徳島県海部郡海陽町鞆浦には、漁村地区が存在する。漁業の隆盛を経験してきた同地区では、家屋同士の幅が極めて狭く、密集した木造家屋が軒を連ねる。また、住宅街には家屋の玄関横に畳一畳ほどの板がついている光景が確認できる。上下に開閉する仕組みになっている二枚の板戸は、「ミセ」や「蔀帳(ぶちょう)」と呼ばれる柱間装置の一つである。この独特な造りは、折り畳めば壁に貼り付けとなり、雨戸の役目を果たす。下ろせば腰掛けとしての機能を果たし、住民の会話スペースに変容する。
ミセは京都にルーツを持ち、かつては四国東南部に広く分布していたが、家屋の建て替えや改修により、現在では限られた地域にしか見られない。鞆浦でも特にミセが残る東町地区では、現在こそ90名弱しか住民がいないが、かつては1000人を越す住民が住んでいたという。漁港の背後に位置する狭小な地形に対し、どのような経緯でそれほどの人間が住むことになったのか。また、狭小な家屋が軒を寄せ合う居住空間の中で、ミセはどのように機能し、住民は暮らしていたのか。そして鞆浦にミセが多く残るのはなぜなのか。
本稿では、鞆浦の中心的産業であった漁業の歴史を郷土資料や住民への聞き取り調査からまとめ、鞆浦の狭小な地形に対し、徳島藩の政策や漁家の経済状況などによって密集集落が形成され、網元制度によって形成された地縁的な共同体によって集落の維持がなされた可能性を指摘した。また、ミセを取り上げた過去の文献や現地住民への聞き取り調査を通じて、ミセが漁師の仕事場としての機能や、雨戸などの防風対策、密集家屋の課題であった採光など生活環境を改善する機能、住民の交流の場としての機能など、多用途に活用されていたことを明らかにした。他地区と比較して鞆浦にミセが多く残存するのは、漁港背後集落という地形上、家屋の建て替え頻度が少なかった点や、高齢化が進む鞆浦住民にとってミセがアクセスの良い交流空間として機能した点にあると指摘した。
今では空き家が目立つ鞆浦集落において、かつてどのような集落が形成され、住民はどのような暮らしを送っていたのか。本調査を通じ、鞆浦に存在してきた漁師町の空間を記録したいと考えている。