日暮里のよもやま話
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2024年、20年ぶりに紙幣が改刷されますが、新しい一万円札の図柄に採用されたのは渋沢栄一の肖像です。渋沢は日本の資本主義の父と言われ、500余りの企業の設立に関わったとされています。したがって、経済界では著名な人物でしたが、一般的にはそれほど知られていたわけではありませんでした。しかし、新紙幣に採用されたことにより一躍脚光を浴び、昨年はNHKの大河ドラマの主人公にもなっています。
そのため、生誕の地である深谷市はもちろん、設立した会社の一つである王子製紙があった地で、渋沢が晩年を過ごした地でもある北区でも関連するイベント等が開かれ盛り上がっているようです。
残念ながら、そのような盛り上がりは全く見られませんが、我が荒川区にも千住製絨所、東京毛織物、東京瓦斯製造所など、渋沢が関わった会社がありました。何れも南千住にあったものですが、実は日暮里にも渋沢が設立した会社がありました。それは、「耕牧舎」という牧場です。
■箱根仙石原に耕牧舎設立
明治13年(1880年)、渋沢栄一は箱根仙石原の足柄県の県有地737ヘクタール余の払い下げを受け、耕牧舎を設立、従弟の須永伝蔵※1 を責任者として開拓に着手しました。
当初は牧羊場として毛布の原料となる羊毛の生産をする予定でしたが、一面カヤ原の仙石原は羊の飼育には不適当とわかり、牛に変更して酪農経営に転換しました。
※1栄一の父の妹の長男、元彰義隊幹事 須永於菟之助(おとのすけ)。NHK大河ドラマ「青天を衝け」に登場した渋沢家の作男「伝蔵」のモデルと言われる
●写真は、「青天を衝け」において萩原護が演じる伝蔵
■東京に支店開設
当時から箱根は避暑地として賑わいをみせていましたが、夏季の避暑需要をピークに売上は急減、冬場は牛乳が余り、また、寒さや霜、積雪により牧草の育ちも悪かったことから、明治15年(1882年)、東京府北豊島郡金杉村56番地(現・台東区根岸3丁目3番地付近※2)に支店を設けました。当時の金杉村は、現在の荒川区東日暮里の大部分と台東区根岸を合わせた地域でしたが、明治22年(1889年)、音無川を境に分割され南側の根岸は下谷区に編入され東京市部となったことから、明治33年(1900年)に出された「牛乳営業取締規則」により東京市内の搾乳業者は、7月までに市外に移転しなければならなくなりました。そのため、根岸の支店も北豊島郡日暮里村谷中本1062番地(現・東日暮里5-49-8付近※3)に移転しました。
続いて翌16年には、さらに京橋区入船町8丁目1番地(現在の中央区明石町10先、聖路加国際病院第一街区南西隅)へ支店を増設、東京側の本店と位置付けられました(明治26年、外国人居留地拡張のため芝区新銭座町に移転)。この東京の支店の責任者となったのが芥川龍之介の実の父親である新原敏三でした。
※2 言問通りに面した業務スーパー河内屋の向かい側の路地を入った右側付近と考えられます
※3 日暮里駅から鶯谷方面に進み、アパホテル手前のパチンコ店の向かい側のマンションの所
「荒川のまちのよもやま話」 P105 「耕牧舎の井戸」に掲載された地図
■耕牧舎と芥川龍之介
芥川龍之介は明治25年(1892年)3月、東京本店のあった入船町で、父敏三と母フクとの間の長男として生まれました。この時、両親とも厄年でした。当時、親が厄年の歳に産まれた子は、厄落としのため形式的に捨て子をするという風習がありました。そのため、龍之介も近く(現・聖路加病院付近)にあったプロテスタント教会の門前に置かれ、その龍之介の拾い親となったのが新原の同僚で金杉店を管理していた松村浅次郎でした。
龍之介は、生後7ヶ月の頃、母が精神を病んだことから母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育されました。そして、11歳のときに母が亡くなると、翌年に伯父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになりました。
■耕牧舎と吉村昭
日暮里出身の作家吉村昭の住居は、現在のホテルラングウッドの南付近で、耕牧舎の近くにあったので、その著書でも耕牧舎を紹介しています。吉村昭は幼い頃、深夜に目を覚ますのが恐ろしく夜明けが待ち遠しかったということで、短編集「東京の下町」の「物売り」中で、「牛乳配達の車が街並みの間を縫いはじめているのを知ると夜明けが間近いことを感じ、嬉しくなる。…その箱車は白いペンキでぬられ、青い文字で両側と後部のとびらの部分に耕牧舎と書かれていた。日暮里駅前から根岸にむかう道の左手にあった牛乳屋で、裏手に乳牛を飼う柵をめぐらした牧場と牧舎があり、道に面して二階建ての洋館が建っていた。その建物の中でしぼった乳を殺菌し瓶づめにし、箱車に入れて町の家々にくばる」と記し、その耕牧舎が芥川龍之介の生家と関係があったことも紹介している。
吉村昭「東京の戦争」より
同じく短編集「東京の戦争」の中の「空襲のこと(後編)」には、昭和20年4月13日深夜から翌日にかけての空襲直後の様子を 「町は焼きはらわれ、一夜で全くの平坦地になっていた。私は、人々とともに高台の谷中の墓地から町におりていった。家屋の密集していた町が、灰におおわれた火山跡のようになっていた。初めに眼にしたのは、牛の死体であった。日暮里の駅前から根岸方向に50メートルほど進んだ道ぞいに、耕牧舎という牛乳精製所があった。二階建ての白いペンキの塗られた洋風のしゃれた建物で、裏手に牧場まがいの敷地があり、多くの乳牛が飼われていた。…」 と書いている。
■耕牧舎の盛衰と解散
新原は経営手腕を発揮し、帝国ホテルや築地精養軒などの一流どころ、海軍や病院など集団飲用のお得意先を獲得。明治21年には新宿にも牧場を開設するなどして隆盛を極めました。
しかし、明治30年代に入ると次第に衰退してゆき、明治37年、仙石原の牧場の責任者須永伝蔵が亡くなると、渋沢も耕牧舎を手放すことにしました。翌38年、新銭座本店および新宿支舎は新原が買い取り、日暮里支舎を引き取ったのは松村浅次郎でした。明治42年(1909年)、浅次郎が亡くなった後は次男の五三郎が後を継ぎました。
大正14年(1925年)に発行された日暮里・三河島の地図の裏面の広告欄には耕牧舎の広告も掲載されていて、店主は大野五三郎となっています。大野五三郎の名は、大正15年に出版された「日暮里町史」や昭和6年の「日暮里町政沿革史」に多額納税者として出ていますし、大正12年、尾久が村から町へ昇格したのを記念して発行された「新興の尾久町」には、日暮里町議会議員として名刺広告を出しています。松村浅次郎の次男の「五三郎」と、大野五三郎は同一人物と考えられますが、姓が変わった理由については分かりません。
■耕牧舎のその後
耕牧舎ブランドの店は芝新銭座本店、新宿支舎、日暮里支舎の他にも王子西ヶ原、神奈川県小田原、山梨県南都留郡谷村町と、北都留郡大原村猿橋にあったということですが、それぞれ関係者が買取り独立したようです。
しかし、大正時代になると大手菓子メーカーが牛乳の生産販売に進出してきたこともあり、何れの支舎も、かっての隆盛を取り戻すことはなく、新宿の牧場は大正初期に廃場。芝新銭座も間もなく閉鎖。大正8年に新原が死去した後、譲渡されたそうですが、終戦前には廃業したといわれています。東京以外の店の中には戦後も搾乳して、販売していた店もあったようです。しかし、何れも昭和30年代には廃業したと思われます。
耕牧舎日暮里支舎は粘り強く操業が続けられましたが、「昭和17年(1942年)、戦時の統制一元化により東京乳業(株)へ企業統合され消滅した」との記録もあります。しかし、前出の吉村昭の「東京の戦争」に書かれているように空襲直前まで牛を飼っていたということは、昭和17年以降も搾乳して販売していたのではないかと考えられます。
戦後も搾乳こそしていませんでしたが牛乳の販売は行っていたようで、昭和50年代でも近所では「コウボクシャ」という名前が通用していました。しかし、昭和の終わり頃にはマンションが建設され、現在では、かってここに牧場があったことなど想像することすらできません。
■渋沢栄一の墓
渋沢栄一の墓は、耕牧舎日暮里支舎跡から直線でわずか400mの谷中霊園内(乙11号の1側、JR線を跨ぐ御隠殿陸橋を渡って150mほど進んだ右側)にあり、徳川慶喜の墓の近くで、その方角に向いて建てられたと云われています。以前は、写真の奥に写っているような石造りの塀で囲まれていて立ち入ることが出来ず、誰の墓なのか分かりませんでした。しかし、東日本大震災で破損したらしく、塀を撤去し、平成26年6月、写真の右側の奥の方にあったタブの木を、伝統的な移植工法「立ち曳き※」で20mほど離れた栄一の墓の正面へ移植しました。その後、墓所の三分の二ほどが返還され、令和4年2月、「谷中霊園中央東広場」として整備されました。
※根巻きを行った後、移植場所まで溝を掘り、神楽桟(かぐらさん)という木製の人力巻き揚げ機を使って曳く
写真上 整備された広場(奥が渋沢家墓所)
写真下 渋沢家墓所(中央が渋沢栄一の墓)