日暮里とその周辺のいろいろな話
今も残る旧地名
■なぜ、荒川区は町の数が少ない?
荒川区の特徴の一つは、他の区に比べて町の数が極端に少ないことです。南千住、荒川、町屋、東尾久、西尾久、それと東日暮里と西日暮里だけです。それも、住居表示の実施により日暮里と尾久が東西に別れたため7つになりましたが、それ以前は5つしかありませんでした。
荒川区に次いで少ない豊島区でも21の町があり、荒川区とほぼ同じ面積の中央区は57、荒川区より面積の小さい台東区でも32あります。最多は新宿区で92です。
なぜ荒川区は町の数が少ないのでしょう。確かな理由は不明ですが、次のようなことが推定されます。昭和7年(1932年)10月1日、それまでの東京市部15区に郡部だった20区が東京市に編入され、荒川区もこの時誕生しましたが、その前年の昭和6年(1931年)1月1日に「字名改正」が行われました。この時、新たに市部に加わわることになった区域では、それまでの字名を廃止することになりました。ただ、荒川区以外は地名から字という呼び方だけを無くした所が多かったようです。例えば、隣の足立区では、「千住町大字千住」を「千住」に、「千住町大字旭町」を「千住旭町」に、「千住町大字宮元町」を「千住宮元町」というように、旧地名を残した所が多くありました。
ところが、荒川区は、南千住、三河島、町屋(三河島町から分離)、尾久、そして日暮里の町名だけ残し、その下にあった「大字」、「小字」を全て廃止して、日暮里町一~九丁目というように変えてしまいました(南千住は昭和3、4年に変更済み)。そのため町の数が少なくなってしまったのではないかと思われます。この時、せめて大字の地名だけでも残していたら、荒川区にも18の旧地名が存在していたでしょう。
■今もかろうじて残る旧地名
それでも、僅かですが今でも旧地名が残されている場所があります。尾竹橋通りに面した城北信用金庫の前にあるバス停は「大下」と言いますが、「おおした」ではなく「おおさがり」と読みます。その名は、この辺の昔の字(あざ)名から名付けられたものです。このバス停の斜向かい、整形外科医院の付近には、以前「大下交番」という荒川警察署の派出所がありました。昭和41年(1966年)、東日暮里5丁目へ移転し、十数年前に廃止になってしまいましたが、それ以前から町内にお住まいの方であれば「大下(おおさがり)」という名前には馴染みがあるのではないでしょうか。
一方、かんかん森通りにも交番があって、ここも以前は「井戸田交番」と旧字名を付けた交番でしたが、現在は「東日暮里交番」と平凡な名称に変わってしまいました。
東日暮里六丁目本町会の七〇周年記念誌で記述したように、日暮里には3つの大字と23の小字がありましたが、前述のように荒川区の誕生時に廃止されてしまい、そうした旧地名の存在を示すものは、ほとんど無くなってしまったので大下バス停は貴重な存在です。
■常磐線のガードと踏切をを訪ねる
それでも、他にもこうした旧地名を見ることが出来る場所があります。その一つは鉄道の施設で、この付近では常磐線の橋梁、踏切等に昔の地名を見ることが出来ます。
日暮里駅を出発した電車は、まもなく京成線の下で踏切を通過します。この踏切は「金杉踏切」といいますが、ここは、かっての大字日暮里と谷中本の境界付近で、金杉からは5~600m離れており、なぜ「金杉」と名付けられたかは不明です。
金杉踏切から100mほど先で尾久橋通りを越えると、二つの小さなガードを渡ります。日暮里駅側から「第1、第2前耕地架道橋(ガード)」です。「前耕地」とは大字日暮里の小字で、その名のとおり田畑に由来する地名と思われ、各地に全く同じ地名があったようです。また、「上耕地」「中耕地」「下耕地」のように似た地名もありました。「前」があれば、当然「後ろ」もありました。前耕地の南側、つまり諏訪台中学校のあたりは「後耕地」と言い、こちらは大字谷中本の小字でした。
第2前耕地ガードのすぐ先で、諏訪台中学校の前から道灌山通りへ抜ける道のガードを越えると、第1~第3まである「蛇塚ガード」を渡ります。「蛇塚」も大字日暮里にあった字です。昔、この辺には一里塚のように少し高くなった塚があり、そこを「蛇塚」と呼んでいました。諏訪台の東側は一面田畑が広がっていたので、その中にある蛇塚は大海に浮かぶ小島のようであったといわれています。
ひぐらし小学校の前の道を北へ進み、貨物線の踏切を越え突き当たりを左折、すぐ先を右に入り、最初の四つ角を右折して数十m行くと左側に十坪足らずの空き地があり、中央に「蛇塚」と書かれた石碑が立っています。ここに蛇塚があったわけではないようですが、大正の初めに近所に住む折田長治郎氏が、蛇塚の名称を後世に残すために建てたということです。
三河島駅を過ぎ100mほど行くと「第1織戸ガード」が、さらに「第2織戸スラブガード」、「日織戸ガード」と続きます。「織戸」は三河島の字で常磐線の南(現・東日暮里三・六丁目)まで広がっており、現在、アトラスブランズタワーのある一画も織戸の一部でした。
その先に続く「二之坪」「辻元」のガード名や、その付近にある通りの名として使われている「正庭」も三河島の字でしたが、現在「二之坪」「正庭」の区域は、とも東日暮里になっています。
明治通りを越えると「第1、第2三ノ輪ガード」が、さらに日光街道に架かる鉄橋は「通り新町ガード」で、何れも南千住の字でした(三河島にも三ノ輪という大字がありました)。
常磐線の日暮里~南千住間の高架化が完成したのは昭和11年12月で、荒川区内の字名が無くなってしまった後ですが、これらの施設の名称は、設計時、あるいは工事中に決まっていたものと思われます。
なお、本線ではありませんが、田端・三河島間の貨物線の「セレス21」の裏手にある踏切は「片瀬道踏切」と言います。「片瀬」も大字日暮里の小字でした。また、字名ではありませんが、この片瀬道踏切より三河島側にある「日暮里八丁目2号踏切」と「同3号踏切」の「日暮里八丁目」は、住居表示実施前の行政名です。
■他にも残っている旧地名
こうして捜すと結構あるものです。もっと身近なものでは電柱に付けられた標識にも旧地名が標示されている場合があります。電柱は、東京電力用とNTT用、それと両者共用のものがあり、共用の場合、それぞれ別の名称が標示されています。
ただ、電柱に標示されているのは地名だけではないので、その意味を調べるのも面白いかもしれません。ちなみに、わが家の前の電柱には、NTTは「第四栄進」ですが、東電は「蜩」と標示されてます。さて、何と読むのでしょう。そしてその意味は?