日暮里とその周辺のいろいろな話
その5 日暮里駅の二つの事故
事故の概要
まだ戦後の混乱期を脱したとは言えない昭和27年(1952年)6月18日午前7時46分頃、国鉄日暮里駅構内南跨線橋の10番線に面した妻板(突き当たりの板)が、押し寄せる乗客の圧力に耐え切れなくなり破損、十数人が約6m下の線路に転落。折りしも入線してきた京浜東北線の東神奈川発大宮行き電車にはねられ8名が死亡、5名が重傷を負うという事故が発生しました。
死亡した乗客の内、即死が3名で、他の5名は、東大、下谷、淡路の各病院に搬送されましたが、下谷病院の2名、淡路病院と東大病院の各1名は搬送直後に亡くなり、東大病院に搬送されたもう1名は2日後に亡くなっています。また、負傷者の内1名は転落したのではなく、10番線ホームで電車を待っていた女性で、落下した木材の破片が当たり打撲傷を負ったものです。
事故を報じる朝日新聞
想定外の異常な混雑
現在もそうですが、日暮里駅は乗客数より乗換客の方が多く、当時は、日比谷線も千代田線も無かったため、常磐線方面からの乗客のほとんどが上野駅か日暮里駅のどちらかで山手線や京浜東北線に乗り換えていたので尚更です。また、現在は日暮里駅には4本の跨線橋がありますが、当時は2本(現在の北口及び南口改札のある付近)しかなく、それも現在のものより幅の狭い(北側約3.5m、南側約2.5m)ものでした。そのため、朝のラッシュ時などは満員電車の中を歩くような状態でした。
この日は、未明に上野駅の信号所で火災が発生。さらに、午前7時頃、京浜東北線の与野・大宮間で電車の車軸が折れるというトラブルも加わり、列車の運行が大きく乱れ、駅間に列車が滞留する事態となりました。現在の日暮里駅は、4番線のあと9番線まで跳んでおり、5~8番線のホームが有りません。これは昭和49年(1974年)から始まった東北新幹線建設工事のため昭和52年までに撤去されたもので、それ以前は、東北線及び上野・尾久間の回送線に面して、2本4線のホームがありました。しかし、戦時中から東北線・高崎線の列車は日暮里駅には停車することはありませんでした。
ところが、この日は信号所の火災のため、上野駅への列車の進入が出来なくなったことから、上り列車の運転を日暮里駅で打ち切り乗客をこのホームに下ろしたのです。こうして、この日の跨線橋は、いつもの乗換客の他、さらにこのホームからの乗客も加わり大混雑となりました。そして、ついに谷中側の妻板が押し寄せる乗換客の圧力に耐え切れなくなり破損、大事故となってしまったのです。
事故前(昭和22年)の日暮里駅
中央2本のホームが5~8番線で、屋根が撤去されています。
11・12番線のホームはまだ無く、跨線橋も2本だけ(ホームの屋根の上を跨いでいる橋は、上の方が下御隠殿橋で中央はもみじ橋)
跨線橋の老朽化・保守管理
この跨線橋は昭和3年に造られたもので建設後24年経っていましたが、現在からすると、これは決して耐用年数を過ぎたと言えるほどの年数とは思えません。しかし、戦中、戦後の混乱期で手入れが行き届いていなかったため老朽化が進んでいたのかも知れません。
当時、山手線と京浜東北線は田端・田町間で同じ線路を走っており、この間の複々線化が完成し両線が分離運転するようになったのは昭和31年11月のことでした。そのため日暮里駅もこの事故の後、谷中側に11、12番線のホームが増設されたのですが、この跨線橋もこれに合わせて近い内に延長される予定がありました。こうした事情から修理が先送りされていたことも考えられます。
乗客誘導・施設管理の担当職員は無罪
事故の翌日、衆議院の運輸委員会で長崎惣之助国鉄総裁は、「駅長はみずから跨線橋の上に立つて旅客の誘導に当りました」と述べていますが、この日、駅長はまだ出勤しておらず、予備助役※がその代理を務めていました。そのため、乗客誘導の責任者であった日暮里駅予備助役と、これを補佐していた同駅助役、および跨線橋の保守管理を担当していた上野建築区長と同建築区田端分区長の4名が業務上過失致死傷の容疑で起訴されました。しかし、東京地裁は、被告の対応は万全とは言えないものの、刑事責任を問われるべき不注意とはいい得ないとして無罪としました。
想定外の混雑と無法者の暴挙
同委員会に於いて、長崎惣之助総裁は「上野側に急カーブがあり見通しが利かず運転士による発見が遅れたことと、跨線橋からこの電車を見た乗客がこれに乗ろうと急いだことも被害を拡大した」と説明しています。しかし、東京地裁は判決で「事故の原因は予測し得ない混雑と、二十数人の無法者の無謀なる行動とこれを制掣しない多衆の無自覚的態度の為であったというべきである」と述べており、単に「乗客が急いだ」ということだけでは無さそうです。
なお、「無法者の無謀なる行動」については、次のような証言があります。
乗客A
山手線ホームへの下り口では法被、地下足袋履きの人達が無理に押し合い、群衆心理が働いたらしく、多少お祭り騒ぎの状態であった。
乗客B
ワツシヨイワツシヨイという具合で押し合つていたが、その人達は人夫風体の若い人達であった。
乗客C
わざと押すのや面白半分に押すのも大分あった。押す人は闇(ヤミ)屋とか行商人が多かった。
この前年には桜木町事故が起きていますが、その際も、窓から脱出しようとする乗客の手助けをするどころか、逆に足を引っ張り車内に引き戻し、代わりに自分が窓に取り付くという光景も見られたということでした。冒頭で述べましたように「まだ戦後の混乱期を脱したとは言えない」時期で、人々の心も荒んでいたのかも知れません。
事故後(昭和38年)の日暮里駅
中央屋根の無い2本のホームが5~8番線、ホーム上に点線のように見えるのは広告の看板。
谷中霊園側に11・12番線ホーム増設され、中央に乗換専用の跨線橋(現・B跨線橋)が出来て3本になっています。
※地下通路の位置は推定です。
※右上の尾久橋通りはまだ工事中です。
事故後の対策
この事故の後、北側(田端方・現A跨線橋付近)と南側(鶯谷方・現C跨線橋付近)の跨線橋の間に乗換専用のB跨線橋が建設されました。また、日暮里駅・上野駅の乗換の混雑を緩和するため、常磐線の一部列車を東京駅(一時は有楽町駅)へ乗り入れるようにしました。
なお、衆議院に続いて行われた参議院運輸委員会に於いて、ある委員から「跨線橋より地下道にすべきではないか」と問われたのに対し、国鉄の施設局計画課長は「日暮里駅をどうして行くかという問題については慎重研究をして見たいと只今思う次第でございます」と答弁しています。そのためなのか、実際、鶯谷側の端(現在のD跨線橋付近)に地下道も造られたというということです。残念ながら、日暮里駅で乗り降りする者にとっては、山手や京浜東北線から常磐線への乗り換えは不要なので、これを利用したことは無く、その詳細については分かりませんが、幅員はかなり狭いものであったようです。また、建設された時期も不明ですが、昭和54年(1979年)12月、東北新幹線建設工事のため廃止されました。
事故当日
この日の朝は、日暮里中央通りも救急車やパトカーがサイレンを響かせて行き交い、騒然とした雰囲気でした。当時、私は第二日暮里小学校の3年生でしたが、教室でも事故の話で持ちきりでした。学校が終わるとすぐに駅に駆けつけ、紅葉坂から現場を見ると、線路際には数人の警察官と国鉄関係者がいましたが、跨線橋の妻面には真新しい板を貼り終えたところでした。
※運輸、運転従事員職制及服務規程(大正十四年四月十四日達二四七号)第一条には「予備助役ハ駅長、助役又は運転掛ノ職務ヲ代行ス」と定められている
昭和47年(1972年)6月23日、京浜東北線桜木町発大宮行き電車が日暮里駅を2分遅れで発車したところ、運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止しました。一方、鶯谷駅を1分遅れで発車した後続の山手線内回り電車は、日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けましたが間に合わずに追突し、143名が負傷しました。
田端・田町間は昭和31年11月、複々線化が完成し、山手線と京浜東北線が分離運転するようになっていましたが、当時は線路保守のため、昼間の運転本数の少ない時間帯は山手線と京浜東北線が同じ線路を走行していたのです。
原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになりました。
Wikipediaによると「追突した電車の運転士は動労組合員であり、追突された電車の車掌は動労とは犬猿の仲である国労の組合員であったことから、事故直後に被害者の救助そっちのけで口論が始まり乗客から非難を浴びた」ということです。
六丁目本町会が警視総監賞授与
なお、この事故に関して、同年7月8日、当町会が「迅速かつ適切な措置につとめられ警察活動に多大な協力をされた」ということで警視総監賞を受賞したということですが、残念ながらどのような活動があったのか詳細は不明です。
日暮里駅周辺では10年ごとに大きな鉄道事故が起きる?
70年前に日暮里駅跨線橋崩落事故、60年前に三河島事故、そして50年前には日暮里駅追突事故と、日暮里駅周辺で大きな鉄道事故が続き、そのため「日暮里駅周辺では10年ごとに大きな鉄道事故が起きる」ということで、追突事故から10年後の昭和57年にはマスコミも注目していたようですが、幸い事故は起きませんでした。
日暮里駅追突事故から今年で50年、今年も、いや永久に起こらないことを願っています。