2018年1月27日、 国立民族学博物館第4セミナー室にて、「オラリティを捉え返す――ミュージッキングと語りの間から」と題した公開研究会に参加しました(写真1)。
以前、この研究会の代表者である野澤豊一氏によって翻訳された文献、トマス・トゥリノ『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ―歌い踊ることをめぐる政治』を読み、「音楽」の意味を再考する重要性に触れました。そこで、実際の議論の現場にも触れたいと思い、参加させていただきました。
まず、「音楽する」という意味であるミュージッキング(musicking)とは、NZ生まれの音楽教育者クリストファー・スモールが提唱し、あらゆる立場で音楽パフォーマンスに参加することを言います。レジュメによると「スモールはこの概念によって、『音楽music』という近代的な概念が発明されて以来、人間が見失いつつある『行為としての音楽』の相を復権」させようとしました。そして、「『音楽作品の再現がパフォーマンスである』という近代的な予断を疑問視し、『音楽作品はパフォーマンス抜きには存在しえない』と主張」しました。
今回の研究会では、「ミュージッキング」の観点から、「オラリティ」をキーワードに朝倉義之(國學院大學、民俗学)、野澤豊一(富山大学、文化人類学)、梶丸岳(京都大学、文化人類学)、間篠亜子(東京藝術大学、民族音楽学)の4名による発表が行われました。「オラリティ」(=口承)という語が使われはじめたのは、ウォルター・オングが『声の文化と文字の文化』で「口承文芸oral literature」という語の違和感に言及したことに始まります。(しかし、梶丸氏の発表では、「oralityとliteracyは(オングの言うように)対照的でも二者択一的でもなく、コミュニケーション技術上の連続体として、また傾向としてとらえるべき(Finnegan1988, Foley2002)」だとしていました。)
写真1: 国立民族学博物館の外観。(写真撮影:中里明祐美)
朝倉氏の発表では、口承“文芸”研究の遅れが指摘されていました。民話を活字として記録してきたことによって、話型が研究の対象となっていましたが、それにより「口承」性よりもストーリー中心の「文芸」性に偏り、「声」や「身体」がなおざりにされていました。しかし、1980年半ば頃から、「声」「身体」を装うことのコミュニケーションにおける重要性を見直した脱話型研究が進められるようになりましたが、未だその遅れは取り返されていません。
野澤氏の発表では、自らの黒人ペンテコステ派キリスト教でのフィールドワークが事例として取り上げられていました。「歌うように語り、語るように歌う」彼らの集会の様子を「雄弁さeloquence」「よどみなさfluency」という観点から捉えなおすことによって、「イエスの教え」による救いだけでなく語りやパフォーマンスによる精神的な救いの存在を指摘していました。黒人は社会的に「語りを剥奪された人びと」であり、これが「他の信者の前で堂々と語ることが改心につながるほどの実存的な変化と直結している」所以である可能性や、パフォーマンスの「生きの良さ」を救い上げるための概念≒映像による記録の必要性も示唆していました。
梶丸氏の発表では、「掛け合い歌」の各種事例が取り上げられていました。前提として、「音」という集合の中に部分集合としての「声」があり、さらに「声」としての部分集合として「歌」があり、「掛け合い歌」はさらにその「歌」の部分集合にあたります。「声であることの意味」のひとつである、「声」の生み出す「場」については、その後のディスカッションでも取り上げられ、今後のオラリティを捉えなおすキーワードとなりました。「掛け合いであることの意味」については、掛け合いそのものに焦点を当てた場合(=参与型)と掛け合いを見せることに焦点を当てた場合(=上演型)に分けた考察が試みられていました。
増野氏の発表では、バリの歌芝居アルジャが事例に取り上げられていました。アルジャでは、キャラクターの性質によって「声」の役割が異なります。「歌う(モチャパット)」のは「甘い」「優雅」「洗練された」王族、「話す(ウチャパン)」のは「自己抑制にかけた」「傲慢」「粗野な」王族や従者たちです。またモチャパットとウチャパンの会話のあらゆる組み合わせによっても表現の選択肢を増やしています。このような使い分けはすなわち「音・言語・身体・文脈と束になった」ものとしての<声>の作用を表している、としていました。
写真2: 東京外国語大学ストリートダンス部Quattro 2017年度新歓公演「the ORIGIN」(2017年4月) 。(写真撮影:中里明祐美)
このような大学外の公開研究会に参加するのは初めてのことでしたが、私自身のダンスの研究にも応用できそうな観点がいくつかあり、自身の研究にとって収穫のある1日でした。私は幼い時からヒップホップ・ダンスに親しんできた影響で、現在の日本のダンス・シーンに関心があります。対象は特に、大学の部活やサークルに所属する学生ダンサーと、かれらをとりまくプロダンサーやイベントなどです(写真2)。対象同士の相互作用を見る際、現代社会の中(ここでは部活・サークル活動)にみるダンスを扱うために、「人はなぜ集まるのか?」という社会学的な視点と「人はなぜ踊るのか?」という文化人類学的な視点を用いています。今回の公開研究会では、「声」と「身体」の相互作用について考え、「人はなぜ踊るのか?」につながる事例にたくさん触れることができました。
まず、朝倉氏の発表を通して「身体」のコミュニケーションにおける重要性が示唆され、今後のオラリティ研究のテーマとなっていくこと知り、身体表現としてのダンス研究の将来性や意義を実感しました。しかし、オラリティ研究にとっても、ダンス研究にとっても、自信を持って研究を進めていくためには、それがどんな「重要性」なのか見ていく必要があるように感じました。誰から見て、どのように重要なのかがわかりにくいように感じました。
そこで、野澤氏の発表では、精神の解放という意味での音楽的パフォーマンスの重要性に触れ、これはダンスにも広く共通することと感じました。さらに「語りを剥奪された」ゆえにこうした表現を必要とするという観点も、チクセントミハイ氏の提唱したフローの状態でいう「個人的問題の忘却」にあてはまる重要な観点だと感じました。彼によれば、人がフロー状態にあるとき、「彼らは限定された刺激領域に注意を集中しており、個人的な問題を忘却し、時間や自分自身の感覚を喪失し、有能感と支配感を持ち、周囲の環境との調和感、合一感を持っている。このような経験要素が存在している限り、人々は自分の行為を楽しみ、その活動がはたして生産的であるとか、報いあるものであるかなどと思いわずらうことをしない」(Csikszentmihalyi1991: 269)のです。よって、ペンテコステ派キリスト教における集会は、フロー活動の一つと考えます。新たに感じたこととして、野澤氏の発表で信者の映像が流されたときに、精神解放しトランス状態にある彼らに「引いて」しまった自分に気付きました。このように、トランス状態の信者やプロダンサーへの、「私達とは違う」というような疎外感や近寄りがたい雰囲気(オーラ)の原因についても興味を持ちました。
梶尾氏の発表では、「掛け合い歌」という題材から、ヒップホップにおけるラップバトルやダンスバトルへも「相互作用」「会話」「コミュニケーション」などの枠組みの中で応用ができるのではないかと感じました。例えば、掛け合い歌の特徴の一つとして、普通の会話とは違って「会話の内容」が少ししかなく、その「内容」の前後は定型文だったりで、そのことによって「内容」を考える時間を考える効果があるとしていました。これと比較して、定型文はなく「会話の内容」を即座に考え韻などのスキルも加えて即座にアンサーしなくてはいけないラップバトルは難易度が高いと言えるかもしれません。また、一見言葉を交わさないダンスにおいても、ダンスバトルを相互作用としてとらえれば、その「内容」「定型」を導き出すことも不可能ではないと思いました。また、「声」の役割として「localに人びとを結びつけて『場』を生みだす作用」を挙げていましたが、これは日本のダンス・シーンでも言えることだと感じました。というのは、部活の公演やダンス・スタジオの発表会等では、ステージで踊るダンサーの名前を観客やスタンバイ中のダンサーが呼ぶという習慣のようなものがあり、それがショーケースの「雰囲気=場」をつくるとされています。しかし、「時間とともに展開されるlinerな表現であること」にという役割に関しては、動画サイトやSNSの普及により薄れているように感じ、これがダンスイベントの集客力の低下や、動画撮影禁止のイベントの増加をもたらしているように感じました。
増野氏の発表では、時間やテーマの問題からオラリティの観点に集中しており、音楽パフォーマンスといった身体性との関連は見えにくかったのですが、音・言語・身体・文脈・「声」の織り成す束が物語の雰囲気=場を作ることについては、ダンスの「公演づくり」のプロセスや要素等の研究にも応用できる観点だと感じました。
総じていえることは、音楽パフォーマンス研究にしてもオラリティ研究にしても、今までその源である「身体」が無視されてきたことが現在問題になっており、何らかの形で身体性=ライブ感のある研究が進められていく必要があるということがわかりました。その方法として、野澤氏も言及していましたが、「映像」の可能性について、今後その方法論が確立されていくことは確実だと感じました。今や3D映像技術も発展・普及しつつある中、音楽パフォーマンス研究、オラリティ研究、映像人類学などの学際的研究がどのように進んでいくのか、私が貢献できることは何なのか、考えさせられた公開研究会でした。ありがとうございました(写真3)。
写真3: 研究会が終った後の夜の大阪万博記念公園。(写真撮影:中里明祐美)
・「オラリティを捉え返す――ミュージッキングと語りの間から」
・「こえとことば、からだとことば――語りと身体性」(朝倉2018)
・「『信じている』と語り合うこと――黒人ペンテコステ派キリスト教におけるオラリティと信仰」(野澤2018)
・「なぜ(わざわざ)歌を交わすのか――掛け合う歌のオラリティ」(梶丸2018)
・「歌うことと話すこと――バリの歌芝居アルジャにおける声の様式性」(増野2018)
・国立民族学博物館共同研究プロジェクト『音楽する身体の相互作用を考える――ミュージッキングの学際的研究』(2018/02/06閲覧)
・ミハイ・チクセントミハイ(1991)『楽しむということ』(今村浩明訳)
・トマス・トゥリノ(2015)『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ 歌い踊ることをめぐる政治』(野澤豊一、西島千尋訳)
・Finnegan, R. 1988. Literacy and Orality: Studies in the Technology of Communication. Basil Blackwell.
・Foley, J. M. 1995. The Singer of Tales in Performance. Indiana University Press.
・Foley, M. J. 2002. How to Read an Oral Poem. University of Illinois Press.