避難
震災により家屋の倒壊や焼失で住居を失った市民は、1,356,740人で、亡くなった人を除くと130万人弱となりますが、この地震では、本震の直後の数分間に2回、1時間後に1回、翌2日に2回の何れもM7を超える大きな余震があり、そのため家屋の損壊等が無かった人も、恐ろしくて家に入ることができず、安全な場所を求めて、より多くの人が避難したのではないかと思われ、避難者数はもっと多かったと考えられます。
私の母は日暮里生まれで、住居は当時の谷中本(現・日暮里地区の中央部)で日暮里図書館の近くでした。家屋は無事だったようですが、「地震の後、両親や近所の人達と一緒に尾久町小沼の『赤水力』(現・東尾久1-21 鬼怒川水力電気変電所/鬼怒電や小沼の変電所とも呼ばれた)へ避難し、9月3日頃自宅に戻った」と話していました。尾久は、その年の5月、町制が施行されたばかりで、現在の荒川区の中では都市化が一番遅かったので、まだ田畑や空き地が多かったためでしょう。
上野公園の状況
東京市部の主な避難場所と避難者数は次のとおりです。
上野公園 約50万人
皇居前広場 約30万人
浅草寺境内約7万人
芝公園 約5万人
洲崎埋立地 約5万人
靖国神社境内 約3万人、
当時の上野公園は189,771坪(628,597.5㎡)あり、こうした災害の場合の避難場所として適していることから、関東大震災の時も、近隣だけでなく日本橋や京橋方面から避難してきた人々も多く、約50万人が避難したということです。当時の東京市の人口がの約2割ほどが避難したことになり、一人当たりにすると1.26㎡(1.1m四方)しかなく、おまけに避難民の大半が大量の荷物や家財道具を持ち込んだため、午後4時頃には立錐の余地も無い状態であったと言われています。
上野公園に迫る猛火
当初は火災現場からは離れていて安全と思われていた上野公園でしたが、風向きの変化により2日午後4時、ついに足下の上野駅に延焼。さらに午後6時頃には上野広小路にも猛火が襲いました。下谷上野警察署は、料亭「常盤華壇※」付近にいた避難者達に移動するよう命じましたが、多くの家財を所持していた避難者はこれを強く拒み、険悪な空気に包まれました。しかし、下谷上野警察は浅草七軒町警察の応援を得て強制的に避難者を谷中、田端方面へ誘導、その直後、常盤華壇が炎上、焼け落ちました。避難者がそのまま留まっていたら多くの犠牲者が出たでしょう。
現在、東日暮里六丁目本町会の広域避難場所は上野公園となっていますが、もし、また東京に大地震が起きた場合、果たして大丈夫でしょうか?
※上野駅に面した崖上にあり、西郷さんの銅像の裏手、清水堂と向かい合っており、左は遥かに房総の山並みを望み,右は不忍池の睡蓮が木々の間に見られたという。最初は櫻雲台として建てられ,その後、梅川楼(現在の梅川亭との関連はない),常磐華壇と経営と名前が変わった。
被災者の収容
こうした被災者を当時の行政はどのように保護、支援したのでしょう。「大正大震火災誌」には南千住警察日暮里分署の動きについて
「9月1日、市内(当時、日暮里は東京市外)で罹災して(日暮里分署)管内に避難する者少なからず、これについて当署は、日暮里町役場に対し、第一~第五の各日暮里小学校を開放して多数の避難者を収容するよう要請したが、夕刻になると避難者益々増加し5箇所の小学校もたちまち満員となり、その数約3千を数え、なお、各寺院又は知人を頼って仮住まいするもの約5万、広場・空地等に避難するもの約10万に達した。然るに翌2日に至って、火災に追われて来るもの更に多くなったが、最早これを収容すべき余力はなく、屋外に野宿するもの17万に上り、神社・仏閣・寄席等に仮住まいさせて保護すると共に、知り合い、親戚あるものは他に移動することをすすめる。間もなく収容者その他も漸次移動退出するもの多く、同10日、収容所にあるもの500名、寺院知人等に仮住まいするもの75,500名、同30日には収容所に205名、寺院知人等に46,955名と更に10月10日には収容所に105名、寺院知人等に3,890名となれり。そのため収容所も、第一日暮里小学校は9月6日、第二日暮里小学校は9月16日、第三日暮里小学校9月19日、第四・第五兩日暮里小学校は10月2日、いずれもこれを閉鎖し、さらに大字谷中本東京電燈会社分工場を収容所と定め、12月15日までこれを継続した」と記されています。
学校を避難所とするのは、今も昔も同じようで、実際、日暮里町役場の動きについて「災害の突発と共に、吏員に被害を調査させ、1日午後5時避難所5箇所を設け……」という記録が残されています。しかし、「屋外に野宿するもの17万」とありますが、そんな場所一体どこにあったのでしょう?
被災者の支援
日暮里分署の記録には収容所の開設とともに食料供給を要請した結果「日暮里町役場に於いて即日炊出配給を見るに至ったが、その後10月10日までに救出救護した延人員は34,393名に上り、これに要した物資の総数量は米300石1斗7升(約45.1トン)・味噌28樽・醤油19樽・漬物100樽・罐詰615箱となった。
これより先9月7日、日暮里町役場に於いては第一回の配給米の実施を行ったが、以後10月10日に至るまで八回の配給を行い、米は1人1日3合(0.45kg)と定めたが、その総量1,998石4斗5升1合(約300トン)に及び、副食物は味噌252樽・醤油189樽・漬物105樽等にして、その受給延人員は64万2,817名に上った」とあり、その数量等には差異がありますが、日暮里町役場の動きにも同様の記録が残されています。
また、この前後に於いて篤志家より食料品その他の物資を寄贈するもの多く、「日暮里町谷中本ABC製菓株式会社、茨城県新治郡手渡村青年会及び同県同郡藤澤村青年会並びに同村小学校職員一同、新潟県中蒲原郡新津町の有志、茨城県新治郡手渡村在郷軍人分会等から白米、味噌、梅干し、馬鈴薯、煮干し、ビスケット等の寄贈があったことが記録されています。
警察が義援金を分配?
しかし、「管内の有志より白米2石(300kg)及ビ現金百円、同10日には豚5貫目等の各寄贈あり、食料品は署員の食料に充テ、現金は之を署員に配当せり」とも書かれていますが、食料はともかく義援金を勝手に警察署員だけで分配して良いのでしょうか、今なら大問題になるかも…?