常磐線日暮里・三河島間の大カーブの謎
常磐線の起点は?
日暮里駅を発車した常磐線下り電車は、直ぐ大きく右にカーブします。しかも急曲線で、電車は車輪とレールの間で大きな金属音を立てながら走ります。日暮里駅に停車していた時は北西を向いていた電車は、三河島駅の手前では東向き(それも少し南側に向いた)になります。山岳部を走る地方線ならばともかく平地の幹線では珍しいカーブです。なぜこのようなカーブになったのでしょう。
ところで、常磐線の起点はどこか分かりますか?上野、東京、品川? いずれも間違いです。正解は日暮里駅です。確かに常磐線の列車の大部分は上野駅発着で、現在は品川駅まで行く列車もありますし、かっては東京駅や有楽町駅を発着する列車もありました。それに日暮里・上野間には常磐線専用の線路も敷かれています。しかし、東京・上野・日暮里間は東北線であって、常磐線は日暮里駅で分岐しているのです。上野、東京、品川はいずれも単に列車運行上の始発駅にすぎないのです。
日暮里駅の常磐線のホームの三河島側の先端付近の線路の脇には、「0」と書かれた高さ1m程の白い標柱が立っています。これは、ゼロキロポストあるいはゼロ哩(マイル)標識と呼ばれ、ここが常磐線の起点であることを示しています。同様に終点も仙台ではなく、その手前にある東北線の岩沼という駅です。
開業当初の起点は田端駅
常磐線は、明治22年(1889年)、ほぼ現在の水戸線に相当する水戸と東北線の小山間を開業させた水戸鉄道を、明治25年、東北線や高崎線を建設した日本鉄道が買収。明治28年、土浦・友部間を建設し、土浦・水戸間を土浦線として開業させたことに始まります。日本鉄道はこれを東京側と仙台側に延伸し、明治29年には南千住に乗り入れました。同時に南千住駅に隣接して隅田川貨物駅を開設し、田端駅との間に隅田川線を建設しました。つまり、常磐線の東京側の起点は当初は日暮里駅ではなく田端駅だったのです。
当時、上野・新橋間にはまだ線路が敷かれていませんでした。この間は江戸時代から市街地であり、用地買収等鉄道の建設には困難が予想されていました。そこで政府は日本鉄道に対し、品川駅から目黒、渋谷、新宿、池袋そして板橋を経由し赤羽で東北線に接続する路線の建設を要請しました。日本鉄道は渋りましたが、政府の強い圧力もあり、僅か1年1ヶ月という短期間で建設し、明治18年(1885年)3月、品川線として開通させました。
一方、常磐線を建設した最大の目的は、当時その沿線、現在のいわき市付近にあった常磐炭坑で採掘される石炭の輸送でした。これを東海道線方面に運ぶ場合、田端から赤羽まで行き、この品川線を利用し品川で東海道線に乗り入れる必要があったため、常磐線の起点が田端になったのです。
明治38年 日暮里~三河島間開業
しかし、旅客列車を上野駅に乗り入れる場合、田端駅でスイッチバック(方向転換)する必要がありました。これは面倒なことで、時間も手間もかかります。そこで、明治38年4月1日、日暮里・三河島間に短絡線が建設され、これが現在の常磐線となり、この時、日暮里駅、三河島駅が開業し日暮里駅が常磐線の起点となりました。この間が急曲線で大きくカーブするのはそのためなのです。
地図を見ると上野駅を出ると鶯谷駅の手前で線路は大きく左にカーブします。やはり、直角に近いカーブです。これは、東北線が上野の台地に沿って建設されたので、やむを得ないのですが、常磐線はここで曲がらず、分岐して北東へ真っ直ぐ進めば、ほぼ直線で千住方面に向かうことが出来ます。実際、上野駅前を通る昭和通りと、それと平行する金杉通りもほぼ直線で千住大橋方面に向かっています。
猛反対された直線ルート
実は、日本鉄道会社も当初このルートでの上野駅乗り入れを計画したそうです。ところが、このルート上の金杉通りは江戸時代初期から奥州裏街道として発展し、その道筋はすでに市街地化していたため地元から反対の声が上がりました。特に朝顔栽培で有名な入谷町は猛反対で、汽車の煤煙は朝顔の栽培に毒だといった趣旨の意見書を、区長を通じて府知事に提出しています。この主張に科学的根拠があったのかは不明ですが、結局、この計画は許可にならなかったのです。
その後も、同様のルートで上野・北千住間を直接結ぶ高速電気鉄道の建設が計画されたこともありましたが、高架線により街が分断されると沿線住民の反対を受け頓挫しており、昭和36年、日比谷線が開通されるまでこの間を直接連絡していたのは市電だけでした。
しかし、駅の開業によって日暮里は益々市街地化し、人口も急増しました。駅開業の明治38年に3、467人であった人口は、5年後には12、125人に、10年後には23、783人を数えました。
もし、この時常磐線が南千住から直接上野駅に乗り入れていたら、果たして日暮里はどうなっていたでしょう?