鉄道の被害
地震のため、建物だけでなく交通機関も大きな被害を蒙りました。地震発生の直前、震源に近かった熱海線(現・東海道本線)根府川駅に入ってきた真鶴行き下り第109列車は、地震とともに起きた山津波によって駅舎・ホームもろとも45m下の海中に押し流されました。乗員乗客(駅にいた者を含む)の死者は10名、負傷者13名ですが、150名と推定される乗客の内、幸運にも救助されたのは、海岸へ這い上がった約30名と、通りかかった汽船に救い上げられた10名のみでしたので、行方不明者は100名以上と言われています。海に流され、土砂に埋まってしまったため遺体が発見できなかったことから死者数を確定できなかったようです。日本で100名以上の死者を出した鉄道事故は9件ありますが、この事故がその最初のものとなりました。
東海道線に比べ震源から離れていた東北線の上野~大宮間には3本の旅客列車と4本の貨物列車が走行していましたが、事故はありませんでした。しかし、赤羽~川口町(現・川口)間の荒川橋梁の橋脚が沈下したため列車の走行が出来なくなり、上越南線等で作業中だった鉄道第一連隊の150名が赤羽駅に急行、応急工事により下り線が9月4日に、上り線も17日※に復旧しました。
※内田宗治著「関東大震災と鉄道」による、吉村昭の「関東大震災」では下り線が9月4日、上り線は翌日となっている)
一方、常磐線の日暮里~土浦間には旅客列車4本と貨物列車7本が運行していましたが、我孫子~柏間で線路が沈下、貨物列車の貨車4輌が転覆、幸い貨車なので人的被害は無かったようです。しかし、同様に線路が沈下した土浦~荒川沖間の鉄橋近では、走行中の久之浜発上野行きの上り普通814列車が脱線転覆、死者9名、負傷者47名を出す事故となりました。また、隅田川鉄橋の橋脚に亀裂が入ったため、三河島~亀有間の列車の運行が出来なくなってしまいました。
上野駅焼失
北への玄関口である上野駅の駅舎は、地震でかなりの損傷を受けたものの倒壊せず、また、火災からも安全と思われました。そのため、隣接する上野公園へ避難する人々が流れ込み、駅前広場だけでなく駅構内や上野~日暮里間の線路上にも避難民が溢れかえりました。それでも、何とか3本の列車を運転して、それぞれ数千人の避難民を王子駅と赤羽駅まで輸送しました。
しかし、翌2日午後には風向きが変わり稲荷町方面から火の手が迫り、夕方には、ついに駅舎に火がつき、構内のほとんどの建物が焼け落ちました。
混雑する日暮里駅
上野駅が焼け、また上野~日暮里間の線路上にも避難民がひしめいていたため、東北・信越・常磐線方面への列車の始発駅は日暮里駅となりました。
しかし、家を焼かれ住む所を失ったり、地震の再襲来を怖れる者や、食料不足のため等、つてを頼って地方へ脱出しようと考える罹災者が多く、また、政府もそれを奨励しました。その上、東海道本線が各地で損壊し不通となってしまったため、名古屋・関西方面へ避難しようとする人々も信越本線や中央線経由で行かねばならなかったため、始発駅となった日暮里駅は甚だしく混雑しました。
10数年前に廃刊となったタウン誌「谷根千」其の24には、諏方神社近くに住まわれていた平塚春造氏(M34生)の次のような談話が掲載されています「人の列が駅から御殿坂を上がって、うちの前(諏訪台通り)を通り、諏訪神社からまたぐるっと日暮里駅のほうまで…。一昼夜ぐらい並んでやっと列車に乗れたようです」
中には、折り返しの下り列車に乗るため、上り列車(これも同様の混雑なのだが)で日暮里駅まで来て、そのまま降りずに居座る者がいて、それを防ぐため、駅員だけでなく軍の兵士も動員して降車客を南部踏切道(現・日暮里駅南口紅葉橋付近と思われる)へ誘導したということです。(関東大震災と鉄道P192)
そのような混雑を緩和するため、東北本線は田端駅から、信越線・常磐線は日暮里駅からと改められました。
そうしてやっと駅に入っても、列車もそれ以上の混雑で、記録によると、定員100人ほどの客車10輌編成の列車に5~6千人の客を乗せたと言いますから、定員の約5倍になります。車内やデッキはすし詰めでトイレへ立つことも出来ず、それでも車内に入れた者は良い方で、中には客車の屋根に乗ったり、窓枠に帯びを結びぶら下がったりする者も多く、当然、陸橋や線路脇の信号機・電柱・標識等に当たって死傷する事故も頻発しました。
こうした混雑を打開するため、鉄道職員だけでなく鉄道連隊も動員し、主として大動脈である東海道本線の復旧に全力を注ぎました。しかし、あいにく台風シーズンのため折角完成した仮橋梁が川の増水で流されてしまうなどのトラブルもあり、東京~沼津間が単線開通したのは2ヶ月後の10月28日で、完全に復旧したのは翌大正13年8月15日になりました。
列車に乗ろうとする避難民で溢れる日暮里駅
当時の駅は、現在より少し北側(現・西日暮里駅寄り)にありました。
列車の後方が田端方面で、中央が東北本線のホーム。左は電車線(現・京浜東北線)、右は常磐線です。