想像力、物語の力。この二つの言葉が本研究のキーワードだ。「想像」も「物語」も聞き慣れた言葉だが、その意味やそれらがもつ「力」について、我々は普段から考えているだろうか。筆者は、想像力や物語の力について想いを巡らせていくうちに、世界に蔓延る諸問題は想像力の欠如から生まれて、日々補強されているのではないかと思うようになってきた。そして、いくつもの書籍から迸る言葉や思考に感化され、想像力や物語の力についてさらに探求したいと感じるようになった。
そこで、筆者は卒業研究として小説制作を行った(タイトルは“Moving”)。ただ、一人で物語を創り上げていくという一般的な小説の制作とは異なり、本研究では、複数人で物語を想像/創造して制作するという方法を用いた。個人的な営為である小説制作を外に開くことで、より多くの人の想像力が蓄積された物語を創出することを狙った。本稿は、その概要を制作前と制作途中、そして制作後の3つのパートに分けてまとめたものである。
第1章では、制作に至るまでの過程を述べる。まず、なぜ小説を書くことを決めたのか、想像力と物語の力をキーワードに説明したい。次に、小説のテーマを地下世界に設定した理由を述べる。最後には、制作の全体的な目的を簡潔にまとめる。第2章では、本制作の肝となるワークショップについて中心的に述べる。小説の制作は、筆者一人で行うのではなく、ワークショップを通して物語を創り上げていった。その制作方法にした理由や、ワークショップの様子を述べたい。第3章では、制作を終えてからの筆者の個人的な所感、そしてワークショップや読者の感想を簡潔にまとめたい。
目まぐるしく通過していく日常で少し立ち止まり、想像力や物語の力に想いを馳せてみる。本研究を通して、改めてその大切さを痛感した。“Moving” がそう考えるきっかけとなることを願っている。
小説“Moving”のあらすじ
この物語には、多彩な人生の断片が様々な場所に散りばめられている。第1章は、照明の落とされた電車の車内から物語が始まる。しかし、そこで登場する男は不可解な経験をしたきり舞台からは消え、赤木、柚菜、レナという三人の人間模様が描かれる。小説の中で象徴的な役割をもつ「黒い石」が登場するのも、この第1章だ。第2章は、「我」という第1章にはない新たな人称で物語が始まるが、中心は前章に登場した柚菜、レナである。
二人の女性がある謎を追うという展開で、本制作のテーマである地下世界が現れる。第3章では、第1章と同じく男が電車に乗っている場面から始まるが、まだこの男の詳細は描かれない。この章の中心は駅員の仕事をする男性だ。彼は心に傷を負いながらも、生きていく術を見出していく。1,2章の人々の名前は出てこないが、黒い石を介して緩やかに物語は繋がる。第4章の前半は、遂に1,3章で登場した電車の男が描かれる。中庭のベンチに座る男と会話を交わす人々を、現在形の語り口で切り取っていく。後半は、第2章で止まっていた時計の針が動き出し、レナが登場する。
徐々に明かされていく黒い石の力。各章で登場する蒼い目の女性の秘密。終章に向けて物語は深まっていく。第5章は、第3章で登場した男性が森でトナカイを観察する場面から始まる。彼が洞窟に入り、幻想の世界をくぐり抜けていく中で、これまでに登場した蒼い目の女性と邂逅する。“Moving”という題名にある通り、この物語には多くのものが動いている。例えば、5章にまたがる物語に共通して見え隠れする「黒い石」の存在や、章ごとに揺れ動く視点などだ。“Moving”は重層的な想像力によって創られた物語である。