日暮里とその周辺のいろいろな話
金杉の大火
第三日暮里小学校の南西の角、かってのEDWIN本社ビル(現・BHビル/飯田産業が入居)の向かい側に、高さ3m、巾1mはあると思われる大きな石碑が建っています。その冒頭には「大正十四年三月十八日大字金杉ニ火災起ルヤ風伯(風神)頻(しき)リニ威ヲ逞(たくまし)ウシ火勢猛烈ヲ極メ倏(たちま)チニシテ二千百余戸烏有(うゆう/何もなくすこと)ニ帰セシメ大字ノ弱半ヲ一掃シテ、ソノ面積実ニ四万六千五十余坪ニ上レリ。…」と彫られています。
この火災は、「金杉の大火」と呼ばれ、昭和38年4月2日の火災が起きるまでは、「日暮里の大火」と言えばこの火災のことを指しました。
大火跡区画整理記念碑
▇ 火災の概要
石碑にあるように大正14年(1925年)3月18日水曜日14時30分頃、大字金杉1437番地(現・東日暮里3-17付近)「アサヒ反毛」という繊維関係の会社工場のガーネットという混毛機械から発生した火災は、狭い家屋や小さな工場が立て込んでいる地域であったため、たちまち燃え広がり、隣接する三河島町前沼に延焼、折からの最大風速13mの強風にあおられ、炎は100m以上先の元金杉にあった日暮里第五尋常小学校(現・東日暮里3-23付近、第五日暮里小学校/廃校)に飛び火し、勢いを増して同第三尋常小学校(現・第三日暮里小学校)をも焼きました。
警視庁及び東京市内各署の消防自動車35台をはじめ隣接町村から手押しポンプなどが出動し消火活動を行い、さらに、陸軍近衛師団から2個中隊が派遣され、破壊消火を行いましたが、北西の強風が吹いていたこと、道路が狭く家屋や小工場が立て込んでいたこと、さらに消防水利が悪かったことから、約6時間にわたって燃え続け、北は常磐線線路付近から、南は松坂屋寄宿舎(現・スーパー「ライフ」)の手前、東は下根岸との境界までを焼き尽くし、全半焼約2,100戸、焼失面積約4万6千坪、負傷者百数十名、罹災者10,000人以上という大火となりました。幸い、火災発生が昼間であったことから死者は出ませんでした。
金杉の大火焼失地域図
▇ 被災者の救護等
負傷者の救護所は、第一、第二、第四日暮里小学校第一分校、日暮里町ライオンゴム工場、下谷区金曾木小学校、根岸小学校、金杉上町三島神社、上野寛永寺に設けられ、罹災者は、第二、第四日暮里小学校に収容されました。
この火災に対し、皇室から五千円(米約370kg相当)が下賜され、東京市からは食パン1000個、米150kg、日暮里町役所から毛布2,000枚、北豊島郡役所からは同3,000枚が救護物資として贈られました。
改正道路(尾竹橋通り)の完成時期については資料・場所によって異なり、金杉の大火の前日であったり、翌年の大正15(1926年)10月31日とも言われています。いずれにしろ、関東大震災によって事業が促進され、少なくともこの大火の時にはこの地域の道路は完成していたか、あるいは完成間近であったのは間違いないようで、これが防火帯となり、その西側にあった東日暮里六丁目本町会の地域は延焼を免れました。
焼失面積四万六千五十余坪と言うと約152,000㎡です。昭和38年4月2日の火災は5,098㎡ですから、30倍ほどになり、いかにこの火災の規模が大きかったのかが分かると思います。
▇ わずか1年半で完成した区画整理
しかし、驚くのはそれだけではありません。火災の熱がまださめやらぬ3月27日、町会議員を招集して協議し、4月2日、地権者多数の賛同を得て区画整理組合設立認可申請を決議。4月27日、その申請がなされ。5月18日、認可を得て、8月19日、着工。翌大正15年10月31日、竣工し、11月3日、盛大な竣工式を行ったということです。火災からわずか1年半余りでこれだけの広さの区画整理が完成することなど、現在ではとても考えられないことです。冒頭の石碑は、この区画整理竣工の記念碑なのです。
なお、この大火の1年半前の大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災によって、この大火で被害を受けた地域の東側(現・東日暮里1、2丁目付近)が地震に伴う火災により焼失しており、この地域の区画整理が先行して行われ、大正15年6月に竣工しています。尾竹橋通りの東側の広い範囲が整然とした街路となっているのは、関東大震災や金杉の大火後の区画整理のおかげなのです。
なお、この大火によって被害を受けた地域(字大下り・字中下り)は、区画整理完了後、復興の願いを込めて旭町1~3丁目と呼ぶようになりましたが、荒川区誕生時に日暮里町二丁目(現・東日暮里3・4丁目付近)となり消滅しました。
また、当時、松坂屋寄宿舎内にあった靏護稲荷神社(かくごいなりじんじゃ)は、松坂屋の前身である伊藤呉服店の屋敷神でしたが、この大火に被災しなかったことから防火の神様と呼ばれ地域の信仰を集めたということで、スーパー「ライフ」に変わった現在でも敷地内に残っています。
▇ 谷中本の大火
金杉の大火による区画整理が完成した直後の大正15年11月15日午後3時49分、谷中本345番地(西日暮里2-1付近)の「日本カーボン」から出火。常磐線(現・せせらぎの小路付近)から現在の七五三通りを越え日暮里図書館付近までの間のあやめ通りの両側約8000坪、300余戸の家屋を焼失しました。
火災後この地域も区画整理が行われ、昭和2年2月3日区画整理組合を設立。翌3年4月17日、換地処分が終了しました。
さらに、昭和6年(1931年)1月19日、金杉1368番地(現東日暮里3-33付近)友野庄次郎方から出火、全焼47戸、半焼10戸を出す火災もありました。
谷中本の大火焼失地域図