ルワンダ・ジェノサイドは一般に主に政府関係者や政党関係者を中心に一般農民も含めたフツゥが、穏健派のフツゥも含めたツゥチを虐殺した事件として理解されている。ジェノサイドは 1994 年4 月 6 日、フツゥであるハビャリマナ大統領の搭乗機が何者かによって撃墜されたことを契機にしてルワンダ全土に波及した。軍・警察やフツゥを中心に構成される政党の民兵に加え、農村にすむ「普通の」フツゥ農民が参加して 50~100 万人 のツゥチとフツゥ穏健派の住民や政党幹部が殺害されたとされる。
本論ではハビャリマナ政権の政治体制において政治的な基本性質とされる「地域主義」と、ルワンダ・ジェノサイドの関連性や、ハビャリマナ大統領の出身地域であるルワンダ北西部(旧ルヘンゲリ県・ギセニィ県)での虐殺の様相を総合している。「地域主義」は、ルワンダ独立後の二つのフツゥ政権であるカイバンダ政権とハビャリマナ政権が、自身と同じ出身地域である一部のエリートに権限や政治経済的利益を集中される政策をとっていたことから、両政権の基本的な性質として言及される。
筆者はルワンダ北西部と北西部出身者が関わった虐殺の基本的な性質として二つの点を提示した。一つは「地縁性」であり、もう一つは北西部に蔓延していた「恐怖」である。ここでいう「地縁性」とは、政治資源配分の仕組みとしての「地域主義」が、北西部ならではの歴史的記憶や地域的・血縁的に裏打ちされた一体感を含めた概念として定義される。ルワンダ北西部は、ツゥチの人口は北西部全体の 1 パーセントに過ぎない一方で、虐殺の開始は1994 年 4 月 7 日と極めて早く、死傷率も他地域に比べて高かった。4 月 6 日に死亡したハビャリマナの出身地盤とされ、首都における穏健派殺害などを主導したとされるハビャリマナの妻アガトを中心とする「アカズ」や、「ゼロ・ネットワーク」のメンバーの多数の出身地でもある 。ツゥチを「ゴキブリ」(=キニャルワンダ語でイニェンジ(inyenzi))と表現し、「ツゥチの脅威」や「民間防衛」を繰り返し訴えてツゥチの殺害を扇動した独立系ラジオ局『千の丘ラジオ』のスタッフ、フツゥの結束やツゥチ女性のレイプなどをほのめかす「フツゥの十戒」を記載したカゼット「カングラ」の主要メンバーの出身地でもあった。こうした背景から、ルワンダ北西部(以下、北西部)は「過激主義」の本拠地として捉えられている。
しかしながら、こうした理解は北西部の虐殺を理解するうえで適切とはいいがたい。一つは、北西部は特別に反ツゥチ感情が強かった地域ではないことだ。北西部は植民地期にルワンダの領域に「併合」された地域であり、植民地期から独立志向の強い地域であったことは間違いがない。だが、植民地権力や、間接統治においてドイツ・ベルギーの代理人の役目を果たしたルワンダ王国(ニギニャ王国)との抗争は、北西部の地元住民により率いられたのではなく、むしろ王国出身者のツゥチにより率いられていたという側面がある。そもそも、ハビャリマナ政権自体、先代のカイバンダ政権に比べるとツゥチに対して一定の公空間の確保を進めていたという特性もあった。これには、フツゥであるハビャリマナ政権が「地域的利益配分の公平性」を図るためにクォータ制を閣僚ポストに導入しており、南部に多く住むツゥチに市民権を認めることで、相対的に自陣営の地位を高めようとする意図があったからとされている。
状況は 1990 年代に入り大きく変化する。悪化する経済環境や、構造調整などによる国際的な圧力により民主化を進めざるを得なくなる。民主化の時代における基本的な要求は、地域主義的な権力バランスの是正と、政治空間の公正かつ均等な権限配分であった。ハビャリマナとそのクライアントたち(主に「アカズ」のメンバー)は、後者を形式的に取り入れることで、前者の地域主義的な利益の確保を狙った。
このことからジェノサイドの展開の中でも、「ツゥチ」として殺される南部出身者が多くいたことが確認できる。また、より直接的な表現として、中南部の王国の中心地を示す言葉であった『ンドゥガ』という言葉が使われて、北西部出身者でない者が虐殺の対象として狙われていた様子が観察された。このように、北西部や北西部出身者が関わった虐殺は、「地域主義」的な資源の確保が、北西部独特の歴史的文脈を「語り」にして、行われていたということができるだろう。
一方、エリートではない一般住民の視点から見ると違った説明もできてくる。北西部は RPF と国軍の戦闘の前線に当たり、「ツゥチ(=イニェンジ)が攻めてくる」というジェノサイドの首謀者層の言葉が差し迫った意味として聞こえた。また、現実に内戦によって多数の難民が発生しており、住民の心理状態は相当に不安定なものであったことが推測される。これに加えて、高い人口密度による土地不足も慢性的な課題として地域には存在した。生活のこうした不安定さが、内戦中に住民が感じていた「恐怖」と結びつき虐殺につながっていったことが本論では示されている。
北西部に的を絞った分析が逆説的に示すのは、ルワンダ・ジェノサイドは複合的なものであるという点である。ジェノサイドの要因に関する従来の先行研究では、ハビャリマナ政権の全体主義的性質や、ツゥチやフツゥの長年の対立など、虐殺の一つの側面に焦点を当てたものが多かった。しかしながら、北西部の例が示すようにどの要因がどれほど大きいかはそれぞれのケースによるのであって、ルワンダ・ジェノサイドの研究はケースありきの研究が基本であるべきである。
本論では、武内進一氏の 2009 年の著作を参考に基本的には北西部の虐殺は「パトロン=クライアント関係」の性質変化であると論じた。しかし、本稿ではジェノサイドの背景要因である「語り」の重要性についても強く論じている。これは筆者が「地縁性」という用語を本論で定義した最大の理由でもある。
エスニシティと同様に、北西部や北西部出身者が関わった虐殺では北西部がたどってきた歴史的屈辱とその裏返しとしてのプライドが「語られて」きた。この意味は他地域におけるツゥチとフツゥに匹敵するほど重要であった。そうした「語り」が虐殺の推進力と結びつく背景には土地不足や「恐怖」などが背景にあることはすでに論じたとおりである。
また、本論ではアフリカ研究・ルワンダ研究が地域を超えてどのような問いとつながりを持てるのかにも寸言ではあるが触れた。そもそもルワンダの歴史やジェノサイドは、国家をどのように考え、扱うのかという問いとリンケージがある。北西部が歴史的にルワンダの辺境であったことや、ウガンダに逃れたツゥチ難民が主力である RPF はウガンダ国内で「周縁化」されたことで初めて生じた現象であったことを思い起こせばそのことは理解しやすい。この意味でルワンダ研究は沖縄・カタルーニャ・クルドといった世界の他地域の問題とも優れて関連した研究となる素地を持っている。