前編に引き続き後編では、三河島事故以前に起きた鉄道事故と三河島事故との関わりについてお話しします。
■安全側線と北陸線東岩瀬駅事故
大正2年(1913年)10月17日午前4時23分、北陸線東岩瀬駅(現・東富山駅)で下り貨物列車と善光寺参りから帰る客を乗せた上り旅客列車が正面衝突。死者26人、負傷者104人と、鉄道開業以来の大惨事となりました。
東岩瀬駅に先に着いたのは貨物列車でした。しかし、上り列車とのすれ違いのため側線に入った貨物列車は、側線内で止まることが出来ず、本線との合流ポイントを越えて本線内に進入して停車。あわててバックして側線に戻ろうとしているところへ上り列車が正面衝突してしまったのです。
安全側線は、この事故を教訓にして創られた日本独自の安全施設です。
■安全側線のシステム
図1
列車が停止位置を通り過ぎて本線に入ってしまうと、本線上の列車と衝突する恐れがあります。そこで、本線に合流する分岐器(ポイント)Aの手前Bで分岐させ側線を延長し、その先を砂利盛りなどの車止めにしておくものが安全側線です。
図2
本線のポイントは本線側に、側線のポイントは側線側に向いているので、側線の列車は側線内で停まれなくとも、本線に入ることはありません。
図3
本線、側線のポイントは両方とも渡り線側を向いているので、側線の列車は本線に入ることができます。
■安全側線は役に立たなかった?
安全側線は、このように側線(支線)内で停まろうとしたけれど停まれない列車が本線に入ってしまわないようにしたもので、最初から止まろうとしない列車を対象としたものではありません。
三河島事故の直後、マスコミの中には「大正時代の規格で造られた安全側線など役に立たない」という批判が見られましたが、そもそも安全側線の目的が違うのですから的外れな批判であると思います。
では、本当に役に立たなかったのでしょうか。もし、事故現場に安全側線が無かったら、貨物列車は完全に下り本線内に入り込んでいたはずで、その場合、衝突の衝撃ははるかに大きいものとなり、この時点で大惨事になっていたものと考えられます。三河島事故は第二の衝突によって惨事となったのですから、第一の衝突の後の処理が適切であれば惨事にはならず、「安全側線は目的は違っていたけれど大いに役に立った」と言うことになったのではないでしょうか。
■土浦駅事故
昭和18年(1943年)10月26日18時40分、常磐線土浦駅に上り貨物列車が到着。貨物列車は入れ換え作業のため本線から側線に入り、牽引してきた機関車は切り放され給炭給水のため機関区に向かいました。代わりに入換用機関車が貨物列車に連結され、貨車を引いて入換作業のための引上線に向かいました。ところが、信号所員のポイント操作ミスにより、入換用機関車は上り本線に入り込み動けなくなってしまいました。そこへ後続の上り貨物列車が入ってきました。この列車は土浦駅は通過だったため、上り本線を全速力で走り抜けようとしましたが、立ち往生していた入換用機関車に激突。入換用機関車とそれに連結されていた貨車は、衝突の反動で引上線方向に進み脱線しましたが、後続の貨物列車の機関車と貨車14両が上下線上にばらばらに転覆しました。
さらに2分30秒後、反対方向から上野発平(現・いわき駅)行き下り旅客列車が進入、下り線上に横転していた上り貨物列車の機関車と衝突、機関車と客車4両が脱線。4両目の客車は駅構内を流れる桜川の水中に完全に没し、この車両を中心に多数の犠牲者が出ました。
しかし、事故が起きたのが戦時中で、日本にとって不利なことに対する報道は規制されていたため、詳細な情報は発表されず、死者数ですら94~110人と資料により異なっています。
この事故は、列車の種類等に違いがあるものの、同じ常磐線の駅で、最初の事故は軽かったが、その後の処置が悪く惨事となってしまった点などが三河島事故とよく似ており、詳細が発表され関係者に周知し対策が立てられていれば、三河島事故も惨事ではなく単なる事故で済んだのではと言われています。
※この事故の下り旅客列車には、まだ幼かった坂本九が、母の実家があった茨城県笠間市に疎開するため乗車していて、事故直前までは4両目にいました が、直前に他の車両に移ったため難を逃れたということです。
■桜木町駅事故
昭和26年(1951年)4月24日午後1時を少し過ぎた頃、京浜東北線桜木町駅で、直前に行われていた作業のミスから架線がたるみ、入線してきた下り電車の先頭部のパンタグラフにからまり、架線と屋根との間で激しいスパークがおき、やがて屋根から出火。1両目が全焼、2両目は半焼し、死者(焼死)106人、負傷者92人を出す惨事となりました。
この事故の直接原因は作業のミスですが、これに幾つもの人為的要因や車両および施設の不備が重なって惨事に至ったものです。その一つが、客室のドアが開かなくなってしまったことです。それでも、この電車には「Dコック」と呼ばれる非常用のコックが客室内にあり、これを操作すれば手でドアを開けることができたのです。ところが、当時は、そのコックの存在そのものが乗客に知らされていませんでした。
当時の国鉄は、事故後素早く防止対策を実行。コックの位置と使用法を表示するようになりました。
しかし、安全側線の項で説明したように、事故の対策が必ずしも全ての事故に有効という訳わけにはいかず、三河島事故では死傷者を増やすことになってしまいました。
桜木町駅構内で炎上する電車
■参宮線六軒駅事故
昭和31年(1956年)10月15日18時22分、当時の参宮線六軒駅※で、名古屋発下り鳥羽行きの快速列車(243列車)が信号を誤認、安全側線に乗り入れ車止めの砂利に乗り上げ脱線、本線を塞ぐように横転しました。その直後、反対方向から来た上り名古屋行き快速列車(246列車)が脱線した下り列車に乗り上げるように激突。その結果、死者42人、負傷者94人という惨事となってしまいました。
犠牲者の内三分の二が、この日の朝、修学旅行に出発したばかりの東京教育大学(現・筑波大学)付属坂戸高校の生徒24人と引率の教師3人だったことも、この事故をより悲惨なものとしました。
本来この2本の列車は、名古屋から行くと六軒駅の一つ先の松坂駅で列車交換(すれ違い)することになっていました。しかし、この日は伊勢神宮の大祭のための混雑で参宮線の列車にも遅れが出ていて、下り快速列車も関西本線との分岐駅である亀山駅で11分遅れていました。一方上り快速列車は定時に運転されていました。そこで松坂駅の列車司令員は、急遽、列車交換を松坂駅から六軒駅に変更しました。六軒駅ではこの指令に基づいて信号やポイント操作が行われました。しかし、下り快速列車は、いつものように時速60kmで六軒駅を通過しようとしました。ところが、ホームの中程まで来た所で出発信号機が赤になっていることに気付き、非常ブレーキをかけましたが間に合わず安全側線に乗り入れてしまったのです。
この2本の列車は何れもSLの重連(機関車を先頭に2両連結)で運転されていました。下り快速列車の先頭の機関車の機関士、機関助士の二人とも、「通過信号機は青」だったと主張しましたが、裁判の結果、彼らの主張は受け入れられませんでした。ただ、信号機の直前操作が行われた可能性も指摘され、通過信号機を確認する位置を通過してから信号機が変わったという可能性も否定できません。何故なら、六軒駅ではこの事故の1年以上前から列車交換をしたことが無く、駅員は、その作業に不馴れでした。また、列車交換を松坂から六軒駅に変更したタイミングも妥当であったのか疑問が残ります。
いずれにしろ、人間の注意だけに頼っていたのでは、このようなことが起きるのは防げません。そこで、この事故をきっかけにATS(自動列車停止装置)の開発が始まりましたが、三河島事故には間に合わず、事故後、設置が促進されました。
※事故当時、参宮線は関西本線の亀山駅から鳥羽駅まででした。しかし、昭和34年(1959年)、紀勢線が全通するとともに亀山・多気間が紀勢線に組み込まれたことから、その間にある六軒駅も現在は紀勢線に所属していますが、この事故については事故当時のまま「参宮線六軒駅事故」と呼ばれています。
機関車と客車が折り重なる六軒駅事故の惨状
■事故でイメージが悪くなったから「三河島」を「荒川」に変えた?
三河島事故により「三河島」という地名がマイナスイメージとして持たれるようになったために忌避され、昭和43年(1968年)の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅した、と言われることがありますが、三河島町の大部分は昭和36年(1961年)10月31日(事故の半年前)に「荒川」に変更されており、町名消滅と事故とを結びつけるのは根拠の無い「俗説」であるとされています。
常磐線の南側と尾竹橋通りの西側の地域は、その後数年間「三河島町」の地名が残っていましたが、昭和41年(1966年)3月1日、それぞれ東日暮里と西日暮里に編入されて「三河島」という町名は消滅しました。