今から80年前の昭和19年8月、空襲から小学校の生徒達を守るため、地方へ避難させる「学童疎開」が始まった
昭和19年(1944年)7月、日本が絶対国防圏としていたマリアナ諸島のサイパン島が陥落し、日本本土はアメリカ軍の大型爆撃機B29の空襲に晒される恐れが出てきました。そこで、都市部の学童(当時の国民学校初等科の生徒)を地方へ疎開させることになりました。
政府は縁故疎開を推奨しましたが、縁故疎開は、地方の農村に親戚や知人があり、しかも自費で移動出来るだけの経済的余裕のある者にしか出来ないため10%足らずで、多くは学校毎の集団で疎開しました。
荒川区の小学校は、福島県へ
集団疎開は、昭和19年8月から始まり、荒川区内の学校は福島県の各地に疎開しました。学童疎開50周年を記念して発行された「福島の空の下で」によると、日暮里地区の学校の疎開先は、一日小(現・第一日暮里小学校、当時は第一日暮里国民学校、以下同様)と二日小が岩代熱海(現・磐梯熱海)、三日小が石川町と母畑村、四日小が常葉町と船引町、五日小が須賀川町と長沼町、六日小が船引町、そして真土小が三春町でした。児童達は、8月21日の真土小を皮切りに、25日の一日小、三日小まで、住み慣れた日暮里の町と親元を離れ、順次上野駅から夜行列車で福島県に向かい、遠く知らない土地で疎開生活を送ることになりました。
6年生は卒業のため翌20年2~3月に帰京しましたが、中には3月9日、帰ってきたその夜に行われた東京大空襲の犠牲となった子もいたそうです。第一次の疎開は3~6年生まででしたが、20年3月24~26日に実施された第二次では、1、2年生も加わり、新3年生とともに疎開しました。なお、五日小のみ4月17・26日に第三次疎開が行われていますが、詳細は不明です。
こうして集団疎開した学童は日暮里地区だけで7校2676人に達し、当町会の学区域にある二日小は438人で、三日小に次ぐ人数でした。
親元を離れ、さびしく、ひもじい暮らし
集団学童疎開を体験した人によると「始めは遠足気分だったが、3日も経つと帰りたくなり、特に1、2年生は親が恋しく泣く子も多かった」と話しています。福島は東京より寒さが厳しい所ですが、幸い疎開した岩代熱海は温泉地であったことから風呂で温まることが出来たそうです。しかし、食糧事情が悪いため、常に空腹状態であったということです。
疎開中、区内の学童の内8人が死亡しましたが、5人が病死で、溺死、交通事故、食中毒が各1人でした。溺死したのは第六峡田小学校四年生の児童で、台風で増水した荒川に転落、助けようとした白根雪枝先生とともに濁流に押し流されてしまいました。交通事故で亡くなったのは三日小の児童で、電柱(橋の欄干という話もある)にぶつかってひっくり返ったトラックにひかれたためでした。
食中毒の1人は、銀杏を食べてその毒に当たったもので、学童達の置かれた状況が良く分かる出来事です。空腹に耐えかね、採ってきた銀杏を内緒で焼いて食べたのですが、よく焼くと銀杏がパーンと音をたててはじけ、先生に気づかれて叱られるので、生焼けで食べたためでした。このような場合、採った銀杏を一旦土中に埋め、その後これを掘り出してから焼けば良いのですが、地元の子と違って都会育ちの学童達にはそのような知識が無かったのです。
彼らが東京へ戻れたのは、終戦の年の10月末でしたが、どういう事情かは分かりませんが、六日小の一部の生徒は翌年の3月まで帰れませんでした。また、折角帰ってきても、住む家を焼かれたり、肉親を亡くした子も多かったそうです。
荒川区学童疎開50周年記念誌に見つけた懐かしい名前
なお、「福島の空の下で」に掲載されていた引率教員名簿にある一日小の校長佐々木良司先生は、私が2年生になって浦和から転校した時の二日小の校長でした。また、二日小の寺沢敦子先生はその時の担任の先生でした。お名前は書かれていませんが「坂本」と苗字だけ書かれているのは、おそらく3年生から6年生までの担任であった坂本孝夫先生だと思われます。確か、福島県の出身と聞いていたので、現地で採用されたのかも知れません。卒業後何十年も経って、同級生から聞いた話では「代用教員(教員資格を持たない教員)であったため苦労した」と話されていたそうです。それでも、その後校長に昇進したということですから随分努力をされたのでしょう。
日本だけではなかった学童疎開
学童疎開というと日本だけのことと思う人も多いかも知れませんが、実は、イギリス、ドイツ、ソ連、フィンランド等のヨーロッパの国々でも政府主導で行われており、それによって悲劇的な出来事も起きています。
第二次世界大戦の時、ソ連軍の侵攻を受けたフィンランドは、幼い子供達を隣国のスウェーデンに疎開させました。子供達は生みの親との別れを経験しただけでなく、戦争が終わって国に帰る時は育ての親との別離という悲しみも経験しなければなりませんでした。中には永年育てた子を手放そうとしない育ての親もいたそうです。
一昨年(2022年)2月に始まったロシアのウクライナ侵攻では市民と共に多数の子供達がロシアに拉致されたままになっています。また、昨年(2023年)10月、パレスチナの武装組織ハマスの攻撃によって始まったイスラエルのガザ地区進攻では民間人、特に多くの子供達が犠牲になりました。
いつの時代でも、何処でも、戦争の犠牲になるのは、こうした弱者達です。