太平洋戦争が終わったころ、私の祖母は13歳だった。まわりの年頃の娘たちが性暴力を恐れて進駐中のアメリカ兵から身を隠すなか(実際にそのような事件があったのかは定かではないが)、面の皮が厚い祖母はヒッチハイクでアメリカ兵の車を捕まえて学校に通い、「プリーズギブミー・チョコレート」と言ってはおやつをもらって食べていたそうである。小さいころの私はこの話が好きで、寝る前に何度もせがんで話してもらっては祖母の図々しさにげらげらと笑ったものだ。
さて、時は流れて2019年3月現在、ガーナの首都アクラから1時間半ほどの田舎町でわたしは「Give me」と言われる、というか、施しを期待される立場になっている(写真1)。
写真1:アクラ近郊の山脈の上にある小さな町、Manfe(写真は隣町のAburiから)。首都から近いこともあり、生活水準は割と豊かである。しかし、山を越えると一気に貧しい村々が続く。
わたしは周囲の人々にとってまさしく「金づる」としての利用価値しか見出されていないと言って差し支えない(そしてその価値を果たしていないので、もはやそれ以下だろう)。
私は今幼稚園と小学校でソーシャルワーカーのインターンをしている、はずだ。しかし実際に赴任先に来て感じるのは、本来の役割など全く期待されていないということである。幼稚園側が私に求めていることといえばただ、派遣元の欧米系支援NGOに必要物資を要請すること、寄付をすること、そして体のいい小間使いになること。私ではない、私の背後にある何か…お金やモノを見ているのである。いわゆる「援助慣れ」というやつだ(写真2)。
写真2: 学童の子どもたち。ことあるごとに机やいす、本などのプレゼントと撮影会がある。本当の問題は、学費や物資をうまくマネジメントできないことだと思うのだが…。
先日など、園長先生がボランティアたちに(わたしは厳しいので、なにも言われない)「防犯カメラがほしい」とねだっていたのでさすがに怒った。(だってこんな田舎で、そんなもの必要あるわけがない!)ボランティアビジネスのパッケージに乗ってチャリティー旅行感覚で来た欧米人ボランティアたちは、そういう雰囲気に気付いているのかいないのか、ためらいなくモノをあげる。本、かばん、おもちゃ、靴…お世話になった人へのお礼としてあげるならまだしも、赤い土壁の家が並ぶ「いかにもアフリカ的な」村でいきなり車を降りて服をばらまいたこともあった。
私とガーナの付き合いは、先月で約2年になった。渡航前の事前勉強期間を合わせると、この2年半、私は毎日ガーナのことばかり考えて暮らしてきたことになる。しかし、ここまであからさまで不均衡な「援助慣れ」の関係に巻き込まれたことはほとんどなかった。もちろん、外国人としてこの国で生活していて、「だましてやろう」「からかってやろう」「ぼったくってやろう」「もしかすると落とせるかも」というような決して心地よくない視線を感じることは少なくない。しかしそれはあくまでも「もしかすると」程度の期待であって、多くの場合はただの冗談だ(それでも不愉快だけれども!)。
それは、今私が村で毎日感じている、まるで私がなにかを差し出してくると確信していてそれを虎視眈々と狙われているような感じではなかったのである。それどころか、ガーナ大学の友達やその家族、フィールドワーク先のホストファミリーのひとびとは、タダで何週間も家に泊めて面倒をみてくれたり、たらふくごはんをご馳走してくれたり、さらには交通費や病院代まで出してくれた。
このように私が今まで関わってきたガーナ人たちは(信用できる人を選んで付き合っているというのももちろんあるだろうが)、精神的にも物質的にも「あげることに惜しみのない人たち」であった(写真3)。
これはわたしが彼らに対して最も敬愛している点だ。そして、だからこそわたしも日本からのおみやげをあげたり、日本食を振る舞ったり、裁縫やおつかい、掃除などをしたりと日々の生活の中で出来る限りの恩返しをしてきた。インターンに応募したのも、ガーナ社会に生きる一員として社会の役に立てればと思ったからである。
写真3:フィールドワーク先であるManso Adubiaのホストファミリー。何の意味があるのか当人にすらわからないフィールドワークに、とても好意的に協力してくれる。
援助やボランティアビジネスというものをすべて批判するわけではないし、たとえそれが衣服や本をあげるなどの即物的なものであったとしても無意味だとは思わない。活動を通じて得られる学びがあることも否定しない。しかし、いきなり関係のないところにぽっと現れてモノをばらまくような上からの「支援」の在り方やそれをしたたかに利用しようとするボランティアビジネスが、健やかな人間関係の可能性を潰していることは間違いないだろう。せめて自分は、お金をばらまくただの都合がよいオブロニ(「外国人」の意味)にはならないぞ、と毎日身構えて過ごしている。
しかし、ときどきふと冒頭の祖母の話を思い出し力がゆるむ。「アメリカ兵にモノをねだっていた祖母もまっとうな人間として(多少面の皮が厚いが)生きてきたのだから、別にいいのではないか?」と。確かに、幼いころの祖母も村の人たちも、外国人のことを自分の世界の外側の人としてしか見ていないから「もらうだけ、頼るだけ」の一方的な関係性を築こうとしたのだろう。
しかし、それはわたしやアメリカ兵という「異人」が当該社会にずかずか入り込んでいったからこその特殊な反応であり、普段現地の人同士のつながりの中では起こりえないはずだ。そう考えると、問題は社会の側ではなく私の存在にあるような気がしてきて少し逃げたくなる。が、地域の人々の信頼を得て人間らしい付き合いをするようになる、つまり異人ではなくなるよう努力するのがいちばんの解決策だろう。そのためにはまず現地語をもっと上達させなきゃ、と思う今日この頃である。
最終更新: 2019年4月15日