今から60年前、2年後に東京オリンピックを控え、高度成長に沸く昭和37年5月3日、三河島駅構内で下り水戸行き貨物列車が脱線。この直後、三河島駅を出て、この貨物列車を追いかけるように並走していた下り取手行き電車が、脱線した機関車に衝突。前2両が脱線し上り本線を塞ぎました。それから数分後、上り上野行き電車が現場に突入、下り電車に激突。死者160人(乗客159人、乗務員1人/上り電車の運転士)、負傷者296人を出す大惨事となってしまいました。
■下り第2117H電車
この日の午後9時28分30秒、上野駅から6輌編成の下り取手行き電車(第2117H)が発車しました。この日の早朝に東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響でダイヤが乱れ、夜になってもわずかながらダイヤの乱れの影響が残っていました。
そのため、この電車も本来は上野駅を9時26分に発車するはずでしたが、2分30秒遅れていました。さらに先 行電車の遅れから日暮里駅の手前で停車したため、日暮 里駅ではさらに遅れての発車となり、三河島駅を発車し
たのは3分50秒ほど遅れの午後9時36分20秒でした。
産経新聞に掲載された三河島事故を伝える写真
(クレーン車の前にあるのは、粉砕され
原形をとどめない上り電車)
■下り貨物列車(第287列車)
一方、午後9時32分、田端操車場(現・田端信号場)からD51364の牽引する貨車45両からなる下り貨物列車(第287列車)が水戸に向かって出発しました。貨物列車は地上の線路を走り、京成線の下をくぐり、道灌山通りの踏切を越え、田端から1.2kmほど先の三河島道踏切の少し手前から12/1,000の上り勾配にかかりました。一見力強そうなSLですが意外と非力で、特に上り勾配は苦手で、総列車長約429m、総重量544tの貨物列車を牽引しているため、あえぎながら上り、坂の手前で時速28kmほどだった速度は、坂を登りきった尾竹橋通りに架かる第1三河島架道橋にかかった頃には、時速15km程度に落ちてしまいました。
■上り第2000H電車
これより前の午後8時52分、取手駅からは9両編成の上り上野行き電車(第2000H)が発車しました。発車したときは定時でしたが、南柏駅で通過待ち合わせをした準急が遅れたため5分30秒遅れ、9時15分、同駅を発車。松戸駅で運転士が交代し、9時26分30秒に発車。次第に遅れを取り戻し、綾瀬駅を3分遅れの午後9時35分40秒に発車しました。
■貨物列車の脱線
それより10秒前の9時35分30秒頃、貨物列車は三河島駅ホームの東端を通過。約400m先の下り本線への合流地点目指して次第にスピードを上げていきました。しかし、合流地点にある信号機は本線側が「青」で貨物線側は「赤」でした。にもかかわらず貨物列車は止まろうとすることなく時速25kmまで速度を上げ、午後9時37分、本線と平行する安全側線※に乗り入れ、その先端の車止めの砂利に乗り上げ、機関車とその次に連結されていたタンク車が脱線。下り本線側に傾きました。
※後編で説明
■第一の衝突事故
この日の午後9時30分、TBSテレビで、世界チャンピオンの期待がかかるファイティング原田がベビーエスピノザと対戦するボクシングの中継放送が始まりました。現場近くの多くの家でも、この試合のテレビを観戦していましたが、第1ラウンドと第2ラウンドの間の休憩が終わる頃、突然「ドカン」と言う轟音が辺りに響き渡りました。三河島駅を発車して貨物列車を追いかけるように並走していた下り電車が、脱線して本線側に傾いた蒸気機関車に衝突したのです。このため、下り電車の1、2両目が脱線、右に傾き上り本線を塞ぎました。
三河島駅周辺図
■下り電車の乗客が上り線路上に脱出
この第1の衝突事故の後、下り電車の1、2両目の車両のほとんどの乗客は停車直後から相次いで進行方向右側の車窓や扉の硝子を破つて上り本線側に脱出し、三両目以下の多数の乗客も停車後間もなくみずから車内の非常コツク※を使用して扉を開き、または下り電車車掌により開けられた扉から上り線路上に降り、これらの乗客は1、2両目附近を中心として上り線路上または線路脇に寄り集まり、線路が高さ六米余の築堤上であるためどうすれば良いか迷い、一部の乗客は上り線路脇を南千住駅または三河島駅ホーム方向に歩き出し、さらに、現場に駆けつけた附近住民の内には上り線路脇の築堤に梯子を渡して乗客を誘導救助するもののほか、みずから上り線路上に出て救護に当る者もあるなどの状況となり、ここに上り列車が進入すれば、下り電車および上り線路上の多数の乗客等に激突させ、死傷者多数の大惨事となるであろうという極めて危険な状態となっていました。
※後編で説明
■三河島東部信号扱所掛員の行動
この第1の衝突現場から三河島駅側に約120mの地点にある日織戸架道橋の近くに三河島東部(三河島岩沼方)信号扱所があり、二人の掛員がいました。内一人は仮眠中で一人が職務に就いていましたが、その掛員も最初の衝突に気が付きました。ところが、この時は新月の前夜で辺りは暗く下り貨物列車と電車が衝突したらしいということは推測できましたが、詳しい状況は良く分かりません。そこで、掛員は三河島駅に電話して指示を仰ぎました。
電話を受けた三河島駅首席担当助役は「現場を見てくるよう」と指示します。これを受けた掛員は仮眠中の掛員を起こして現場を確認してくるよう頼みます。起こされた掛員が身支度を整え始めていると、現場から1kmほど東の隅田川駅(南千住駅に隣接する貨物駅)の三ノ輪信号扱所から電話がかかってきたので受けると、下り電車が遅れていることに関する問合せの電話でした。そこで、もう一人の掛員から告げられた接触事故の概要をそのまま伝え、下り電車が遅れている理由を説明しましたが、三ノ輪信号扱所からは「上り電車の後、貨物列車も発車させる」旨の通告がありました。掛員は、下り電車が上り本線を塞いでいるのではないかとの漠然たる不安の念を抱きながらも、三ノ輪信号扱所の掛員に対し、上り線の全列車を停止させるよう確実な連絡をせず、「ちょっと待って」という極めて不正確な表現で応答したのみで電話を切り、もう一人の掛員にその内容を話しました。
それを聞いた掛員も、その話を聞いても、上り列車を停止させるための臨機の措置をとらないでいましたが、しばらくして、ようやく上り列車の進入を阻止する緊急の必要があるのではないかと気付き、午後9時42分過ぎ頃、三ノ輪信号扱所に電話をかけ、上り電車を停止させるよう依頼をしたものの、そのときは既に上り電車が三ノ輪信号扱所前を進行中であり、電車の進行を止めることが出来ませんでした。
■三河島駅助役・列車指令・貨物列車と、下り電車の乗務員の行動
一方、三河島駅の助役は信号所掛員に指示した後、常磐線の列車指令に事故発生を報告しました。報告を受けた列車指令は下り線の後続列車の運行を停止させましたが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線へは、事故発生通知のみ行いました。その後、上り線にも支障があるのではないかと気づき、上り線の運行を停止させる指令を出しましたが、手遅れでした。
この間、最初に衝突した貨物列車と、下り電車の乗務員は、最初の衝突で生じた負傷者の救助や乗客の誘導、タンク車から漏れた石油の処置に当たっており、上り電車を止める行動を一切取っていませんでした。
■第二の衝突事故
上り上野行き電車は、定時より2分ほど遅れて午後9時41分、南千住駅を発車。この時、三河島駅までの上り本線の信号はすべて「青」でした。上り電車の運転手は第一の事故を知らぬまま三河島駅に向かって電車を走らせたのです。
その頃、下り電車の乗客の一部は、上り線路上を枕木や砕石に躓かないよう足下に注意して南千住駅に向かって歩いていました。ところが、突然、激しい警笛とブレーキ音に顔を上げると、思いもよらずヘッドライトが目前に迫っていました。
上り電車は、あらかわエコセンター(旧荒川保健所)近くの第2三河島架道橋の手前近くまで来た所で、線路上を歩いている下り電車の乗客を発見。非常ブレーキをかけましたが間に合わず、乗客多数をはねた上、上り本線上に停止していた下り電車の先頭車に激突。午後9時43分20秒のことでした。これにより上り電車は先頭車が原形を留めず粉砕され、2両目は高架線から線路脇の倉庫の屋根に突っ込み、3両目は築堤法面上で留まり、4両目までが脱線しました。この結果、文頭のような大惨事となってしまったのです。
■貨物列車はなぜ赤信号を無視したのか?
なぜ、下り貨物列車は合流地点の前で止まらなかったのでしょう。判決では機関士の信号誤認(錯覚により本線側の信号と見誤った?)としています。ダイヤどおりに運行されていれば、下り電車はすでに現場を通り過ぎていて、合流地点のポイントも貨物線側に切り替わっているという思い込みがあったのかも知れません。しかも、機関士は信号機の状態を確認の上、機関助士とともに喚呼応答することをせず、さらに信号機の手前約100m附近に接近したときにも、定められたとおり信号機状態を確認のうえ短い汽笛を鳴らすことをもしませんでした。一方、機関助士は、勾配を登りきった付近で信号が赤(停止)であったことを確認しましたが、大声で喚呼することなく、聞こえないような小さな声で「だめだ!」とつぶやき、そのまま罐焚きに専念していたのです。
■なぜ上り電車を止められなかった?
貨物列車に下り電車が衝突したのは脱線から約10秒後であったため、衝突を防ぐことは難しかったでしょう。しかし、下り電車は三河島駅を出発した直後で、あまりスピードが出ていなかったため、この時点では大きな事故ではなく、25名の負傷者(ほとんどが軽傷)が出た程度でした。
最初の衝突の時、上り電車は北千住駅の手前でした。それから第二の衝突まで6分あまり、これは決して上り電車を止められない時間ではありません。しかも、下り貨物列車と下り電車の乗務員、三河島駅の助役、信号扱所掛員、それに列車指令と多くの職員が最初の衝突に気付いていたにもかかわらず、誰もが、ただちに上り電車を止めようという措置をとらなかったのです。
これについては、東京地裁の判決文でも「なかには(下り列車の乗客のなかには)列車防護措置が講ぜられていないことに気付いて「発えん筒をたけ」と叫んだ者もあり、或いは目前に迫つた2000H上り電車の前に両手を横に広げながら立ちふさがり、自己の生命を投出して同電車を停止させようとした者がいたという、非痛な事例も、証拠上認められるところである。しかるに、いずれも第二事故の発生を予想しうる状況におかれ、しかも時間的にも行動的にもそれぞれ右事故を防止することが可能であつたところの被告人の(以下、判決文では被告人の姓が書かれているが、ここでは職種としました)貨物列車の機関士、下り電車の運転士および車掌、三河島駅の助役、信号扱所掛員、加えて列車指令員のうち、誰一人としてその義務を完遂しなかつたことは誠に遺憾というのほかない。第二事故発生の直接的且つ決定的原因が被告人らの右過失行為に存すること明らかな以上、その責任もまたほとんど弁解の余地のない重大なものといわなければならない」と糾弾しています。
浄正寺に建てられた慰霊碑
■事故の教訓による対策
日本の鉄道は世界一正確と言われています。これは当時も同じです。いや、むしろ今以上であったでしょう。そのため、当時の鉄道員に課せられた使命は「列車は極力止めるな」ということでした。「嵐の中でも定刻通り列車を運行した」ということが美談として語られる風潮がありました。この方針は三河島事故によって、「何か異常が起きたら、その付近の列車は全て止め、安全が確認されるまで運転しない」と大きく改められました。
■三河島事故とそれ以前に起きた事故との関連性
鉄道は、一番安全な乗り物といわれていますが、それは鉄道が長い期間をかけ、過去の事故を教訓に安全対策を立ててきたからです。しかし、残念ながらそれらの対策が全ての事例に有効な訳ではなく、逆に作用することもあります。幾つかの過去の事故例を挙げ、三河島事故にどの様な影響を与えたか、については後編をご覧ください。