。わたしとも、かけがえのない時間を長いあいだ共有してくださり、ありがとうございました。
どうか安らかにお眠りください。 2025年7月