日暮里とその周辺のいろいろな話
日暮里の大火(2) 昭和38年の大火
火災発生とその原因
東京オリンピックを1年後に控えた昭和38年(1963)4月2日午後2時56頃、大正14年に起きた「金杉の大火」で焼失した地域でまたも大火災が発生しました。出火場所は、その前年の三河島事故の現場からわずか300mほどの荒川区日暮里町2丁目274番地(現・東日暮里3-23付近)にあった「瑞光商会」という寝具製造会社の作業場でした。原因は工場の従業員が、休憩時間に一服しようとタバコに火を付け、まだ火が消えていないマッチ棒を水の入ったバケツと勘違いしてシンナーの入ったバケツに投げ込んだことにより爆発的に炎上したものでした。
強風と消防水利の不備
この日都内では最大瞬間風速21mを記録する強風が吹き、この年7回目の火災警報が発令されていたため、火はこの強風にあおられて燃え広がり、7時間にわたって燃え続けました。東京消防庁は第四出場を発令、消防車83台が出動、消防署員・消防団員合わせて1,091名を動員して消火に当たりましたが、36棟、5,098㎡を焼失、負傷者は約220名(うち消防隊13名)・罹災者は326名(78世帯)に上りました。幸い金杉の大火同様火災が昼間だったこともあって死者は出ませんでした。
大火となってしまった要因としては、強風とともに消防水利の不備が挙げられます。当時、日暮里地区の大半が金町浄水場からの給水系統の末端に位置しており、普段から水圧が低く、水を飲もうとコップに水を入れるのにもかなりの時間を要するほどでした。その上、消防や警察が、付近の住宅に「延焼を防ぐため、屋根や外壁に水を撒くよう」指示したため、付近の家で一斉に水を出したことにより余計水圧が低下したと言われています。
現場近くの日暮里公園内には第三日暮里小学校のプールがあり、約250トンの水が貯水されていましたが、それも短時間で使い果たしてしまい、火はカンカン森通りを越えて延焼しました。しかし、幸い第三日暮里小学校の鉄筋コンクリート校舎(現在の校舎はその後建て替えられたもの)が防火壁の役目を果たし、延焼を食い止めることができました。
燃え広がる炎
当時、私は大学2年になる直前で春休みの時でした。午後3時を過ぎた頃、激しくサイレンが鳴り響きました。北側の窓を開けると東の方に煙りが立ち上っているが見えました。「これは近いぞ!」と、直ぐにも駆けつけたかったのですが、その頃、父が重病で床に伏せている状態でした。そのため、母から「お父さんを見ていているよう」と言われたので出られません。しかし、サイレンは止むこと無く鳴り続き、煙も一層高くわき上がっています。
ついに、「少しだけならいいだろう」と家を飛び出し、自転車で現場近くまで行きました。そこが何処であったかは良く覚えていませんが、火災現場と「蓮念寺」の中間の「A」付近であったと思います。
普通の火災であれば、消防隊が到着して放水を始めると煙も白くなり、まもなく下火になりますが、火勢は一向に収まらず、それどころか次々と隣家へ延焼していきます。そんな時、野次馬の中には「消防は何してんだ!」などど怒声をあびせる者もいました。その内、警察官が来て非常線を張り始め、それに追い立てられるように家に戻りました。その後も家の前の日暮里中央通り(繊維街通り)からは、大量の黒煙が第三日暮里小学校の上を越え南に向かって流れていくのが見えました。
午後5時を過ぎると、この黒煙を見たり、ニュースで火災を知った勤め帰りの野次馬が中央通りをぞろぞろと列を成して火災現場の方へ歩いていきました。
火災現場へ入る
日が暮れ、すっかり暗くなった頃、区役所から父が経営していた会社(設備工事)に「罹災者が避難している第三日暮里小のポンプが動かなくなって水が出ないので見て欲しい」との要請がありました。2、3人の職人と一緒に私も学校へついて行きました。学校の玄関への道路の入口にはロープが張られ、警察官が警戒していましたが、要件を告げると直ぐにロープを外し通してくれました。
学校には多くの焼け出された人々が避難していました。ポンプは、校舎とその北側の民家との間のブロックで造られた小屋の中にありました。北側の民家も焼けたので、ポンプが止まったのは、その熱気のせいか、あるいは水の出が悪く受水槽が空になってしまったためと考えられましたが、私達が着くと既に動いていました。
折角、警戒線の中に入れたので少し火災現場の中を見ながら帰ることにしました。多くの建物が黒焦げとなり焼け落ちた異様な光景を見るのは始めての体験でした。すでに火は収まっていましたが、時折、焼け跡から火の手があがり、消防隊員があわてて放水していました。
東京湾まで達した大量の黒煙
昭和38年の大火は、金杉の大火と比べると焼失面積が約1/30、全焼家屋は1/48程度に過ぎません。しかし、現在では「日暮里の大火」と言えば、この昭和の大火を指します。それは、そもそも金杉の大火を知らない人が多いせいでもあるかも知れませんが、一つには火災の規模に比べ膨大な煙りが発生したことによるのではないかとも思われます。
出火場所に貯蔵されていた特殊可燃物約20トンや、近くにあった(現・ゆうやけこやけふれあい館の場所)再生ゴムを取り扱う「東部ラバー」という会社に野積みにされていた約1000トンの古タイヤ・ゴムなどが焼けたため膨大な黒煙が発生。煙は、北風にあおられて銀座を越え東京湾まで達したといわれています。
実際、父の会社の四谷にあった取引先の建設会社からも「ここからも煙が見えるけど、大丈夫か?」との問合せの電話があったそうです。また、町内には勤務先の横浜からこの煙が見たという方もいらっしゃいました。
二日前に起きていた重大事件
実はこの頃、火災現場から1.6kmほど離れた台東区入谷町(現・台東区松が谷三丁目)で重大な事件が発生していました。そして2年後、「日暮里の大火 」はその事件の解決の糸口となり再び脚光を浴びることになりました。
この事件については次回紹介します。