三河島駅の謎(なぜ橋の上にあるのか?)
橋の下を利用しようとした?
三河島駅はにぎやかな駅です。と言っても、乗降客が多いという意味ではありません。むしろ、乗客数は少なく、2022年のデータによると10,551人で、東京23区内のJRの駅の中では、越中島駅、上中里駅、尾久駅に次ぐ少なさです。それはともかく、「にぎやか」というのは音のことです。電車の発着、通過のたびに轟音が響きます。その音は風向きによっては400m以上離れたわが家にも聞こえます。
なぜでしょう? それは、ホームが鉄橋の上にあるからです。でも、どうしてホームを橋の上に造ったのでしょう。駅の施設は橋の下にありますが、駅以外は特に橋の下に施設は見当たりません。ホーム下を利用しようとして橋にした訳ではないようです。それならば他の部分と同じ盛り土式にしても良かったのではないかと思います。
日暮里~南千住間の高架化
前回記したように常磐線三河島駅が開業したのは明治38年(1905年)のことです。もちろん、当時は高架ではなく地上にありました。当然、道路とは踏切での平面交差でした。
ところが、関東大震災後の復興により道路が整備され、自動車も普及し始めると渋滞するようになってきたのでしょう。実際、当東日暮里六丁目本町会の70周年誌の49頁の写真にあるように、三河島駅前の踏切はかなり混雑しています。おそらく、尾竹橋通りだけでなく明治通りや日光街道もさらに渋滞していたと思われます。
時期は不明ですが、三河島~南千住の中間付近(現・正庭通り付近)から南千住駅までは先に高架化が完了していたようで、昭和11年12月、残りの日暮里(京成線下の金杉踏切付近)~正庭通り付近までの高架化工事が完成し、日暮里~南千住間が高架化されました。
工事記録によると、「この工事は日暮里駅方面から来る旅客線と田端方面からの貨物線の平面交差を立体式に改めると同時に、これら4線が1k300m(日暮里駅起点より)付近に於いて交差する三河島大踏切道(現・尾竹橋通り)を立体式に交差せしめるために施工せられる」とあることから、旅客線と貨物線の平面交差の解消も目的でした。
三河島駅橋の上に造られた理由
工事は、昭和10年8月より3工区に分けて始まり、奥村組、鉄道工業(現在は存在しない)、鹿島組(現・鹿島建設)が施工しました。高架線の大部分は、盛土式ですが、堤防のように上から下まで土で緩やかな法面(のりめん/斜面)にしたのでは広大な用地を必要とするので、両側にコンクリート(一部は間知石)で擁壁を築き、その間を土で埋める方法がとられました。しかし、もともとこの辺りは地盤が弱く、特に尾竹橋通りから日暮里駅側約200mは極めて軟弱で、この方法では路盤沈下の恐れがあるため、この区間は、最新技術である圧気潜函工法が取り入れられました。これは、地上で躯体を製作し、その最下部を掘り下げて躯体を徐々に沈下させ、地下に設置する工法で、これにより直径2,5mの杭を12本、2,2mの杭を47本、いずれも地下30mの深さの堅い地盤まで打ち、この上にコンクリートの橋脚を築造し、鋼板製の橋桁を渡しました。橋桁もコンクリート造であれば、音はもう小さくなったのではないかと思われます。
工事は、限られた狭い用地内で施工されたので、工事の進行に合わせ5回に亘り線路の切替を行いました。まず、三河島駅構内の線路を南側に移動し(写真参照)、仮駅を尾竹橋通りの東側、上り線側に設置しました。現在、上り線南側沿いにある道路はこの名残と思われます。この後、下り線の高架工事を行い。完成後単線運転し、続いて上り線の工事を行いました。工費は、用地費を含み約210万円でした。
なお、高架化と同時に上野・松戸間の電化も完成し、常磐線に初めて電車が走り始めましたが、都内の旧国鉄の路線では最も遅い電化でした。
高架化工事中の三河島駅構内
中央左寄りは、潜函工法で施工中の下り線。中央右寄り奥に仮駅が見える。その手前の道路は現・尾竹橋通り。
※土木建築工事画報第11巻5号(昭和10年5号)より