情報の途絶と流言飛語の広がり
交通とともに通信も一部を除き途絶えました。電話局の建物の多くが倒壊・焼失、電柱が損壊し電話線も断線し不通となりました。当時、東京には16の新聞社がありましたが、3社を除き、社屋が倒壊または焼失してしまいました。また、社屋が無事だった新聞社も活字ケースが倒れ、活字が床に散乱し、直ちに新聞を発行出来る状態ではなく、地震後発行された最初の新聞でさえ5日の夕刊でした。ラジオ放送はまだ始まっていなかったので、その間、市民は正確な情報に接することが出来なくなってしまったのです。
本震の直後から2日間にM7以上の余震が5回もあり、余震の回数は1日128回、2日96回、3日59回と、足下は絶え間なく揺れ続け、地震後発生した火災は三日間に亘って燃え続けました。その上、正確な情報を得られなくなった被災者は強い不安にかられていきました。
こうした状況の中、地震発生から2、3時間後には早くも「富士山が爆発した」、「東京湾に大津波が襲来した」、「さらに大きな地震が襲来する」という根拠の無いうわさが恐ろしい速さで広がりました。
さらに、「刑務所の囚人が集団で脱走した」、「社会主義者が朝鮮人と共に放火している」と流言飛語は拡大します。中でも「朝鮮人が放火した」、「井戸に毒薬を入れた」、「集団で襲って来る」といった噂は驚くべき速さで広まり、多くの人々がそれを信じ、怖れ、大混乱に陥りました。
明治43年(1910年)日本は朝鮮を併合しました。それは朝鮮国民を憤激させ、日本に対する反感が高まりました。その頃から多くの朝鮮人が職を求めて日本に流入して来ましたが、不当な差別を受け、過酷な労働を強いられている彼らが、日本人に対し日頃の恨みを晴らそうとすることは十分あり得ることだと思われたからです。
各町内には自警団が組織され、男達は日本刀、竹槍、木刀等の兇器で武装し、町の辻々に検問所を設け、町内を巡回し、通行人を呼び止めては尋問しました。彼らは、朝鮮人を発見すると集団で暴行を加え傷つけ、殺害してしまうことすらありました。その結果多くの朝鮮人が殺害されました。
被害にあったのは朝鮮人だけと限りませんでした。中国人や日本人でも朝鮮人と疑われると暴行を加えられることがあり、中には日本人であることが証明されたにも拘わらず殺害してしまうこともありました。一時は、警察や軍隊ですらその暴走を止められない状態でした。
当時から多くの在日朝鮮人が住んでいた日暮里をはじめその周辺ではどうだったのでしょうか。
南千住警察署及び同警察署日暮里分署の記録には次のように記されています。
南千住警察署の記録
9月2日に朝鮮人暴動の流言が広まると、自警団等による朝鮮人に対する迫害が激しくなり、午後9時30分になると本署に保護する朝鮮人少なからず、中には負傷している者もいる有様であった。そこで、民衆の軽挙を戒め、反省を促すよう努めたが容易に肯(き)かず、さらに3日午前1時頃になると「朝鮮人200人が本所向島方面より大日本紡績会社及び隅田川駅を襲撃した」との流言があり、直ちに万一に備えるために署員を同方面に派遣したが何事もなかった。
しかし、飛語は益々拡大し「朝鮮人が毒薬を散布」、「大津波の襲来」、「大地震の再襲来」等、人心を刺激・惑乱する報道が頻りに伝わり騒擾を極め、本署が3箇所(演武場67名・交隣団117名・第二峡田小250名)に保護・検束した朝鮮人は合計434名の多数に上った。
然るに、翌4日午前、朝鮮人労働者2名が帰宅を強く要望したので、保護のため制服巡査2名、兵士2名を付き添わせようとしたが、それを待てずに帰宅を切望したため、やむを得ずこれを許可し、巡査1名を保護のため尾行させた。
しかし、王子電気軌道(現・都営荒川線)踏切付近に差し掛かった所で群衆により包囲・乱打され、同行の巡査共々重傷を負った。直ちに署員10名を急派、朝鮮人1名と巡査を救出したが、他の1名は遂に行方不明となった。
日暮里分署の記録
9月2日午後8時頃地震の再襲、朝鮮人の暴行等の流言が行われた、中でも朝鮮人に対する杞憂は自警団の過激な行動を促し、武器・兇器を携えて通行人を誰何(すいか)・審問するのみならず朝鮮人迫害の余波は良民を苦める暴行をも生じたが、この日、本署に於いて保護・検束した朝鮮人は70余名に及び、署内が狭くゆとりが無くなってきたため、これを第四日暮里小学校に収容した。然るに午後2時頃裸体に赤帯を締め、帯刀して町内に示威行列を行う15名の壮漢がいたので、これを検束して武器・兇器を押収したが、ついで同4日正午頃収容の朝鮮人1名逃走を企てると、民衆は警察の監視怠慢を非難し、遂に数百名の集団をなして当署及収容所に迫り、形勢険悪になったが、ようやくこれを鎮撫することが出来たが、なを万一の異変を怖れ、軍隊と交渉して兵員2名の派遣を求め、その援助の下に警戒を厳重にした。かくて、管内の騒擾は同5日まで継続したが、流言飛語の信ずべからざる所以を宣伝し、自警団にたいする取締を励行することによって漸次平静になってきた。
とありますが、果たしてこれだけで済んだのでしょうか。今年の9月1~3日、関東大震災100周年に際し放送されたNHKの番組では、当時、町屋に住んでいたという人の「自警団から帰ってきた父親が持っていた棍棒に血のりが付いていたのを見て恐ろしく思った」という証言を紹介していました。
他にも警察が把握(記録)していない事件があったかも知れません。
不確実な情報を信じず、発信しない
現在、首都圏を襲う大地震発生の可能性が非常に高くなっていると言われていますが、もし発生したらどのような状態になるのでしょう。「当時とは違ってラジオやテレビ、それにネットもあるから大丈夫」と言えるでしょうか。特にネットにより個人が手軽に情報を発信出来るようになったことが関東大震災当時より深刻なフェイクニュースが広がる恐れがあります。事実、熊本地震の際には、「動物園のライオンが逃げた」と言う悪質なデマと街中をさまようライオンの画像がネット上に拡散し、市民を不安に陥れました。
私達は入ってくる多くの情報を精査し、不確実な情報を信じず、発信せず、広げないように心がける必要があります。