関東大震災と日暮里周辺の被害
概要
首都圏に未曾有の被害をもたらした関東大震災から今年で100年になりました。日暮里で生まれ育った作家吉村昭は、著作「関東大震災」で、その直前の様子を次のように描いています。
「大正12年9月1日。関東地方では、低気圧が北陸方面から本州を通過して金華山地方に向かい、秩父地方でも副低気圧が発生していた。風向きは南または南東で、場所によっては時折風をまじえた驟雨(しゅうう/にわか雨)が見舞っていたが、それも午前10時頃にはおさまった。
湿気が多く空は雲におおわれ蒸暑かった。その日、秋のさきがけとなる二科会招待展覧会が上野美術館でひらかれていた。街にはカンカン帽をかぶった男が歩き、人力車が行き交っていた。
正午近くになったので、各家々では竈(かまど)や七輪に火をおこして食事の仕度をはじめ、町の飲食店にも客の出入りが目につくようになっていた。…」
この直後の午前11時58分、足下が揺れが始めた。はじめは小さな揺れでしたが、数秒もすると激しくなり、立っていられない状況となりました。測候所や大学の研究室に設置されていた地震計の針はことごとく飛び散り、多くの建物が土煙を上げ、轟音をたてて倒壊し始めました。
震源は相模湾で、マグニチュード7.9と推定され、東京、神奈川を中心に甚大な被害をもたらしました。10万5千人余が死亡あるいは行方不明となり、全壊した建物は10万9千余棟、全焼は21万2千余棟に達しました。
日暮里と周辺の被害
震災による日暮里の被害は、市部に比べると少なかったのですが、現在の荒川区の地域は諏訪台の台地以外は元々地盤が弱く、この時の震度は「6強」(三河島・尾久の一部は「7」)であったと推定され、建物の耐震性も現在より低く、多くの家屋が損壊しました。内務省のデータによると、日暮里では434戸が全壊し、家屋の倒壊による死者は26人でしたが、隣接する南千住、三河島の被害はさらに大きく、南千住は、全壊1,957戸、それによる死者125人、三河島は、全壊2,169戸、死者140人となっています。一方、都市化が遅かった尾久は、全潰305戸で死者は13人でした(当時、町屋は三河島町の字でした)。
なお、吉村昭の「関東大震災」では全壊家屋について日暮里町が482戸、南千住町が1,620戸、三河島町が1,729戸、尾久町が305戸となっていて、尾久以外は1~2割程度少なくなっています。いずれにしても、三河島と南千住の倒壊家屋は、少なくとも東京の郡部では最大であったようで、当時の三河島町の世帯数は5,456世帯ですから、3~4割の家が倒壊したことになります。
東京府全体では、死者は建物の倒壊によるものより火災によるものの方が多く、地震に伴う火災は、市部・郡部合わせて計178ケ所に及び、特に本所区横網町にあった陸軍省被服廠の跡地では、東京の死者の半数以上の3万8千人あまりの死者を出したと推定されています。
日暮里の火災
日暮里の火災による被害は、日暮里町金杉1821番地(現・東日暮里2-36または2-27 東日暮里交番の西側付近)味噌屋・馬場義一宅が倒壊し、竈の火が燃え移ったもので、日暮里町井戸田(現・東日暮里1・2丁目付近)の大半を焼き、北は三河島町二之坪(現・東日暮里2丁目付近)、東は同正庭(現・東日暮里1丁目付近)まで延焼し、1,437戸(日暮里町地域のみ)を焼失、8人が死亡して、2日午前1時頃、鎮火したということになっています。
しかし、「震災予防調査会報告 第百号 関東大地震調査報文 火災篇」には、浅草区の消防活動について、「折シモ風勢一転凶暴を加ヘテ光月町(現・台東区入谷2丁目と千束2丁目のそれぞれ一部)ノ火ハ吉原・日暮里ノ火ニ合シテ南下、芝崎町(現・台東区西浅草)ニ迫リ…… 」、「吉原光月町龍泉寺方面(日暮里・千束町ノ火災ト合シ二日下谷ニ南流ス)」、「…… 一方午後4時頃日暮里方面ヨリ進入セル火災ハ金杉下町ヲ襲ヒテ南漸スルニ遭ヒ部署ヲ三輪町郡部境ニ転ジ音無川ヲ利用シ之ガ侵入阻止ニ終止シタリ」など、日暮里の火災が下谷区・浅草区(現・台東区)側に延焼したことが記録されています。
また、「東京市火災動態地図」によると、東に向かった火は、井戸田、正庭地域を焼いた後、二手に分かれ一方は三ノ輪で吉原方面からの火災と合流、また、一方は午後7時頃、金杉通りを越えると向きを変え、金杉通りと国際通りの間を南下して翌2日早朝には、坂本、入谷付近まで達したことが判ります。つまり、日暮里・三河島で「消し止めた」という訳ではなく、焼きつくした後、市部へと延焼していったということのようです。
なお、この震災で焼失した井戸田・二之坪・正庭の地域は、震災後区画整理が施工され、大正15年(1926年)6月に竣工しました(「その9 日暮里の大火(1)金杉の大火」参照)。
南千住・三河島の火災
一方、南千住、三河島の火災による被害は、南千住が、焼失3,638戸、それに伴う死者は218人、三河島は、焼失1,456戸で、死者は527人、尾久は、焼失家屋は無しということです。南千住の被害が大きかったのは、後述する三ノ輪の火災の他、浅草、吉原からの火災が延焼したためと思われます。
以上は内務省のデータによるものですが、「大正大震火災誌」では、三河島町の焼失家屋は100戸余りとなっています。実際、「東京市火災動態地図」等によれば、三河島町の焼失地域は常磐線の南側の二之坪と正庭(何れも現在は東日暮里に含まれる)地域だけで、北側は含まれていないことや、「大正大震火災誌」に南千住警察署の動きとして「三河島ニテ百餘戸ノ焼失セル外其延焼ヲ阻止」と記録されていることからも、焼失家屋数は「大正大震火災誌」の数値の方が正しいと思われ、死者も家屋倒壊によるものがほとんどであったと推定されます。
火災の原因は、薬品、かまど、七輪、ガス、油鍋、火鉢、営業用炉等で、その如何によらず、地震直後に出火したものと見られますが、南千住三ノ輪113番地精進揚屋・小山某方は、地震発生から3時間ほど経った午後三時に出火。原因は油鍋となっています。現在ならばガス栓を回せばよいのですが、竈などではそう簡単に消せなかったのでしょう。
なお、下谷区北大門町1番地「風月堂菓子店」から出火した火災は、二日後の9月3日午前2時に発生しています。どのような理由かは不明ですが、現在でも、通電火災のように地震から時間をおいて出火することがありますから、避難する場合は必ず電気のブレーカーを切り、ガス栓や水道の元栓を閉じるよう心がける必要があります。