動画リンク:上映した作品『トホス』の予告編。
この日のゼミでは、製作者である村津蘭さんをお呼びして、ドキュメンタリー映画「トホス tɔxɔsu」の上映会を行いました。これは(およそ3ヶ月越しの)その活動報告書です。ドキュメンタリー上映会の企画を立ち上げたきっかけは、私が「異形」をめぐる聖視と賤視の関係について関心を持っていたためです。
このドキュメンタリーの舞台、西アフリカのベナン王国では、ヴォドゥン信仰が信じられています。多様な神がいる中、トホスと呼ばれる神は人間の形をして生まれることもあるとされています。特に知的障害、身体障害を持って生まれた人はトホス神とされ、本作品の主人公ポールは、まさにその一人です。
興味深いのは、村人とポールの関係性が空間によって変わるということです。先述の通り、ポールは神様だとされています。人々はポールに服やお金を捧げ、ポールはそのお返しに人々に富を与えます。
しかし、日常空間においてポールが常に崇め奉られているかというと、そうではありません。村人とポールの距離感は驚くほど近く、村人はポールに「あっち行け」「ばか」などと言って揶揄ってばかにします。神様を罵倒するだなんて命が惜しくないのか、と私は信じられない思いでしたが、今考えてみると彼らの言う「ばか」は、関西人の言う「アホ」と同ような愛着や親しみが混じったものなのかもしれないと思ったりもします。それはそれでいいのか?というような気もしますが、とにもかくにもここではポールに神々しさは見出されません。
しかし、儀礼の中ではそのポールの立場が一変します。儀礼が行われている場所にポールがふらっとやってくると、村人たちに憑依したヴォドゥンの神々がポール、すなわちトホス神に挨拶をするべく列をなすのです。ここではポールは疑いようもなく「神」であり、聖なる存在となっています。
ポールは聖性と俗性の両方を帯びており、状況によって俗性が強まったり、聖性が強まったりと柔軟に変化するようです。そして儀礼空間がそのスイッチである、というのは私にとって非常に面白い発見でした。
ドキュメンタリーをみんなで鑑賞した後は、質疑応答の時間を取りました。作品中に登場した気になる点について質問したり、また、映像人類学の手法そのものについての疑問や知りたいことを村津さんにお聞きしたりしました。
実践、身体、感覚に光を当て、文字で表すのが難しい領域を映像や立体で表すことができるのが映像人類学ですが、難しい問題も色々とあるのだと知りました。例えばナレーション。ナレーションを入れることで、映像はわかりやすくなるものの、作り手の強さが立ち上がり、カメラに映す相手がある種の素材になってしまうことがある、とか。
他にも、例えば供儀のシーン。動物の首を掻っ切り生き血をすするという画は、ある文化・社会からしてみればなんてことなくとも、その他の文化・社会からしてみれば残虐に映ってしまうこともあります。そうなった時、作り手はどこまでセンシティブになって観客を守ることを考えるのか、など。
映像を用いるからこそ表現できるものもあるし、ぶちあたる問題もある、ということを知ることができました。映像人類学という学問そのものへの興味も刺激されました。
聖と俗は完全に分断されているわけではなく、連続性を持つという気付きを得ることができました。では、そのような存在の聖性を支え、強化するのは何なんだろう、聖性を引っ張り出す儀礼空間というのはどんな仕組みになっているんだろう、と好奇心が新たに膨らみ、知りたいことが増えた90分でした。
快く上映を引き受けてくださり、また丁寧に質問に答えてくださった村津さんに、この場をお借りして改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。私の興味範囲にもかかわらず、企画実現を手伝ってくださった大石先生、企画に付き合ってくれたゼミのみんなにも感謝します。ありがとうございました。
最終更新:2021年4月2日