Rory Live 1995
and beyond
and beyond
image from CD USA 1995
Notes
Date notation: YEAR/MONTH/DAY. Not every date and place are accurate.
These lists do not cover all live performances of Rory Gallagher. Archived the song titles I have listened to from official/unofficial released albums or bootlegs which I have got from collector friends.
These are not the complete setlists of his live shows. Frequently, only the sources have remained with the number of songs reduced and the order of songs changed.
I'm no longer trading those sound/video sources or collection.
Megumi M.
ロリー・ギャラガーの全ライブを網羅的にアーカイブ化しているわけではありません。公式・非公式にリリースされたアルバムやライブ映像、コレクター仲間とのトレードで入手した音源から、私自身が実際に聴くことができた曲名リストです。
ロリー・ギャラガーのライブの完全なセットリストではありません。ライブを最初から最後まで録音できなかったり、(特に昔のブートレッグはLP両面で40~50分程度しか入らなかったので)曲数が削られたり、曲順が変えられたりした音源しか残されていないことも多いのです。
日付表記は 年/月/日 の順。日付不明や不正確な場合もあります。
1994/01/ a day of 2nd, 3rd or 4th maybe some studios in Dublin, Ireland (recording for Samuel Eddy's album)
Falsely Accused (with Rory Gallagher on guitars and adlib shouts)
band: Samuel Eddy (vocals/guitars), Gerald O'Sullivan (bass), Ger Farrell (drums), Paul Cantwell (drums)
1995/09/ Samuel Eddy - Strangers On The Run released
2008 Eamonn Mc Cormack - Kindred Spirits released (re-issue the track with Rory)
Samuel Eddy was a stage name, his birth name is Eamonn McCormack. A blues rock musician born and raised in Dublin.
I want to excerpt from a book published in 2024, Rory Gallagher - The Later Years by Lauren Alex O'Hagan & Rayne Morales:
"The whole studio shook with the sound. [Rory] was ten years younger. He was jumping around and you could feel the experience he had." We as the listener can gain a sense of Gallagher's enjoyment from not only his guitar playing, but his animated shouts in the background which echo some of McCormack's verses.
ダブリンに生まれ育ったゴリゴリのブルースロック・ミュージシャン、サミュエル・エディ(は当時の芸名、現在は本名のイーモン・マッコーマックで活動)のアルバムにゲスト参加。マッコーマックが用意した歌詞はアメリカのギャングが主人公で、ロリー好みの題材だった。1995年が明けてすぐ、おそらくロンドンではなくダブリンのスタジオで、一日で録音されたようだ。このアルバムにはオランダのギタリスト、ヤン・アッカーマンも「Night In The 'Dam」「Mystica」という2曲でゲスト参加したが、何と言っても子供の頃から憧れのヒーロー、ロリーとの共演がマッコーマックは一番嬉しかったようだ。ロリーの健康問題の悪化と音楽的衰退が世間で取り沙汰されていたが、マッコーマックのロリーとのスタジオでの経験は、全くそれを覆して活気に満ちたものだったらしい。
「スタジオ全体が揺さぶられるようなサウンドだった。(ロリーは)10歳も若返っていた。彼が飛び跳ねて回るのを見れば、彼の経験が君にも感じられたはずだ。」(このCDを聴けば)ギター演奏だけでなく、マッコーマックの歌の背後に響く快活なシャウトからも、ギャラガーがどれほど楽しんでいたか、リスナーとして我々も感じ取ることができる。
引用・参考書籍:Lauren Alex O'Hagan & Rayne Morales, Rory Gallagher - The Later Years, 2024
Samuel Eddy: Strangers On The Run, CD 1995 (image courtesy of Naoko)
Eamonn McCormack: Kindred Spirits, CD 2008
Eamonn McCormack: Kindred Spirits, CD 2008 (back)
Rory with Eamonn McCormack as Samuel Eddy 1994 or 1995 (image from inner of Eamonn McCormack CD 2008)
with David Levy (bass), Richard Newman (drums) and Mark Feltham (harmonica)
tour poster of Paradiso Amsterdam 1995/01/07, with Energy Orchard as opening act (image courtesy of Wim)
1995/01/05 (Thursday) De Hanenhof, Geleen, Netherlands
Set list undiscovered.
ロリーの健康状態を懸念しながらもスタートしたオランダ短期ツアー初日のこのコンサートで、ツアーマネージャーだった弟のドナル・ギャラガー氏はロリーの体調が悪すぎることを知り、以後全てのライブをキャンセルするようバックステージでロリーを説得しようとしたが、兄弟は「30年ぶりの大喧嘩」になり、ドナルは一人でロンドンに帰ってしまったという。
参考書籍:Julian Vignoles, Rory Gallagher - The Man Behind The Guitar, 2018. Lauren Alex O'Hagan & Rayne Morales, Rory Gallagher - The Later Years, 2024
1995/01/06 (Friday) De Vrijhof, Enschede-Hellendoorn, Netherlands
Continental Op
Moonchild
I Wonder Who
Don't Start Me Talking
I Could've Had Religion
Ghost Blues
Out On The Western Plain
Walking Blues
Tattoo'd Lady
Shadow Play
A Million Miles Away
Rory's last tour in Netherlands. Great and beautiful concert this evening in Enschede. But he was in awful condition next evening 1995/01/07 at Paradiso Amsterdam.
小さな国オランダを生涯になぜか幾度もツアーして周ったロリーの、最後のオランダ・ツアー、1995年1月6日のエンスヘデで残された美しい録音。
ギター演奏の質は良かったが、以前ならステージ狭しと走り回っていたロリーが、このコンサートの間じゅう椅子に座ったままだったのはロリーらしくなかった……と、長年のファンが談話を残しているようだ。
1995/01/07 (Saturday) Paradiso, Amsterdam, Netherlands
Martin Hutchinson Band replaced Energy Orchard as a support act.
N/A set list or any recordings.
Paradiso witness Wim talked to me, Rory could not stay standing more than 5 minutes to play every song. Play 5 minutes, stop, then play 5 minutes again, stop again. He tried to give everything he had into every moment, but nothing did work. What had hurt the hearts of fans from old time most, it was, younger audience yelling at him because they did not know who the guy was and what the guy had done. Older fans were disappointed to see their hero in such condition but still they had respects for him, feeling Rory desereved to be respected by every generation...
Then Rory gave beautiful concert again next evening 1995/01/08 in Leeuwarden, but that was the last. 1995/01/10 in Rotterdam he collapsed on stage.
エンスヘデの翌日、1月7日、アムステルダムのパラディソでロリーのコンサートを見たという友人が私に直接語ってくれた話。
「あれはまるきり酷いコンサートだった。ロリーは5分と続けて立っていることすらできないんだ。5分やっては中断、再開して5分やってはまた中断だ。そんなにしてまで、なぜロリーはステージに立たなきゃならない?彼は短い演奏の一瞬一瞬に持てるもの全てを注ぎ込んだが、どれもうまく行かなかった。俺達のヒーローがこんなあり様でがっかりはしたが、それでもまだ俺達の世代は彼を尊敬していた。何が一番悲しかったかって、ロリーがどんなにすごい人か知らず、敬意のかけらも持たない若い連中が、彼に向かってひどい野次を飛ばしたことだ。気の毒すぎて涙が出た。だけどその翌日1月8日のレーワルデンのコンサートは、それはそれは素晴らしかったって言うんだ。それがロリーなんだ!」
1月10日ロッテルダムのステージでついに倒れ、その後のツアーを全てキャンセルしたロリーは、それから約5か月後に帰らぬ人となる。1月7日のアムステルダムも、1月10日のロッテルダムも、録音は残されていないのか、あるいはオランダの心あるファンが、それを秘して出さないのか……。
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ここにもう一人、パラディソでの自身の体験は「disaster 惨事」だったとして、2023年4月に書き下ろした文章を届けてくれた人がいる。彼は70年代終わりからロリーファンだったが、みもふたもない記述が見られるのは、同じくロリーファンだった長年の親友が亡くなり、感情があふれ出たのだと思いたい。
Here we've got another serious Rory fan talking his Paradiso experience. He recently lost a close friend of many years whose name was Marc, also a great Rory fan, and decided to write this memoir.
The concert was a disaster. Rory was drunk, and he could hardly perform. Playing out of tune, hitting the wrong notes, or simply playing in the wrong key. Several attendants left before the show was finished. We stayed until the end, hoping for betterment - against all knowledge. We didn't boo Rory (some audience members did), but there wasn't much reason for a big applause either. This felt like a big letdown, what a disappointment. Marc was almost beyond disappointed, sort of pissed, and he was comforted, more or less, by his wife, after we came home. He just couldn't believe it. Rory was one of his musical heroes.
Something else that I remember, relating to this disastrous performance in Amsterdam, is that I discussed it, shortly afterwards, with one of my colleagues, a woman. She had a boyfriend who was a real hardcore RG fan. You know, those guys who go to see as much concerts as they can, not only in the Netherlands but also abroad. It doesn't matter, they just go everywhere if they can, travelling together with a bunch of friends. The 'Volkswagen minivan, jeans, checkered shirt and sneakers' types. Anyway, the colleague told me that her friend - who even spoke to Rory's brother and manager before or after the show - was also very pissed, and absolutely not amused about what had happened.
(story by Jeroen J, April 2023)
(訳)悲惨なコンサートだった。ロリーは酔っていてほとんど演奏できなかった。音程を外し、違う音符を弾き、間違ったキーで演奏を続けさえした。何人かの客はライブが終わる前に出て行った。自分達はもしかしたら後の方でマシになるかもしれないと最後まで留まった。自分達はロリーにブーイングを浴びせたりしなかった(客の中にはいた)が、大喝采する理由もなかった。まったくの期待外れ、がっかりだった。マーク(親友)はがっかりを通り越して腹を立て、帰ってから多少は妻になだめられたが、とにかく彼には信じられない出来事だった。ロリーは彼のミュージック・ヒーローだったのだから。
この悲惨なアムステルダム・ライブについて他にも思い出すことがある。ほどなくして自分は同僚の女性とその話をした。彼女にはハードコアなロリーファンの男友達がいた。コンサートがある所どこにでも、オランダ国内だけでなく外国にまで行くような男達だ。どうでもよいことだが、彼らは行ける所ならどこまでも、友達で群れて旅する「フォルクスワーゲンのミニバン、ジーンズ、チェックのシャツ、スニーカー」タイプだ。とにかく同僚が言うには、彼女の男友達は、あのライブの前だか後だかにロリーの弟・マネージャーと話もしたそうだが、それでもやはりあの出来事は全く面白くないと立腹していた。
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パラディソ公演のプロモーターが当時オランダの新聞に語ったところによると、最初の30分間は惨めだったが、その後いくらか良くなった、45分を過ぎると客の半分以上が消えたが、その後も残っていた客はアンコールを求めた……。多くの新聞がロリーは酔っぱらっていたと書き立てたようだが、もちろん事実に反する。
Paradiso, Amsterdam (photo by Megumi 2009)
Paradiso, Amsterdam (photo by Megumi 2009)
ticket for Paradiso Amsterdam 1995/01/07 (image courtesy of Jeroen)
1995/01/08 (Sunday) Harmonie, Leeuwarden, Netherlands
Continental Op
Moonchild
I Wonder Who
Don't Start Me Talking
I Could've Had Religion
Ghost Blues
Out On The Western Plain
Walking Blues
Tattoo'd Lady
Shadow Play
Total 77 minutes good audience recording exists. Yes, Rory entertained audience in Leeuwarden from the bottom of his heart this evening of 1995/01/08, one stage before his last stage of his life in Rotterdam. Especially beautiful solo performance was Out On The Western Plain. At the end of last song Shadow Play, he talked and gave promise to people that he would see them soon and do his best.
ロッテルダムで倒れる2日前、1995年1月8日レーワルデンのステージを客席から録った77分間のオーディエンス録音が残されている。かすれ声で叫ぶようなロリーの歌声、死力を尽くしたギター。特にステージ上に彼ひとり立った「Out On The Western Plain」は美しい。最後に前夜アムステルダムでのトラブルを詫び、「近いうちにまたお会いしましょう。私のベストを尽くします。」と客席に挨拶して、ロリーは彼のラストの曲「Shadow Play」を弾き終える。
1995/01/10 (Tuesday) Nighttown, Rotterdam, Netherlands
Rory collapsed on stage, the show had to be stopped prematurely.
1月10日、ロッテルダム。何を演奏したのか、それとも1曲も演奏されずに終わったのか、それすら明らかではない。ロリーはステージ上で倒れ、コンサートは早い段階で中止された。
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これまでロリーのどの年譜や伝記を見ても、最後はステージ上で「collapsed」(倒れた、意識を失った)……。ロリーはそのまま救急車で病院に運ばれでもしてキャリアを終えたかのような思い込みに、少なくとも私自身は捉われていたが、2024年発行の書籍『Rory Gallagher - The Later Years』は当日その場にいたファン、バンドメンバー、リムジン運転手らの記憶を丁寧に引き出し、そこに「collapsed」という言葉は出て来ないことを主張している。ただ彼は2曲めの途中で弾くのを止め、ステージから退出したのだと……。
「黒い髪のアイルランド人ギタリストを一人、アムステルダムからロッテルダムまでベンツで送迎する」という一日限りの(で終わるはずだった)フリーランスの仕事を、1月9日プロモーターからの電話で引き受けた青年は、初めゲイリー・ムーアと勘違いしたらしい。彼はロリー・ギャラガーの名前ぐらいは知っていたが、そのレコードもCDも持ってはいなかった。1月10日アムステルダム市内のホテルで落ち合ったロリーの荷物は、スーツケースとブリーフケース、それに片時も離そうとしない古いギターケース一つ。彼はひどく具合が悪そうで不機嫌に見えた。運転しながら青年はロリーに話しかけたり、オランダのバンドのCDをかけたりするうち、ロリーの態度は少し和らいだが、「もう誰も私には敬意を払わない」と繰り返し言ったともいう。ロッテルダムに着くと会場ナイトタウンに行く前にヒルトン・ホテルに寄ってほしいとロリーは言い、フロントで最上階のスイートを取り自分で支払いを済ませると、部屋に医者を呼ぶよう依頼した……。
会場ナイトタウンではロリーの到着の遅れにバックステージは混乱し、客席は怒りの声が渦巻いていた。演奏がスタートするとバンドとロリーは別々の音を弾いて、何の曲だかわからない状態になった(オーディエンス録音が残されている1月6日エンスヘデ、1月8日レーワルデンと同様とすれば、予定は (1) Continental Op, (2) Moonchild だったはずだ)。ロリーと客が言い争いになったという複数の証言まで出ている。客の多くが困惑したり怒ったりして帰り始め、途方に暮れて楽屋に下がったバンドメンバーが泣いているのを、ドライバーの青年は傍らで目撃する。ロリー一人がまだステージ上で客と言い争っていたとも、演奏を止めてしまったロリーをハーモニカのマーク・フェルトハムと何人かのローディがステージから連れ出した後も、主催者がコンサート中止をアナウンスするまでバンドは演奏を続けたとも(時系列的な前後関係は複数説あってよくわからない)。
その夜ロリーと彼に付き添うサウンドエンジニア、リムジンドライバーの青年の3人はアムステルダムに戻り、ホテルのバーが閉まる午前1時まで飲んだ。ロリーは翌11日の午後に起きるが、宿泊先を2度変え、最後にチェックインしたホテルで再び医者を呼んだ。部屋から降りて来た医者にドライバーの青年がロリーの具合を尋ねると、医者はロリーがかなり悪い状態だということ、問題は彼が行く先々で別の医者を呼んで処方箋を受け取り、多種類の薬を混ぜてワインか何かでいっぺんに流し込むことだと告げた。ちゃんと治療を受けるために、ロリーをロンドンに帰さなければならないと青年は思った。
参考書籍:Lauren Alex O'Hagan & Rayne Morales, Rory Gallagher - The Later Years, 2024
Nighttown, Rotterdam (photo by Megumi 2009)
Nighttown, Rotterdam, shuttered during daytime (photo by Megumi 2009)
1995/01/11 Tivoli, Utrecht, Netherlands
Cancelled
1月11日ユトレヒトのコンサートは中止。前日ロッテルダムの会場でのトラブルの直後もなおロリーは、ツアーの残りの日程(11日ユトレヒト、12日ティルブルフ)を続行するつもりでいたのか、パラノイア的な妄言とも言える発言(その内容はここでは控える)があったらしいが、ツアーのキャンセルはオランダのプロモーター側から決められたのだろう。
1月11日、アムステルダムのホテルのレストランに、ロリーはサウンドエンジニアとリムジンドライバーの青年を招き一緒に食事した。ボブ・ディランとのレコーディング(の期待)などを話したらしい。翌12日の午前5時、エンジニアからドライバーに「ロリーが今朝できるだけ早い便でロンドンに戻りたがっている」と電話があった。スキポール空港に向かう車中でロリーは青年に「一緒にロンドン行きの便に乗って、私のための仕事をする気はないか?」と言ったそうだ。空港での別れ際、青年は『タトゥー』のCD(前日に慌てて買ったのだろう)にロリーのサインをもらい、優しい言葉をかけてくれたロリーのために用意したプレゼントを渡した。「ロリー、良い事だけを憶えていてください」というメッセージを店頭刻印したマネークリップだった。その場で包みを開けてそれを見たロリーは、サングラスの下で大粒の涙を流した。君のためには何も買う時間がなかったからと、ロリーは自分の腕時計を外し、3日間共に過ごしたドライバーの青年に渡した。その後の5か月間、彼がロリーの消息を耳にすることはなかった……。「ロリーはすごくナイスで、すごく優しく、すごく思いやりのある人だった。だが彼は独りぼっちで、とても孤独な人だった。パラノイア、飲酒、健康上の問題のせいだったとしても、私の中では彼の孤独の印象が大きい。」
参考書籍:Lauren Alex O'Hagan & Rayne Morales, Rory Gallagher - The Later Years, 2024
1995/01/12 Noorderligt, Tilburg, Netherlands
Cancelled
Two remaining concerts were cancelled. For one of these, I had a ticket: Noorderligt in Tilburg. Rory Gallagher about to play in my hometown - but after all, it wasn't to be. And actually, I didn't even regret it that much, after the Paradiso disaster that I witnessed, and I got my ticket refunded.
I have a book, which is all about the venue Noorderligt - the venue doesn't exist anymore. The book includes a 1 page item about RG not playing there. Article header: Rory Gallagher didn't make it to Tilburg.
(Jeroen J, April 2023)
(訳)残された2回のコンサートはキャンセルになった。その一つ、ティルブルフ・ノールダーリフトのチケットを自分は持っていた。ロリー・ギャラガーが自分の故郷の町で演奏するはずだった。だが結局それはなくなってしまった。じつを言えば、あのパラディソでの悲惨なライブを目撃した後では、あまり残念だとも思わず、チケットの払い戻しを受けた。
今は存在しない会場ノールダーリフト(訳註:1998年に閉鎖)のすべてが書かれた本を自分は持っているが、その1ページがロリーのこの件についてだ。タイトルは「ロリー・ギャラガーはティルブルフに来なかった」。
A page from a book published much later about Noorderligt, venue in Tilburg Netherlands (image courtesy of Jeroen)
(訳)ロリー・ギャラガーはティルブルフに来なかった
アイルランドのブルースロック・キング、ロリー・ギャラガーが、1995年1月12日木曜日、ついにティルブルフにやって来る。
私はこのプレスリリースに躍り上がったが、すぐにまた沈み込んだ。ノールダーリフト・シアターでのコンサートは、ヘレーンからスタートする短期オランダ・ツアーの最終日。「そううまくは行くまい」と私はライブ仲間のヴィックにこぼした。彼は肩をすくめ「奇跡が起きるかもだ」と言った。
私は1月5日付けのブラバンツ・ダグブラッド紙に個人的な記事を書き、その中で1974年10月20日にブレダのターフスチップで行われたロリー・ギャラガーの忘れがたい衝撃的なコンサートについても触れた。いつものようにジェリー・マカヴォイがベースで、ドラムはロデリック・モリス・バッケンハム(訳註:ロッド・ディアス)。名作『ライブ・イン・ヨーロッパ』のリリースから2年後のことだった。特にマンドリン伴奏が魅力的な「Going To My Hometown」は私の音楽の記憶に焼き付けられた。
結局ロリーは1995年の短距離走をゴールできなかった。4、5回の公演の後、彼はロッテルダムのナイトタウンのステージで倒れ、彼のマネージャーはツアーの短縮と終了を告げた。
ノールダーリフトの関係者ロジャー・シュミッツが15年後にインターネット上に公開したブログの中で、その時の失望を綴っている。「私の偉大なヒーローのひとりがノールダーリフトでライブをすることになっていたので、私は何としても(早退して?)家に帰りたかった。駅からまっすぐ家に帰り、自転車でフェルドフォーフェンリンクへ向かった。グローゼインド通りの近くまで来ると徐々に何かがおかしいと感じた。会場に向かって歩く人もなければ、いつもより車が多いでもなく、屋外照明もなく、レジ前の混雑もない。まさか!近づくと、照明がまったくついていないことに気づき、扉の前で手書きのA4の紙1枚だけが目に留まった。『ロリー・ギャラガー、キャンセル。』すごく腹が立ち、がっかりして自転車で帰ったのを憶えている。ロリーの演奏を二度と見ることができないと、私はその時まだ知らなかった。」(その後のロリーの肝臓移植から死に至るまでの説明的記述が続くが訳文省略。)
ロジャーはこのブログの下にふさわしいアコースティック曲「Too Much Alcohol」のYouTubeクリップを付け加えている。
ローラン・ヴァイフェルス
"On January 10th, Rory collapsed on stage in Rotterdam, and the tour had to be cancelled." That was all information which I could have got to know. So my chronology of Rory had ended on January 10th, 1995, the rest of the Dutch tour after this date had remained a mystery for long years. The matter had been rarely talked about until Jeroen sent me his own experience and Dutch descriptive material. What's more, I had never thought of that, there were fans who faced with concert cancellations and got the ticket refunds. It might be natural to think that Rory had some tour schedules until a few months ahead after the Dutch tour. I have no idea whether his management decided the cancellation all at once or cancelled out one by one considering the possibility to restart tours if his condition improved. After all, many people got their tickets refunded. How they felt at it..... got pissed? Expected the next chance or didn't expect anymore? How many fans really knew and got worried about Rory's health? .....Now it's too late to ask. (by Megumi)
「1月10日ロッテルダムのステージでロリーは倒れ、ツアーはキャンセルされなければならなかった」……という記述しか私は見たことがなかったので、ロリーのライブ年表の最終行は1995年1月10日で終わっており、オランダ・ツアーの残された日程については長年の謎だった。さらには「自分は1月12日のコンサートのチケットを持っていた」というオランダ人が(2023年4月、ロリーファン仲間だった親友の死をきっかけに)現れて具体的な証言を届けてくれるまで、キャンセルでチケットの払い戻しを受けたファンの存在にまで、私の思いが及んだことはなかった。当初1月12日が最終日の予定だったオランダ・ツアーの後も、何か月か先まで、ロリーは公演予定を入れていたのではないだろうか?そう考えるのが自然だ。(後記:私のこの考えに対して「オランダ・ツアーのスタート前からロリーの体調は悪化していたので、後の公演予定は入れていなかったと思われる」という反論も寄せられた。)オランダ・ツアー中断後ただちに、以後の全公演日程のキャンセルが決断されたのか、あるいは病状が回復したら公演を再開するつもりで、でも日程の接近につれて次々と、結局最後には全てをキャンセルすることになってしまったのか、わからないが、いずれにせよ、そこにはチケットの払い戻しを受けた大勢の人々がいたはずだ。上掲の記述に見る証言者のように、彼らはやはり腹を立てただろうか?次のチャンスに期待したか、それとも諦めてそれ以上期待しなかったのだろうか?ファンの中のどれほどの人がロリーの体調悪化を知っていて心配したのだろうか?皆どんな気持ちだったのか……。今となってはそれを問うこともできない。
ロリーのようにひたむきな、ライブでファンと向き合い喜ばせたいと願い続けたミュージシャンが、客を怒らせるこのような形でステージに別れを告げなければならなかったことは、悲劇というより「残念」だ。だがひっくり返して言えば、彼はステージ上で「倒れた」のではなかった、最後までファイティング・ポーズで立っていたのだ。彼のミュージシャンシップは1995年1月10日のロッテルダムで終わったのではなかった。ここにロリーがオランダ・ツアー中のインタビューに答えたといわれる言葉がある。
「オランダ・ツアーの後はアイルランドで少し休暇を取り、それから何枚かのアルバムに取り掛かります。曲はもう書いてあるんです。それらの仕事が本当に楽しみです……」
"After the Dutch tour I'm taking a little break in Ireland and then the albums. I have them written, I'm really looking forward to doing them....."
from the last interview with Radio Hengelo, after the concert in Enschede 1991/01/06 (broadcast 1991/01/11)
1995/03 - Rory admitted to King's College Hospital, London, got liver transplant surgery, spent 13 weeks in intensive care, and during the recovery period he suddenly got MRSA infectious disease which made him into a serious condition.
1995/06/14, Wednesday morning King's College Hospital, London, UK
Rory died at the age of 47.
ロリーは1980年代半ばから医者に処方されたステロイド剤の服用を続けたということで、1990年前後から顕著だった彼のムーンフェイス(満月様顔貌)はその副作用の一つと思われる。そのうえロリーはしばしば腹痛を起こしていたようで、複数の医師から重複して処方箋を出してもらい、鎮痛剤を大量に服用していたらしい。ロリーの場合は長年にわたるアルコールの摂り過ぎのせいもあり、習慣的な多剤服用が深刻な肝臓障害の原因となってしまったようだ。肝不全で一時ロンドンのクロムウェル病院に入院、その後3月にキングス・カレッジ病院に転院する。キングス・カレッジの医師は、ロリーの47歳という若い年齢では異例だが、肝臓移植しか救う方法がないと判断。手術は成功し、13週間の集中治療で快方に向かうと思われた矢先、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)感染症で突然の危篤に陥り、1995年6月14日の午前中、ロリーは息を引き取った。
(おことわり:英国やアイルランド、特に本人の故郷アイルランドでは Rory Gallagher は「ローリー・ガラハー」のように発音されるのが一般的ですが、日本での長年の慣例に従ってカタカナ表記は「ロリー・ギャラガー」で、以下の記述も通します。)
The Irish Times 1995/06/15 issue
『アイリッシュ・タイムズ』1995年6月15日、第1面・第2面
(訳)ブルース・ギタリスト、ロンドンで死去
ブライアン・ボイド
絶賛されるべきアイルランドのブルース・ギタリスト、ロリー・ギャラガーが、昨日ロンドンの病院で死去した。ギャラガーは47歳、今年早くに肝臓移植手術を受け、回復の途中だった。
30年以上の成功に満ちたキャリアにおいて、ロリー・ギャラガーは1400万枚のレコードを全世界で売り、アイルランド初の国際的ロック・スーパースターの一人だった。
彼はドネゴール県バリーシャノンに生まれ幼少期にコークに移住。15歳で最初のグループ「フォンタナ・ショーバンド」に加わったが、3年後に自身のグループ「テイスト」を結成し脚光を浴びるようになった。
テイストは4枚のアルバムをレコーディング、うち『On The Board』(1970) が最も有名だが、そのリズム&ブルースの爆発力で大きな名声を獲得した。テイスト解散後のギャラガーはソロ・キャリアを追求、『Deuce』(1973) (正しくは1971) や『Live In Europe』(1974) (正しくは1972) などのアルバムでヨーロッパ音楽界、特にドイツでメジャーなスターとなった。
彼のキャリアは80年代わずかに陰りを見せ、90年代は非常に目立たない存在だったが、その間も常に彼はギターの名手として認められ、シン・リジィやU2をはじめ彼の通夜に来たアイルランドのバンドは、常に最大級の敬意をもって彼を語った。
ロリー・ギャラガーは一度も結婚せず、ロンドンのチェルシーに一人暮らしだった。1992年ダブリンのテンプルバー・ブルース・フェスティバルが、彼のアイルランドで最後の演奏となった。
音楽雑誌『ホット・プレス』編集長で個人的にもギャラガーの友人だったナイアル・ストークスが、昨夜以下の追悼文を寄せた。「ロリーは偉人の一人であり、彼の演奏を聴いたり見たりしてロックンロールを愛するようになった全ての世代に、途方もないインスピレーションを与えた。今日のアイリッシュ・ロック隆盛の物語も、彼なしには始まらなかったと私は思う。
彼は大いなる誠実さと全き献身を、本物の音楽作りに示した。彼は素晴らしいギタープレイヤーだったが、ソングライターとしての優れた才能はしばしば過小評価された。」
Evening Standard (London UK) 1995/06/15 issue (image courtesy of John W.)
ロンドンのタブロイド紙『イブニング・スタンダード』1995年6月15日
(訳)ブルース・スターのギャラガー、肝臓移植後に死亡
サンドラ・ラヴィル
偉大なブルース・ギタリストの一人、ロリー・ギャラガーが、肝臓移植から数週間後にロンドン市内の病院で死去した。
生々しく情熱的なブルースにより世界的名声を達成したキャリアの後、彼は46歳(正しくは47歳)で亡くなった。フルハムに住んでいたギャラガーは、世界最高の移植部門を持つキングス・カレッジ病院で最近肝臓移植を受けた。
だが彼は提供された肝臓の合併症で昨日死亡した。
彼の弟でマネージャーのドナルド(正しくはドナル)の動揺は大きく今日はコメントがなかった。
ギャラガーはアイルランド北西部バリーシャノンに生まれ、初めてギターを手にしたのは6歳の時、主にエルヴィス・プレスリーとロニー・ドネガンの影響を受けたと公言した。
1965年に彼が結成したテイストはアイルランドのクリームと絶賛され、ジミ・ヘンドリクスがヘッドライナーを務めた第2回ワイト島フェスティバルに出演した。
1971年、様々に報じられたような仲間割れにより彼はテイストを解散させた。彼はバンドメンバーの欲深さを告発、メンバーは彼が独裁的だと告発した。
70年代80年代のソロ・キャリア中にギャラガーは25回のUSツアーと数回のワールドツアーを達成し世界的名声を得た。
彼は決して故国に背を向けたわけではなく、アイルランドのポップミュージック・タレントの国際的発展を主導し、70年代のベルファストで一連のニューイヤー・コンサートをおこなった。
批評家はアルバム『アイリッシュ・ツアー’74』を彼のベストと認定した。
特にアメリカにおいて彼は音楽シーンから消えかけたが、1990年、アルバム『フレッシュ・エヴィデンス』によりステージにカムバックした。
近年ではフィンズベリー・パークで開催されたアイリッシュ・フラーなど多くのフェスティバルに出演していた。
Mark Feltham: "Donal asked me to go down to King's (King's College Hospital, London) when he slipped into a coma. He'd spoken to the doctors and he said, 'Is there any likelihood that he can pull out of this coma if Mark goes down and plays?' They gave it their OK. So I went down to King's, took the harmonicas, got the doctors out of the room and started playing at his bedside. I played some blues and country stuff for him, you know. To try to... spark him up. I was there for about an hour doing that."
"But he never came through. And when he passed away we were all standing there with him."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
マーク・フェルトハム(訳)彼が昏睡に陥った時、俺はドナルにキングス・カレッジ病院に来てくれと頼まれた。ドナルは医者達と「もしマークがそばに行って演奏したら、この昏睡から抜け出す可能性はありますか?」という話をしていて、医者がOKを出した。だから俺はハーモニカを持ってキングス・カレッジ病院に行き、医者達には病室から出てもらって、彼の枕元で吹き始めた。ブルースやカントリーを何曲か、彼のために吹いたんだ。彼を…叩き起こしたいと思って。俺は1時間ぐらいそこにいて、そうやって吹き続けた。
だが彼はもう戻って来なかった。彼が亡くなる時、俺達は皆、彼のそばに立ち尽くしていた。
Phil McDonnell: "I was in a hotel in the north of England. I was just sitting there watching the TV, looking over the golf course, and I got a call from my wife. She said, 'Phil. I've just had a call from Germany. From my brother. He's just heard on the radio that Rory's dead.' It was incredible. And I'm stuck up in this country hotel up in the middle of nowhere in the north of England. My heart sort of sunk. I said, 'Don't be stupid, woman. Fuckin' don't be stupid.' And she said, 'Phil, he's gone.' And it was just something you didn't want to admit to. I kinda went into a state of shock. I said, 'OK. Let me go and I'll speak to you later.' And I just picked the phone up and I made a phone call to Gerry. I told Gerry. I told Ted."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
フィル・マクドネル(訳)俺はイングランド北部のホテルにいた。座ってテレビでゴルフをぼんやり見ていたら、ワイフから電話が掛かって来た。「フィル、今ドイツから電話があったの。兄からよ。たった今ラジオで、ロリーが死んだと聞いたって。」信じられない話だった。しかも俺はイングランド北部のどこでもないどこかのまん中で立ち往生していた。俺はうんざりして「ばかを言うな、おまえ、まったくそんなばかなことを」と言った。だがワイフは「フィル、彼は亡くなったのよ」と言った。それこそが誰も認めたくない事実だった。俺はちょっとしたショック状態に陥って「わかった。 帰るから後で話そう」と言った。それからすぐ、俺はジェリーに電話して、ジェリーに話した。テッドにも話した。
Gerry McAvoy: "I was at home. I got a phone call from Phil McDonnell, who was in tears. Eventually I got through to Donal and he told me what happened. I couldn't believe it to start with. It was a complete loss. A sad loss. I got together with the whole family to express my feelings on the whole thing. It was very sad. And I became a part of the unit for those couple of hours.
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ジェリー・マカヴォイ(訳)俺は家にいた。フィル・マクドネルから電話があったが泣くばかりだった。結局俺はドナルに連絡を取って、何が起こったのか教えてもらった。最初は信じることができなかった。全くの喪失、悲しい喪失だった。俺は家族全員を集めて、このことに対する俺の思いを言い表したが、とても悲しかった。それから2時間ばかりは茫然自失だった。
Brendan O'Neill: "Gerry called me. He had just heard. And he said, 'I've got some terribly bad news.' And as soon as he said that I just knew. But Rory being Rory, you just never believed he would die. You always thought he would fight through it. And win. Because he would often win."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ブレンダン・オニール(訳)ジェリーが電話して来た。彼もついさっき聞いたばかりだった。「恐ろしく悪い知らせだ。」そう聞いた途端、俺は悟った。だがロリーのことだ、彼が死ぬなんて誰も信じないだろう。いつも彼は戦うものだと思ってきただろう。勝つものだと思ってきただろう。だってたいてい彼は勝つはずだったから。
The Irish Times 1995/06/16 issue
『アイリッシュ・タイムズ』にギャラガー家が出した死亡告知
The Irish Times 1995/06/16 issue
『アイリッシュ・タイムズ』に出された葬儀告知
The Irish Times 1995/06/16 issue (courtesy of Cork City Library)
「忘れるなかれ 今朝はおそらく多くの人々が、ロリー・ギャラガーのことを考えているだろう。水曜日にロンドンの病院で死去した彼の、47歳という若すぎる死のゆえに。だが、はたしてそのうちの何人が、火曜日に彼のことを考えていただろうか?悲しいことに、ギャラガーはアイリッシュ・ロックの偉大な、だが時が経てば忘れ去られる名前の一つとなる可能性もあるのだ。……」
「全世代を通じてトップ10ギタリストの一人でした。だがそれより重要なのは、善良な男のトップ10に数えられる人だったことです。僕にとって本物のアイリッシュ・ロックバンドの経験、その最初がテイストでした。ボノ」
Lou Martin: "I was here where I am now, up in Edinburgh. I knew that Rory had been ill. I'd heard from Donal that he'd been into hospital for quite a few things and Donal had mentioned that he was going in for a liver transplant. But Donal said, 'I think he'll pull through it. He's pretty strong.'
"I didn't hear anything for a month. Then a guy phoned me up from a Scottish paper, The Edinburgh Telegraph, and said, 'Somebody gave me your name and number. Rory Gallagher has just died.' 'What? No. It can't be. I would have heard something.' He said, 'I'm putting together an obituary. Would you like to say a few words?' And I said, 'I'm absolutely charred. I'm speechless, really.' So I just gave him a few pointers about how great the music was and how great a guitar player he was. And then I was watching MTV that evening and I saw this thing. 'Blues Star Dies.' They had an old live piece. I looked and I saw myself onstage with Rory and Gerry and Rod. And I knew it was true. I phoned Donal up and his son answered the phone. And he said, 'I'm sorry. My Dad can't come to the phone.' So I said, 'Tell him I'm sorry and I'll call him up in a few days time.' "
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ルー・マーティン(訳)俺は今と同じで、エディンバラにいた。ロリーが病気だということは俺も知っていた。ドナルから彼はいろいろあって入院していると聞いた。肝臓移植の予定のこともドナルは言っていたが、「今度も切り抜けると思う。兄はかなり強健だから」とも言った。
それからひと月は何の連絡もなかった。その後『エディンバラ・テレグラフ』というスコットランドの新聞社から俺に電話があって、「ある人からあなたの名前と電話番号を教えてもらいました。ロリー・ギャラガーが先日亡くなりました。」「何?まさか!ありえない。だとしたら俺に何か言って来るはずだ。」「私は死亡記事を担当しています。何かひと言いただけますか?」と彼が言うから、俺は言った。「頭ん中が真っ白だ。何も言葉が出てこない。ほんとに。」そのかわり俺は、彼の音楽がどれほど凄くて彼がどれほど偉大なギター弾きだったか、ヒント程度に話した。それからその晩のMTVで俺は見た。「ブルース・スター死す。」番組で昔のライブ映像が流れた。俺は、ロリーとジェリーとロッドと一緒にステージにいる自分を見た。あれは本当だったのだ、と思い知った。俺はドナルに電話してみたが、電話に出たのはドナルの息子だった。「すみません。父さんは今電話口まで来られません。」なので俺はこう言った。「お気の毒です、2~3日中にまた電話します、とお父さんに伝えてください。」
RTE 1 (TV) night program timetable 1995/06/17
アイルランド放送協会のテレビ番組欄。6月17日(土)夜10時50分から、同国で有名な音楽番組司会者デイヴ・ファニングによるコメント、生前のインタビュー映像、1987年コークのライブ映像から成る追悼番組。(午前1時からニュース、続いて「就寝時の祈り」、1時10分放送終了、となっているのがいかにもアイルランド。)
1995/06/19 (Monday) Co. Cork, Ireland
Requiem mass at Church of the Descent of the Holy Spirit
Funeral and burial at St. Oliver's Cemetery
Lou Martin: "Donal later called me and said that he had made arrangements for me to fly to Cork. He wanted me to play in the church. Mark Feltham came over as well. We played 'A Million Miles Away'. And me and Mark worked out an arrangement of another one of his favorites, 'Amazing Grace.' It was tough. It was shattering. I don't know how we kept it together. And the entire town showed up. There couldn't have been more people on the street to watch the procession go by. And the church was packed. After we did 'A Million Miles Away', I said, 'Let's do a little blues.' We improvised like a medium blues in C. I was told later that that got to a lot of people."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ルー・マーティン(訳)後でドナルから電話が来て、俺のためにコーク行きの航空券を手配した、俺に教会で演奏してもらいたいと言うんだ。マーク・フェルトハムも来た。二人で「A Million Miles Away 100万マイルも離れて」を演奏した。それから俺とマークは、彼が好きだった「アメージング・グレース」もやってみた。これが難しかった。散々なことになっちまった。どうやって一緒に最後までやり通したかも憶えていない。それから、町全体がすごいことになっていた。葬列が通るのを見ようとする人で道路は立錐の余地もなかった。教会もぎゅう詰めの大混雑だった。「A Million Miles Away」をやった後、「少しブルースでもやろう」と俺が言って、Cのミディアム・ブルースか何かの即興をやった。それが大勢の人の心に届いたと、後で聞かされた。
Tom O'Driscoll carrying Rory's Strat, 1995/06/19 ?
Tom O'Driscoll in Dayton Ohio 1976/07/31 (photo by fin Costello)
Lou Martin: "And that's another thing. Carrying that bloody coffin. Me, Gerry, Mark, Brendan, one of the guys from The Dubliners (Ronnie Drew) and another guy (Phil McDonnell). I was the tallest so I was standing at the back. I had the pointy end sticking into my shoulder. And it must have been three-quarters of a mile. That's a long way when you're carrying a casket. And at that pace. And I kept thinking, 'He's up there looking down. I hope he doesn't catch what I'm thinking! Why do you have to be so bloody heavy?' We lowered the thing in the ground and that was it."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ルー・マーティン(訳)それともうひとつは、あの棺を運ぶ時の話だ。俺、ジェリー(マカヴォイ)、マーク(フェルトハム)、ブレンダン(オニール)、ダブリナーズの一人(ロニー・ドリュー)とあともう一人(フィル・マクドネル)。俺が一番背が高かったので後ろに立った。先の尖った端が俺の肩に食い込んだ。それに道は4分の3マイルはあったはずだ。棺を担いで、しかもあのペースで歩くには長すぎる道だ。俺はずっと考え続けていた。「奴は上から見下ろしてやがる。ああ俺が今何を考えているか奴に知られなければいいが!あんたは何だってそうクソ重たいんだ?」俺達はそれを地面の下に下ろして終わりだ。
Mark Feltham: "Donal also asked me to play at the gravesite as the coffin went down. It was a pretty awful time just hearing this lonesome harmonica at this graveyard. Raining as it was. It was pretty grim. That's how it all ended. Very very sad."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
マーク・フェルトハム(訳)俺はドナルに、墓地で棺が埋葬される間も演奏してくれと頼まれた。墓場でこんな寂しげなハーモニカを聴きながら過ごすなんて、かなり恐ろしい時間だった。しかも雨だった。ひどく気が滅入った。これで全てが終わった。とてもとても悲しかった。
The Irish Times 1995/06/20 issue (courtesy of Cork City Library)
(訳)友人、ファン、同業者数千人がロリー・ギャラガーを悼む
音楽の大使だったギタリスト、コークに埋葬される
コーク、ディック・ホーガン
肝不全のため先週ロンドンで死去したブルース・ギタリスト、ロリー・ギャラガーの昨日行われた葬儀には、国じゅうから数千人の友人、音楽業界の同業者、そしてファンが参列した。
ドネゴール県に生まれ、少年時代はコークに住んだロリー・ギャラガーは、かつて世界で最も優れたギタリストに選ばれたこともある。ショーバンド時代に始まった彼のキャリアには、ローリング・ストーンズのリード・ギタリストとしての誘いという出来事もあったが、彼はブルースに専念するためにそのオファーを一蹴した。
埋葬式は聖オリヴァー墓地で、追悼ミサは市内の大人数が集まることを考え、市郊外ウィルトンの聖霊降臨教会で行われた。彼が所属したブラックロックの教区教会は小さすぎることを、彼の家族は考慮した。
ミサでは伝統的なアイルランドの旋律が演奏されたが、それはギタリストがアイルランド音楽をブルースと同じ体験から生まれたものという主張を持ち続け、愛したことの反映だった。
聖歌も演奏された。そして祭壇への奉献には、最後のアイリッシュ・ツアーをギャラガー・バンドとともにしたハーモニカ奏者マーク・フェルトハム氏がスローブルースを演奏した。彼は先週ギャラガー氏の臨終の床際でも演奏した。
ギャラガー家の友人である司教座聖堂参事会員オーウェン・キャッシュマン氏は、ギタリストは芸術のためだけに生きた音楽の大使であり、世界中にとどろくその名声に関わらず誠実で謙虚な人柄で、常に誇りをもって自身の信仰を告白し、「優しく、高ぶらず、決して現実を見失うことがなかった」と述べた。
ロニー・ドリュー氏は(聖書の)『知恵の書』からの一節を述べた。
墓の周りでは数百の献花が、最終的な休息の場所へと運ばれて来る棺を待っていた。ボブ・ディラン、ヴァン・モリソン、アメリカのロックバンド、ボン・ジョヴィ、そして英国のブルーススター、ジョン・メイオールからも哀悼のメッセージが届いた。教会を埋め尽くした2000人の弔問者の中にはU2のギタリスト、ジ・エッジとゲイリー・ムーアの姿もあった。
ロリーの母ミセス・モニカ・ギャラガーと、長年マネージャーとして活動した弟ドナルが喪主を務めた。
最後の祈りにおいて司教座聖堂参事会員キャッシュマン氏が、先週お悔やみメッセージを送ってくださった何千人もの人々に対するギャラガー家からの感謝の意を述べた。
埋葬式でロニー・ドリューが朗読したのは『知恵の書』第3章1~9節(旧約聖書続編)だったと、他の資料で触れられている。
神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、この世からの旅立ちは災い、自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和のうちにいる。人間の目には懲らしめを受けたように見えても、不滅への大いなる希望が彼らにはある。わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。神が彼らを試し、御自分にふさわしい者と判断されたからである。るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの献げ物として受け入れられた。主の訪れのとき、彼らは輝き渡り、わらを焼く火のように燃え広がる。彼らは国々を裁き、人々を治め、主は永遠に彼らの王となられる。主に依り頼む人は真理を悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。(1987年新共同訳による)
上掲新聞記事やルー・マーティンの証言から、ロリーの葬儀は最初から最後まで、教会とカトリック教徒の慣行から少しも逸脱することなく執り行なわれたとわかる。それについては下方に掲げた、同年11月8日ロンドン・オラトリー教会の追悼ミサの参列者に当日配られたトリビュートの中で、葬儀にも参列したゲイリー・ムーアが述べている。
…(彼の葬儀は)よくありがちな人々に見せるためのロックンロール・サーカスみたいなものとはならなかった。その場にあるのはただ、大いなる敬意だった。
.....It wasn't like a rock and roll circus like they usually turn out to be with people to be seen. There was just so much respect..... (Gary Moore)
ロリーは、コーク帰省中もロンドンで独り暮らしの間も、ツアーがない時はちゃんと近所のカトリック教会の日曜ミサに出席していたという証言があり、本人も自分はカトリック信者だと公言していた。
Lou Martin: "Donal organized a nice wake afterwards. It was at a big hotel. Hot food, free bar. They had set up a wee stereo system that was playing his stuff. And there was a piano in there. All these people turned up. U2, Gary Moore, people from Clannad. Quite a few people from the newer bands turned up to pay their respects. After the dinner, Donal said, 'Well, the piano's there if you feel like doing something.' So I went. Gerry picked up an acoustic guitar and he started playing a few things. And before you know it, it was a jam session. We were waiting for Rory to walk through that door with a guitar wanting to sit in. It was the best possible way to see the day off."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ルー・マーティン(訳)その後ドナルがウェイク(通夜)を用意してくれていた。大きなホテル(訳註:コーク市内に前年建ったばかりだったジュリーズ・イン Jurys Inn、その後売却され現在 Leonardo Hotel)で、温かい料理と飲み放題のドリンクバーがあって、小さなステレオも用意されていて、ロリーの曲がかかっていた。ピアノもあった。多くの人が来ていた。U2、ゲイリー・ムーア、クラナドからも何人か。最近のバンドの連中も敬意を表しに来ていた。食事の後、ドナルが「さて、ピアノがあるから、もしよければ何かやってくれよ」と言ったので、俺はピアノの所に行った。ジェリーがアコースティック・ギターを持ち出し、2~3曲弾き始めた。そしていつのまにかジャム・セッションになっていた。俺達は、ロリーが俺も混ぜてくれよと言いながら、ギターを持ってあっちのドアから入って来るのではないかと期待した。もしそうなれば最高だったのに。
Rod de'Ath: "I wasn't surprised. Simply because of his alcohol intake. No one called me. They thought I was dead. I had an accident and I lost my memory completely. My family actually held wakes for me."
from a book of Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower - Their Lives and Music, 2002
ロッド・ディアス(訳)俺は驚かなかった。奴のあのアルコール摂取量ではありえることだと思っただけだ。誰も俺には電話して来なかった。みんな俺は死んだと思っていたんだ。俺は事故に遭ってずっと記憶喪失だった。実際に家族が俺の通夜をやったぐらいだ。
(説明)上掲 Daniel A. Muise 2002年出版のインタビュー本によると、ロッドはロリーの葬儀のことを予め知ったが、かつての友人達とは長年音信が途絶え、そのうえ各紙が報じたロリーの死亡記事の中にはロッド・ディアスも既に死んだと書かれた記事もあったので、いきなり自分が現れては迷惑だろうと考えて葬儀への出席は諦め、たぶんその後どこかで開催される追悼式に行くのが良いだろうと決意していた。
ロンドン・オラトリー教会でロリーの追悼ミサが盛大に行われたのは、同年11月8日のことだった。ルー・マーティンは教会の前庭で「逢わせたい人がいる」と連れて行かれてある男と握手をしたが、その男の手は震え、頭はスキンに剃られ、歯はほとんど無く、歩行は杖に頼っていて、60歳過ぎの老人にしか見えなかった。ルーはそれが親友のロッドだと最初はわからず、ありきたりな挨拶をして別れたが、後で他人に「ロッドに逢っただろう?今そこで話していたじゃないか」と言われ、慌てて戻って非礼を詫びた。その時ふと空を見上げた相手の顔立ちに、ロッドの面影を確かに見たという。
ロッドはブルースロック・バンド「キリング・フロア Killing Floor」からキーボードのルーと一緒にロリーのバンドに参加し、やはり二人一緒に1978年にロリーのバンドを去った後、キリング・フロアのギタリストだったミック・クラーク Mick Clarke らと結成したものの短命に終わったブルースバンド「ラムロッド Ramrod」を経て、その後も数年間は複数のバンドでドラマーとして活動を続けていたが、1980年代後半に突然消息不明になり、アメリカに渡った、いやカナダだ、麻薬関係のトラブルに巻き込まれたらしい、死んだに違いないと噂された。だがルーは国の出生・死亡届出台帳を閲覧し、少なくともロッドの死亡届は出されていないことを確認していた。ロッドは1986年か1987年、英国内のどこかの駅で線路に転落し列車に接触する事故に遭った。深刻な頭部損傷で歩行が不自由となり、片方の眼と聴力の60パーセントを失い、記憶喪失で数年間は安否不明のままとなっていたのだ。ロリーの追悼ミサに突然現れたロッドの変わり果てた姿に人々は驚愕した。もはやドラムは叩けないが、彼にとってはいつ果てるとも知れない孤独に終止符を打つ絶好の機会だった。
ルー・マーティン(本名 Louis Michael Martin)は2012年8月17日に63歳で、ロッド・ディアス(本名 Roderick Morris Buckenham de'Ath) は2014年8月1日に64歳で亡くなった。
The Guardian, UK newspaper 1995/06/16 issue (image courtesy of John W.)
The Independent, UK newspaper 1995/06/16 issue (image courtesy of John W.)
Melody Maker, UK magazine 1995/06/24 issue
(訳)ローリング・ストーンズ加入のオファーを蹴った男、70年代初期の元祖ギターヒーローの一人、ロリー・ギャラガーが、肝臓移植手術の後に死亡した。47歳だった。
ギャラガーはしばらく病気だった。ロンドンのクロムウェル病院に肝不全で入院したのは8週間前(8週間は間違い、3月から入院)。キングス・カレッジ病院に転送され、そこで受けた肝臓移植手術は成功した。だが胸部感染症から合併症に。体調は急激に悪化し、生命維持装置が付けられたが、先週の水曜(6月14日)に死去した。
ギャラガーの元には見舞いの電報やカードが多数届いていたが、その中にはボブ・ディランやヴァン・モリソンからの励ましのメッセージもあった。
ギャラガーはアイリッシュ・ロック・ムーヴメントの先駆者であり誘導者だった。彼はジョン・レノンも称賛したテイストというグループで60年代の世に躍り出た。70年代にソロになってからは、彼はメロディ・メイカー誌年間ギタリスト・アワードにおけるトップの座の常連となり、しばしばエリック・クラプトンを2位の座に叩き落した。
1975年にミック・テイラーがローリング・ストーンズを離れた時、ジャガーとリチャーズはギャラガーに加入を呼びかけた。彼らは一緒にレコーディングをしたが、ギャラガーはその職を退ける決断をした。
U2のジ・エッジが今週語った。「彼は美しい人で素晴らしいギタープレイヤーだった。彼がいないととても寂しくなる。」さらにボノが付け加えた。「彼は全時代を通じてトップ10ギタープレイヤーの一人だったが、もっと重要なのは、善良な人間のトップ10に数えられることだ。」
メイカー誌のニュース編集長キャロル・クラークは現在産休中だが、職務としても個人としてもギャラガーの知人だった彼女が、今週こう語った。「ロリー・ギャラガーは私の最初のヒーローで、私を導く影響力があった。彼がいなければ私はメロディ・メイカー誌で働いてはいなかっただろう。愛しさとともに思い出されるのは、彼が本物のジェントルマンだったこと、心に強く訴えるギタリストで(音楽業界の)メインストリームやインディーポップ・ファッションには目もくれず、自分の心にのみ従うミュージシャンだったこと。」
Hot Press, Irish magazine 1995/07/12 issue (photo by Colm Henry)
Oor, Dutch magazine 1995/07/15 issue (photo by Barry Schultz)
1995/07/10 Gallagher's Blues: A Requiem For Rory, approx 34 minute TV program broadcasted from UTV, N-Ireland
Including segments of Rory's funeral, retrospects of Taste moving up in Belfast, talk by John Wilson, Gerry McAvoy, Brendan O'Neil, Ronnie Drew, Adam Clayton, Vivian Campbell, etc. and Rory himself...
ロリーの死から1か月経たない短期間のうちに、北アイルランドのUTVで放送された約35分間のテレビ番組。ベルファストのアルスター・ホールーー空っぽのホールを撮影した映像(とても古めかしくて狭いことに驚く)を皮切りに、ロリー・ギャラガー、エリック・キッタリングハム、ノーマン・デイムリーの3人の若者がコークからベルファストにやって来て、ラドー・クラブ(メリータイム・クラブ)などで当時、同業者組合では掟破りとされていたスリーピース・バンドとしてキャリアをスタートしたことが語り始められる。テイストのベルファスト時代の映像はさすがに残っていないので、スティル写真だけなのだが、南のアイルランド共和国のRTEやドイツのWDRなど、ドナル・ギャラガー氏が関わって制作された番組ではお目にかかれないような、北アイルランド独自の蔵出し写真も出てくる。ベルファストの街路で爆弾を仕掛けられた車が爆発する瞬間の実写フィルムにも驚く。こんなのはIRAの当事者でなければ撮影できなかったはずだ。前年、同じUTVのドキュメンタリー番組『Rock'n The North』のために、ロンドン市内コンラッド・ホテルのロリーの部屋で収録された、本人へのインタビューおよびアコースティックギターを弾く映像(ロリー最後のテレビ出演と思われる)を挿入しながら、ジェリー・マカヴォイ、ブレンダン・オニール、テイストのドラマーだったジョン・ウィルソンーーいずれもベルファスト出身の3人が詳しい話をする。他にロリーの棺を担いだダブリナーズのロニー・ドリュー、U2のアダム・クレイトン、ギタリストのヴィヴィアン・キャンベルらへのインタビューも。コーク市郊外のカトリック教会で行われたロリーの葬儀の映像も、参列者の中にゲイリー・ムーアの姿を捉えたり、短いが鮮明なものを見せる。老いて長男に先立たれた母モニカが両手で顔を覆って泣き崩れる映像には胸が痛む。
1995/11/08 Memorial service took place at The Church of The Oratory, Brompton London, UK
Announcement of the memorial service in London (image courtesy of John W.)
1995年11月8日にロンドン市内ブロンプトンのオラトリー教会で行われたロリーの記念追悼ミサは、一般のファンにも広く告知・開放された。
Handouts of the memorial service (image courtesy of John W.)
Handouts of the memorial service (image courtesy of John W.)
Handouts of the memorial service (image courtesy of John W.)
Handouts of the memorial service (image courtesy of John W.)
Handouts of the memorial service (image courtesy of John W.)
Commemorative CD (not for sale, image courtesy of John W.)
Commemorative CD (not for sale, image courtesy of John W.)
Commemorative CD (not for sale, image courtesy of John W.)
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
ゲイリー・ムーア
(訳)自分が16歳で、テイストがコークから出て来た時から私はロリーを知っていた。彼は業界では新人みたいなもので、私も学校を出たばかりだった。ロリーはいつもじつにフレンドリーで礼儀正しかった。彼は自分のプレイに不安を感じていなかった。彼は自分が上手いと知っていた。そして我々も全員、彼がいかに上手いか知っていた。彼には本物のカリスマ性があり、ステージ上での存在感があった。彼がギターを持つやいなや、そこには交わりが生じ、彼はとても凄かった。
二人ともイングランドに移ってから、私は彼に会うためによくマーキーに行った。だが私達が会えるのはごくたまにだった。ある時、シン・リジィの『Black Rose』ツアーで、ハンブルクだったと思うが、彼が我々と一緒にプレイするために来てくれ、私のピーター・グリーン・レスポールを貸したことがあった(訳注:ハンブルクというゲイリー・ムーアの記憶が正しいとしたら1979年5月22日、ロリーのドイツ滞在タイムラインと合致する)。
偉大なプレイヤーだったということを別にしても、ロリーについて最も明白な事実は、彼はいかなる意味でも音楽的に妥協することが決してなかったことだ。彼にとってある一定のレベル以下の完成度で妥協することは決してなかった。彼はシングルを出そうとしなかった。ビデオにも出たがらなかった。それはほんの一例だ。私にとってその全てが明らかになったのは、葬儀の時だった。よくありがちな人々に見せるためのロックンロール・サーカスみたいなものとはならなかった。その場にあるのはただ、大いなる敬意だった。彼がそれを獲得しえたのは、妥協をゆるさなかった彼のプレイのゆえだったのだ。
彼は純粋主義者だった。彼は自身を安売りしなかった。音楽業界の人間で果たして何人がそのようでいられるだろうか。その手本となったロリー・ギャラガーのような人間が周辺にいなければ、良質の音楽は終焉を迎えることになるのかもしれない。この悲しくも皮肉な彼の死で私が感じたことは、ブルースの復活と、ロリーの時代が再び巡ってくるということだ。
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
ロッド・ステュアート
(訳)ロリーの死はとてもショックだ。私達はよくロリーとツアーを共にした。彼は本当に善良な男で、偉大なプレイヤーだった。彼の死の知らせはとても残念だった。
ヴァン・モリソン
(訳)ロリーの死は偉大な音楽家にして良き友人の悲劇的な喪失だ。
マーティン・カーシー
(試訳)炎、情熱、フレンドリーな人、オープンな人。こういった言葉が全て当てはまる人だった。彼は開かれた1冊の本だった。だがその言葉のひとつひとつが、人生を価値あるものにする人物の例に当てはまりえる。誰が自身の職業を、同業者を、そしてそれを告げる者を愛するだろうか。誰がそのシンプルな存在により仲間の気分を良いものにさせるだろうか。ロリー・ギャラガーは音楽に恩寵を与えた、人間性に恩寵を与えたように。言葉は恩寵だ。
(イングランドのフォーク・ミュージシャン、マーティン・カーシーのこの文章は教会内でも朗読されたようですが、韻文のせいか意味難解で不完全な訳文ですみません。)
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
デイヴィ・スピラーン
(訳)『Out Of The Air』というアルバムでロリーは2曲をプレイしに来てくれた。私がムーヴィング・ハーツのメンバー達と作ったエレクトリック・ブルースのアルバムだ。彼はダブリン滞在中しばらくの間は暇だったので、私達が彼に2~3曲やりに来てくれないかと頼んだら来てくれた。彼はとても寛大に自分の時間を割いてくれ、フレンドリーで、気さくで、それほど多くの人がそのたぐいのことには注目しない時にも、彼は興味を示してくれた。
彼はアイリッシュ・ミュージックに大きく貢献した。表に立ってほとんど一人でそれを成したのが彼だった。もう一つの損失だ。マイケル・ラッセル、ポーリー・キャロリー、ジョニー・ブルック、ダン・ダウド、そして私の父のような、時代を代表し異なるジャンルを跨いで活動するキープレイヤー達がいるが、ロリー・ギャラガーはその一人だった。彼は本物の音楽を作り、我々がアイリッシュでありながらなおブルースをプレイできることを証明してくれた。
ジミー・ペイジ
(訳)ロリーの死には本当に動揺している。我々はステージに上がる直前にそれを聞いたが、その晩は落ち込んだ。私は彼をさほどよく知っていたとは言えないが、一度我々のオフィスで彼と会ったこと、1時間も話し込んだことを思い出す。彼はとても善良な男で偉大なプレイヤーだった。
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
ボノ
(訳)全世代を通じてトップ10ギタリストの一人だが、それより重要なのは、善良な男のトップ10の一人だったことだ。私にとって本物のロックバンドの初体験はテイストだった。
アダム・クレイトン
(訳)私が初めて行ったライブは1975年カールトンのロリー・ギャラガーだった。彼のブルースとアコースティック・ギターを私はいつまでも憶えているだろう。安らかに眠りたまえ。
ジ・エッジ
(訳)素晴らしい人で素晴らしいギタープレイヤーだった。大変惜しまれる。
ポール・マクギネス
(訳)彼はアイルランド初の国際的ロックスターで、偉大な前例となった。
マイケル・オサリヴァン
(訳)私が初めて見たロリー・ギャラガーのライブは1970年コーク・オペラハウスのコンサートで、その頃の私はコーク大学の学生だった。ギターが彼の手の中で歌っているかのようだった。彼の即興は絶えず動き、手を差し伸べ、どこかへ行こうとし、楽器そのものの可能性を広げようとしていた。彼が作った音楽はとても個人的な、ほとんど彼自身が求め続けた必要な癒しであるかのようだった。私は常にエリック・クラプトンの音楽にあるのと同じクォリティの高さを見出していた。エレクトリック・ブルースの同クラスにロリー・ギャラガーはいた。ブルースにあって、彼は独自のエレクトリック・シャン・ノース(訳注:アイリッシュ・ゲール語で「古いスタイル」を意味し、多くは無伴奏で歌われるアイルランド古謡)を見つけ出し、他方で同様のフィーリングを持つ井戸の底に降りて行きそこから全ての伝統を汲み出そうとしているかのようだった。
音楽を作ることがロリー・ギャラガーの運命だったが、アイルランドが特定の現代音楽へと舵を切る最初の自信を、彼は遺産として残した。彼は先駆者として、後進の者のために道を切り開く役目を与えられた。彼を知る人々が悼むように、我らの歴史に加わったミュージシャンの栄光を称え、祝福の鐘が鳴り響く。
Commemorative CD inner booklet (image courtesy of John W.)
スラッシュ
(訳)ロリーは俺に本当に大きな影響を与えた。もっと若かった頃、俺は彼のレコードを全部買って一心に聴いた。俺は彼のコピーをしたり何かしたことがあるわけではないが、それでも俺が知る限り、彼は永遠不滅の偉大なギタリストの一人だ。俺は彼のプレイを聴いて研究したが、皆も同じことをしろとは思っていない。音楽はただエンジョイすればいいし、俺もロリーの音楽が大好きだった。ロサンゼルスでロリーと一緒にプレイしたことは、俺の人生最大のスリルだった。
Rory's mother Mrs Monica Gallagher and Bob Geldof shaking hands, 1995/11/08 (photo courtesy of John W.)
1995年11月8日、ロリーの追悼ミサが行われたロンドン市内オラトリー教会の前庭で、ロリーの母モニカ・ギャラガーとボブ・ゲルドフが握手しているところ(写真中央)。参列したファンが撮った写真(撮影者本人提供)
St. Oliver's Cemetery, Co. Cork, Ireland, where Rory was buried (photo by Megumi 2009)
Rory's grave, St. Oliver's Cemetery, Co. Cork, Ireland (photo by Megumi 2009)
Rory's grave, St. Oliver's Cemetery, Co. Cork, Ireland, where his mother Monica was buried in 2005 next to him (photo by Megumi 2009)
墓標はロリーがクラプトンを下して1972年に獲得した International Guitarist of the Year Award のトロフィーにちなんでこんな形になったという。彼の左隣に2005年、母モニカ・ギャラガーも埋葬された。(その後ろの大きな黒い石板は、向こう側の敷地の別人の墓石の裏面で、ギャラガー家とは関係ない。)
これ真冬の1月に行って撮った写真、芝草が蒼々と茂っている。アイルランドが「エメラルドの島」と呼ばれるゆえんだ。この翌日、アイルランドには珍しく大雪が降った。
Another mourning and tribute.
And in April 2023, my friend Marc died. He bravely fought a battle that he could not win after all. Before he died, he picked the music to be played at the funeral ceremony. One of the tunes played was a Rory Gallagher song: A Million Miles Away. When I heard it, I wasn't surprised; actually I sort of expected it. Rory Gallagher was one of Marc's favourite musicians, and this was his favourite Rory Gallagher song.
(Jeroen J. from Tilburg Netherlands, April 2023)