日暮里とその周辺のいろいろな話
日暮里の大火と吉展ちゃん誘拐殺人事件
事件発生
日暮里の大火の2日前の昭和38年(1963)3月31日夕方、自宅前の入谷南公園に遊びに行った村越吉展ちゃん4歳(半月ほどで5歳になるところでした)が家に戻らず、行方不明になりました。届出を受けた下谷北警察署は、迷子の可能性があると考え捜索を行いました。
しかし、テレビが日暮里の大火を報じていた4月2日午後5時48分、吉展ちゃんの自宅に犯人から身代金50万円を要求する電話がかかってきたことから吉展ちゃんが誘拐されたことが確実となり、5日、下谷北署に特別捜査本部が設置されました。
大失態の警察!身代金を奪われ、犯人も取り逃がす
当時、日本の警察では誘拐事件の捜査手法が確立していませんでした。今なら当たり前の電話の逆探知も行われてませんでしたし、電話の音声を録音した録音機も被害者の父親が用意したものでした。また、捜査員の姿勢も誘拐事件に対する緊張感も無く、慎重性を欠くものでした。
こうしたことが大きなミスを生み、警察は、身代金を奪われ、犯人も取り逃がすという大失態を演じたのです。おまけに、身代金の紙幣番号も控えていなかったのです。しかも警察は、その失敗の責任を被害者家族のせいだといわんばかりの発表をしました。そのため、こうした事実が報道されると、警視庁や捜査本部には非難が殺到しました。
現在は閑散としている入谷南公園
茶色の建物付近に吉展ちゃんの家があった。
容疑者として小原保が浮上
警察は汚名を返上すべく、早期解決を目指し捜査員を大量に投入して捜査に当たりましたが犯人検挙の目途もなく、吉展ちゃんの行方も判りませんでした。そこで、警察は、4月25日、犯人の声をラジオ、テレビで全国に流しました。その結果、容疑者として小原保の名が捜査線上に浮かび上がりました。捜査本部が小原の身辺の捜査を行うと、彼は事件前、御徒町の時計店に勤務していて土地鑑があり、また、十数万円あった借金を事件後返済していました。さらに、小原は福島県石川町の出身で、電話音声の鑑定結果に該当しました。そこで、5月21日、警察は彼を別件逮捕して取り調べました。
警察は金の出所を追及しました。しかし、彼は「密輸品の時計の取引で得た」と言い、また、3月27日から4月3日までは、郷里の福島県石川町にいたとアリバイを主張しました。地元警察の裏付け捜査の結果、確かに3月27日に従兄弟が磐城石川駅の前で彼と会っていることが判りましたが、その後の足取りは不明ということで、完全なアリバイは認められませんでした。
犯人は素早く身代金を奪取しています。これに対し小原保は足が不自由でした。これは、幼い頃アカギレを悪化させたためで、このことが小原保の人生に大きな影を落としています。そののため彼には犯行は難しいと思われました。また、彼は荒川区南千住にある「ジョイフル三の輪商店街」の近くで飲み屋を営む十歳年上の女性と同棲しており、借金を返済するに当たって、彼女に20万円を預けていますが、奪われた身代金とは30万円の差額がありました。さらに、小原は30歳でしたが、電話の音声が40~50歳くらいという鑑定とも違っていました。こうしたことから捜査本部は彼をクロとは断定できず、6月10日、釈放しました。
小原が同棲していた女性の店があった付近
正面は荒川区立第一中学校
ジョイフル三ノ輪商店街
二度目の取り調べとアリバイ
その後も大規模な捜査が継続され、多く企業、団体も捜査に協力し、吉展ちゃんと犯人の行方に関する情報の収集等に当たりました。これにより、多数の情報が寄せられましたが、何れも決め手に欠けるもので、小原保以上の疑いのある者はいませんでした。
そこで12月、小原を再度取り調べました。この時は、捜査員を石川町に派遣し、アリバイの裏付け捜査を行いました。彼が郷里へ行ったのは、借金を清算するための金策でした。しかし、実家の兄に不義理をしたことを思い出し実家の敷居を跨ぐことはできませんでした。そのため、近くの農家の物置で寒さをしのぐため焚き火をしたり、そこの藁ぼっちにもぐり込んで寝たり、野宿をしようともしたが寒さに耐えきれず、実家の土蔵の鍵をこじ開け、凍み餠(つきたての餅を軒先に吊して凍らせた保存食)を食べたりしたと供述しました。また、「腰の曲がったお婆さんに会った」とも述べました。捜査の結果、確かにそのような男の行動が目撃されていました。また、彼が寝たという藁ぼっち近くの商店の女性が、小原らしい男が家の前を通るのを目撃したという証言もありました。しかし、いずれも日時がはっきりせず、アリバイを立証することも、切り崩すこともできず、結局、またもや犯人と断定することができませんでした。
ベテラン刑事平塚八兵衛
事件発生から満2年を前にした昭和40年3月11日、捜査本部は解散。以後は捜査員数人の体制で捜査を継続することになりました。そして、年度が変わった4月、警視庁の刑事部長と捜査一課長も交代。これとともに、事件発生からこれまで引き続き捜査を行ってきた捜査員を一新し、全く事件に拘わっていなかった新たな捜査員が代わって捜査を行うことになりました。その一人が、帝銀事件等、戦後の重大事件の捜査に携わったベテランの刑事平塚八兵衛でした。
彼は、これまでの捜査資料を参考にせず、一から捜査をやり直すことにし、まず、小原の郷里に足を運び、アリバイを調べ直しました。その結果から平塚は、小原保が郷里にいたのは3月30日までと判断しました。
また、小原にインタビューを試みた文化放送の記者の話では、ジョイフル三の輪付近の公園(瑞光公園?)で待ち伏せていたところ、それに気づいた彼は、とても足が不自由とは思えない敏捷な動きで一旦は記者達をまいたという。足が悪いから犯行は不可能と考えたのは前の捜査陣の思い込みに過ぎなかったのです。
さらに、小原が愛人に預けた金と身代金との差額についても、彼は、借金を返済した後もまだ30万円所持しているという仕草を見せたと彼の弟が証言。電話の音声の年齢についても、新たに30歳くらいという鑑定も出ました。
商店街に隣接する瑞光公園
記者が待ち伏せていた公園?
三度目の取り調べと日暮里の大火
こうした捜査の結果を受けて、三回目の取り調べを行うことになりました。しかし、小原は黙秘したり、奇怪な動きをしたり、奇声を発したりするなどして捜査員を翻弄しました。その内、朝日新聞や人権保護を標榜する団体等が、別件での取り調べは違法で、人権侵害に当たると主張し始めました。そのため警視庁はこれ以上の取り調べは難しいと判断。最後の手段として、この頃から米国のFBIが始めた新しい捜査手法である声紋鑑定に頼ることにし、小原の声を録音して送ることになりました。
取り調べではなく雑談であったためか小原も口が軽くなりました。そして、「俺だっていいこともしてるんだ、親戚の家に行った時、近所のボヤを消したんだ」と言いました。平塚が、「それは何時のことだ?」と尋ねると、「郷里から帰ってきた日だから4月3日だ」と答え、続けて「いつだったか、電車の中から見た日暮里の大火のようになったら大事だからな」と話しました。平塚はこれを聞き漏らしませんでした。日暮里の大火は4月2日です。3日まで郷里にいたという小原の主張と矛盾します。
ついに犯行を自供
平塚は直ちに録音を打ち切り、これまで調べた事実を突きつけ、小原を追及しました。「実家の土蔵は、茅葺き屋根を瓦葺きに直した時、鍵は付け替えられていたんだぞ、以前とは違う鍵をどうやって開けた」、「その年は、前年に米の出来が悪く、凍み餠は作らなかったんだぞ、ありもしない凍み餠をどうやって食べた」。また、「お前が藁ボッチから追い出された後、その藁ボッチは壊されてしまったんだぞ、無くなった藁ボッチでどうやって寝たんだ」と追及しました。さらに、「お前は、腰の曲がったお婆さんに会ったと言ったが、おれが会ったそのお婆さんは腰など曲がっちゃいなかったぞ!」
そして、平塚は「俺の話が嘘か、お前の話が嘘かここではっきりさせようじゃないか」と迫ると、小原は「嘘だ」とつぶやきました。「なに、俺の話が嘘だと言うのか!」と言い返すと、「いや、俺の話が嘘だ」と答えました。そこで平塚が「金はどうした」とたたみかけると「吉展ちゃんのお母さんから取った金だ」と犯行を自供しました。事件から2年3ヶ月たった昭和40年7月3日午後11時頃のことです。2年前に起きた日暮里の大火が難事件を解決に導いたのです。
犯行の詳細
犯行を自供した後の小原は、翌日、素直に詳細を話しました。借金の返済を迫られていた彼は、事件の直前、三ノ輪の映画館(キネマハウス?)で見た黒澤明監督の映画「天国と地獄」の予告編をヒントにして誘拐を思いついたのです。その場所として以前仕事で通り、大勢の子供が遊んでいた入谷南公園に決めました。その中で身なりの整っていた吉展ちゃんを、裕福な家の子と判断して選んだのです。小原は、言葉巧みに吉展ちゃんを公園から連れ出しました。吉展ちゃんは小原の前になり、後ろになりながら歩いていましたが、小原の歩き方を見て「小父さん足が痛いの?」と聞きました。そのため、このまま帰すと足が悪い自分が犯人であるということが判ってしまうと思い、殺害を決意し、その場所を東京スタジアム(現・荒川スポーツセンター等がある辺り)に決めました。「大関横丁」交差点近くの「東盛公園」で休み、暗くなるまで待った後、東京スタジアムまで連れて行きました。
しかし、東京スタジアムでは広すぎ、目立つ。その内、吉展ちゃんが「おうちへ帰ろうよ」と言い出したため、東京スタジアムを出て、日光街道に面した円通寺に連れて行きました。入口を入ると左側に建物があり電気は点いていませんでした。「ここが小父さんの家だけど、まだ誰も帰ってきていないようだから少し待っていよう」と言い、墓地のベンチに吉展ちゃんを向かい合いにだっこして座りました。しばらくすると、吉展ちゃんは歩き疲れたのか眠ってしまいました。そこで、自分のベルトを首に巻き付けて絞め殺し、遺体を墓に押し込んだのです。
円通寺の吉展地蔵尊
回向院の吉展地蔵尊
二つある地蔵
吉展地蔵尊は、殺害現場である円通寺の他、南千住駅前にもあります。
これは、村越家が回向院の檀家であるからと言われています。
小原保に死刑判決下る
昭和41年3月17日、東京地裁は小原保に死刑の判決を言い渡しました。彼はそのまま判決を受け入れるつもりでしたが、弁護士の熱心な勧めで控訴しました。しかし、昭和42年10月13日、死刑が確定ました。 死刑確定後、小原は精神的に不安定となったため、教誨師に奨められ短歌を始めました。小学校も満足にいかなかった小原ですが、千葉県で「土偶」という同人誌を発行している会に入会し、主催者の指導により上達。370首あまりの短歌を投稿しました。
昭和46月12月23日、宮城刑務所に於いて小原の刑が執行されました。享年38歳でした。死刑前日に小原が詠んだ辞世の歌は4首で、その一つは 「明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る」です。
小原は、刑の執行に立ち会った刑務官に「真人間になって死んでゆきます」という平塚への伝言を頼んだということです。
事件から今年(2023年)で60年、吉展ちゃんが事件に遭わなければ、4月17日、65才になったところでした。