衛生及ビ医療
南千住警察日暮里分署の記録によると、「9月1日、当署は管内開業医を促して傷病者の救護に從事せしめたりしが、同5日以後に至りて、各救護班の来援あり、漸く其設備の完全を期するを得たりしが、今、其成績を挙ぐれば左の如し。…」として、各救護班の活動を記述しており、それを一覧表にしたのが下表です。
これによると、日本赤十字社秋田県支部救護班の一班が日暮里駅前で9月5日から同10日までの間に延210名を診察したとあるのが最も早い救護活動となっていますが、「谷根千 その24」には、「東京震災録」の記録として、日本赤十字社岩手支部第一救護班が、秋田県救護班より早い4日に活動を開始したということが次のように記述されています。
「9月2日盛岡駅発、3日川口町駅(現・川口駅)下車、翌朝日暮里町に到着した岩手支部第一救護班は、避難者群衆の実況に鑑み、本部の命を受けて此所に救護所を開設し、救護を継続すること10日、漸次避難者減少するのに伴い13日これを閉鎖した」。さらに「本救護所は日暮里町本行寺境内に携え来れる天幕を建設して、もっぱら外来診療に従事し、また日暮里駅前に出張救護をなせる外、町内の巡回救護に努めた。患者は火傷、外傷多く、又胃腸カタルのもの少なからず、救護員は本行寺内の一室を宿舎に使用した」と紹介しています。
岩手県の活動
実際、「東京震災録 後輯」には「岩手県の活動」として
「9月1日午後8時、大震災の知らせが入る。翌2日正午、各情報及び新聞号外等を総合し其の被害が甚大であることを知った。次いで午後2時になって、宮城県を経由した公報により、事態が容易ならざるものであることが判明した。そこで直ちに庁内会議を開き、次の三項を決定した。
1.直ちに食用に提供できる白米一千石(150トン)及びその他の食料品材料品を購入急送すること。
2.各郡市に急報して食料品材料品の急送を促すこと。
3.赤十字社岩手支部に救護班を組織して急派させること。
「知事は、日本赤十字社岩手支部救護班と共に、救護方法を内務省と打合せの為、2日午後9時、盛岡駅を出発した」とあり、続いて「日本赤十字社岩手支部第一救護班は、医師4名、薬剤師以下16名(薬剤師1名・書記1名・看護婦11名・使丁3名等)、計20名を以て組織し、支部長引率の下に、3日午後に川口町駅※に下車、直ちに同所に於いて救護に従事し、翌4日、日暮里に移り、次いで東京市内(有楽町)に移り、更に横浜に転じてその任務に勤めた」と記録されている。(日暮里に於ける救護患者 内科379人、外科442人、計821人)
一方、「東京震災録」の「秋田県の活動」には、医師2名、看護師5名から成る日本赤十字社秋田県支部救護班の一班が日暮里町で9月4日から10日まで救護活動を行い、834名の診療を行ったことも記述されています。
どちらが先だったかはともかく、通信・交通機関が現在よりはるかに未発達であった時代に意外と迅速な対応に驚かされます。
※川口町駅で下車したのは、荒川橋梁が地震で損壊したためと思われます。