本土で最初の空襲を受けたのは荒川区尾久町だった
昭和16年(1941年)12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争に突入しました。開戦当初、日本軍は連戦連勝でした。逆に言えば、米軍は連戦連敗でした。グアム、ウェーキを失い、フィリピンも陥落寸前でした。このままでは国民の間に厭戦気分が高まってしまう。何としても日本に一矢報いて国民の戦意高揚を計らなければならない。
そのためには日本本土、特に首都である東京を爆撃するのが効果的です。しかし、当時は米軍も自軍の基地(一番近くてミッドウエー島)から出撃して日本本土を爆撃して戻って来ることができるような爆撃機は保有していませんでした。日本本土を爆撃するとすれば、どうしても空母の艦載機によらなければならない。そのためには空母は日本の沖合400マイル(約640km)以内に接近する必要がありました。しかも、空母は艦載機を発進させればそれで終わりと言うわけにはいかず、艦載機が戻ってくるまでその辺で待機していなければなりません。これは非常に危険なことで、当然、日本軍の反撃を招き、空母を失う恐れもあります。当時、太平洋に於ける航空母艦兵力は日本が優勢でした。従って、そのようなリスクを冒すことはできません。
そこで、犬吠埼沖に接近した空母から、艦載機より航続距離の長い陸軍の双発の爆撃機B25を発進させて日本各地を攻撃し、その後、B25は空母には戻らず、そのまま中国大陸まで飛んで、搭乗員は中国軍に保護してもらうという、当時としては奇想天外な作戦を考えました。その隊長にドーリットル中佐が任命され、隊員達はフロリダの秘密基地で短距離の滑走路から発信する猛訓練を行い、4月2日、空母ホーネットに16機のB25を積載し、2隻の巡洋艦と駆逐艦4隻に護衛されてサンフランシスコを出撃。北太平洋において、ハワイから北上してきた空母エンタープライズを中心とする機動部隊と合流。日本へ向かいました。
日本に向かうホーネット艦上のB25(Wikipediaより)
作戦では4月18日午後、B25はホーネットを飛び立ち、夜、日本各地を爆撃して中国大陸に向かうことになっていました。しかし、この日の早朝、警戒中の日本軍の哨戒艇第23日東丸がアメリカ艦隊を発見。第23日東丸は「敵空母発見、ワレ犬吠埼沖600マイル」と打電。一方、米軍もこの無線をキャッチ。軽巡洋艦ナッシュビルの砲火によって第23日東丸を撃沈しました。しかし、発見され連絡されたことは間違いない。そこで昼過ぎまで待たず、ただちにB25を出撃させることになりました。こうしてホーネットからはドーリットル中佐の乗る1号機を先頭に16機のB25が次々と飛び立っていったのです。
この空襲で、尾久を爆撃したのは2号機でした。2号機は、ドーリットル中佐の乗る1号機より5分遅れてホーネットを飛び立つと、1号機の後を追うように水戸の北方から日本本土上空に侵入。南西方向に飛び、下妻付近で南に変針、水海道から江戸川を越え東京上空に達しました。この時、米軍機は超低空を飛んでいました。これは、レーダー(当時、日本軍は保有していなかったが)を警戒したこと、また、超低空を飛ぶことにより逆に発見されにくくすることと、迎撃戦闘機の攻撃や、高射砲等の対空砲火を受けにくくなるという利点があったからです。
しかし、低空すぎたため、2号機は前を行く1号機を見失ってしまいました(追い抜いてしまったと言われている)。2号機の攻撃目標は、赤羽にあった造兵廠や兵器廠でした。ところが、低すぎて目標もよく分からない。そこで、隅田川沿いに立ち並ぶ煙突目がけて爆弾3発と焼夷弾1発を投下したのです。当時ここには旭電化の工場がありました。これらの工場は、昭和40年代から50年代にかけて茨城県の鹿島に移転し、現在は都立大学荒川キャンパスや、尾久の原公園等のある場所です。しかし、爆弾はここにも命中せず、近くの尾久町九丁目2795番地(現・東尾久8-23)付近3箇所の民家に落下したのです。
この結果、民間人10人が死亡、48人が負傷、66戸が全半壊ないしは焼かれました。これが第二次世界大戦における(というより歴史上に於いて)日本本土の最初の空襲の被害となりました。この攻撃では、東京の他、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸等が空襲され、死者87名、負傷者460人以上を出し、約300戸の建物が破壊され、焼かれました。
80年前、日暮里の空を飛んでいた本土初空襲の隊長機
この時、2号機が見失ったドーリットル中佐の乗る1号機はどこを飛んでいたのでしょうか。実は、日暮里上空だったのです。そのため、当時日暮里に住んでいた人の多くがこの爆撃機を見たはずです。当町会の副会長を務められた柿崎照直さんもその一人でした。柿崎さんは、B25を見た後、母親に「アメリカの飛行機が飛んで来るようでは、日本も終わりだ」と言うと、「そんなこと言ってはいけない!」ときつく叱られたそうです。
何しろ80年も前の話ですから、見た人の多くも既に亡くなってしまいました(柿崎さんも平成30年4月に90歳で亡くなられました)。しかし、二人の人がこの飛行機を見たことを書き残しています。一人は、澤野孝二さんと言う方で、羽二重団子の6代目澤野庄五郎氏の弟です。氏は「谷根千」(谷中、根津、千駄木を総称する谷根千という名の元になった本で既に廃刊となっている)というタウン誌の平成18年3月発行の第83号にその時の様子を寄稿しています。
それによると、13歳だった氏は昼ご飯を食べ終わると勢いよく表に飛び出しました、その日は雲ひとつ無い快晴でした。すると、北の空から超低空で飛んで来る双発機に気が付きました。初めは、それが海軍の九六式陸攻(紀元2596年式の陸上攻撃機)であると思ったそうです。双発であることや、垂直尾翼が水平尾翼の両端についているのがB25と似ていたからです。しかし、近づいて来たカーキ色の機体は、まさしく米軍のノースアメリカンB25でした。氏は機首から突き出た機銃と、その銃座に座る射手の姿をはっきり見たと言うことです。B25は頭上を越えると、高度を上げ、機体をやや左に傾け、桜が散り始めた谷中の墓地の上空に消えていきました。
九六式陸上攻撃機(Wikipediaより)
氏は、あわてて店に飛び込むと、「大変だ!空襲だ!ノースアメリカンだ!」と叫びました。しかし、破竹の勢いで勝ち進んでいる日本の本土、しかも、その帝都の東京がアメリカ軍の空襲を受けるとは誰も考えていません。家の人も客も誰も相手にしてくれません。仕方なく再び外に飛び出すと、店の裏の芋坂陸橋に駆け上がりました。もちろんB25は飛び去って見えません。しかしその時、氏は北の空に黒煙が上がるのを見ました。その時は、「今の飛行機が爆撃していったのだ」と思ったそうですが、後に、それは2番機が尾久を爆撃した煙だということを知りました。
もう一人は、日暮里出身の作家吉村昭で、短編集「東京の戦争」と「東京歳時記」にその時の様子を書いています。当時は開成中学の3年生で、自宅は現在のホテルラングウッドの南あたりにありました。吉村は、無類の凧好きで、その日も自宅の物干し台で凧揚げをしていました。その日は土曜日でした。すると、やはり超低空で飛んで来る双発の爆撃機が目に入り、思わず凧糸を引き寄せたということです。それほど低空だったのでしょう。その時、吉村は操縦席に座るオレンジ色のマフラーをした二人のパイロットを見たと書いています。とすれば、その内の一人は隊長であるドーリットル中佐だったことになります
※戦史研究家の戸高一成氏の調査により、日暮里を飛んだ機体は、ドーリットル中佐の乗る1号機であるということが確認されたそうです。
B25は頭上を越えると、高度を上げ、機体をやや右に傾けて飛び去ったという(澤野氏とは全く正反対ですが、何れも、目撃から数十年年経ってから書かれたものですから、どちらかの記憶違いと考えらます。コース等から考えると、澤野氏の「左」のように思えるのですが)。
その後、1号機は春日町から関口、水道町方面に飛んでいったと思われます。1号機の目標は、当時後楽園にあった秘密工場でした。しかし、やはりそれが何処にあるのか分からないまま通り過ぎてしまい、早稲田付近で爆弾を投下。そのため中学生を含む2人が死亡しました。この後、1号機は池袋付近で進路を西に変え、さらに立川付近で南に変え、相模湾に抜けた後、中国の寿昌上空に達しました。しかし、すでに真っ暗闇であったため着陸地点が分からず、やむを得ず機体を放棄し、搭乗員一同落下傘で降下し、中国軍によって保護されました。
「日本に一矢報いて国民の戦意高揚を計る」というアメリカの思惑はものの見事に当たりました。ニューヨークに凱旋したドーリットル中佐と隊員達は、大西洋の単独横断飛行に成功したリンドバーク以来という大歓迎を受けました。一方、日本軍には大きな衝撃を与えました。特に、天皇陛下を深く敬愛していた連合艦隊司令長官山本五十六にとっては、その天皇が住まわれる帝都を爆撃されたのですからショックは大きかった。そして山本は、この爆撃機がミッドウエー島から飛来したものと考えました。海軍は、ミッドウエー島を攻略する「ミッドウエー作戦」の実施を主張していました。しかし、これには陸軍が強く反対していました。ミッドウエー島は日本からは4,500km離れているが、ハワイからは1,500kmしかない。そのため、たとえこれを占領したとしても反撃を招きやすく、保持することは困難であるということからでした。しかし、この空襲によって陸軍もミッドウエー作戦の必要性を認識し、作戦は実施されることになりました。
そして、1ヶ月半後のミッドウエー海戦で日本は主力空母4隻を失うという大敗を喫し、これが戦局の一大転換点となったのです。80年前、太平洋戦争の戦局に重大な影響を及ぼした作戦の隊長機が日暮里の上空を飛んでいたのです。
※山本五十六は、この空襲の1年後の同じ4月18日、ソロモン諸島のブーゲンビル島上空でアメリカ軍の待ち伏せ攻撃を受け戦死しました。