日暮里とその周辺のいろいろな話
日暮里火葬場
■火葬場の歴史(太古~江戸時代)
現在、わが国における火葬率は、ほぼ100%で、平成29年(2017年)には約140万人が亡くなりましたが、その内、土葬されたのは僅か387人ということです。
火葬は、日本では古くから行われており、記録に残る最も古いものでは飛鳥時代に法相宗の開祖である道昭が700年に火葬されたのが始めとされています。しかし、縄文時代の遺跡からは火葬の痕跡が残る骨が出土し、また弥生時代以降の古墳にも火葬が行なわれたと認められるものもあるということです。特に、江戸時代には、江戸、京都、大阪のような大都市では土葬にする用地が確保出来ないこともあったため火葬が多く行われていました。
1650年ごろには江戸市中の浅草や下谷の殆どの寺院が境内に火葬場を有していました。しかし、寛文7年(1667年)に4代将軍徳川家綱が上野寛永寺へ参詣したおりに付近の寺で行う火葬の煙や臭気が漂ってきたことが問題になったことから、寛文9年、浅草や下谷に散在していた20数ケ寺の境内火葬場を小塚原刑場(現・南千住2-34-5)近くに設けた幕府指定地へ集合移転させました。それが、小塚原火葬場(現・南千住5-21~22番地)です。江戸時代には、江戸五三昧(ござんまい)と言って、小塚原、千駄木・桐ヶ谷・渋谷・炮録新田の5ヶ所のみが火葬場として指定されました。中でも小塚原は江戸最大の火葬場でした。
小塚原火葬場
■小塚原火葬場の廃止
明治時代に入ると、新政府は維新後勢いを増した神道派の主義主張を取り入れて、明治6年(1873年)7月18日に一般火葬の禁止を布告しました。しかし、その代わりに土葬用の墓地を用意した訳ではなく、墓地が不足し、そのため墓地以外の場所に埋葬したり、遺体を不法遺棄する例も多発し、衛生上かつ倫理上深刻な問題を引き起こしました。また、仏教指導者や大学者からも火葬再開を訴える建白書が相次いだことから、この火葬禁止布告は、布告からわずか2年足らずの明治8年(1875年)5月23日に廃止され、その後、明治政府は、公衆衛生的観点から火葬を推進するようになりました。
火葬禁止布告が廃止されると、町村をはじめ、多くの財閥や資産家からも火葬場建設請願(火葬場新設許可申請)が出されるようになりました。そこで、政府は明治17年(1884年)、火葬場に関する規制を定め、さらに、明治20年(1887年)4月、これを改正しました。この改正により、周辺の市街地化が進んでいた小塚原火葬場は「人家より百二十間(約218m)以上隔てる」の項目で不適格となってしまい操業停止に追い込まれ、220年の歴史に幕を閉じました。
小塚原火葬場営業人は、その後移転先を求めました。しかし、その候補地となった地方橋場町(現・台東区橋場、清川、今戸付近)、三河島村前沼(現・荒川三丁目、東日暮里三丁目付近)等、ことごとく住民の猛反対を受け挫折。結局、明治21年(1887年)12月14日・東京市区改正設計(都市計画)委員会にて北豊島郡町屋村内に火葬場用地が定められたのを受け、町屋火葬会社を設立して、明治26年(1893年)に操業を開始しました。
■日暮里火葬場の開設
これに先だって、明治20年(1887年)6月、牛鍋チェーン店「いろは」の経営で成功を収めた実業家木村荘平が東京博善を創業。日暮里村蛇塚に火葬場開設の許可を得ました。
これは、地元にとって寝耳に水であったようで、日暮里村はもちろん、風下となる金杉村等、近村七ケ村の11名の総代人を選出し、許可取消の申請を警視庁、東京府、内務省に出しましたが、この火葬場開設には政府や東京府も後押ししていたようで、反対運動も腰砕けとなり、日暮里火葬場は許可を得て操業を開始しました。
日暮里火葬場は、当時としては珍しい赤煉瓦の火葬炉と、天を突く煙突を備えた西洋風建築の火葬場であったということです。ところが、わずか2年後の明治22年(1889年)には、規則の改正により明治27年までに町屋への移転を命じられました。しかし、多額の費用を投じて操業し始めたばかりであったことから、延長を願い出て、2度の延長の後、明治37年(1904年)、町屋火葬場の隣地に移転するとともに、町屋火葬会社と合併しました。これが町屋斎場となりました。
昭和30年発行の「新修荒川区史」によると、当時この日暮里火葬場は、東京近村の火葬場中最も利用されたものであったということで、古老の談話によると「日暮里町(火葬場があった当時は、まだ日暮里村でした)では町費の大半は火葬場で納める税金で賄っていたので、火葬場の廃止とともに諸税みな一様に倍額増税しなければならなかった」ということです。火葬場は、地元にとってはありがたくない施設ですが、マイナスばかりではなかったようです。
日暮里火葬場と樋口一葉
現在の五千円札の肖像画にも使われている樋口一葉の代表作「たけくらべ」の中に、「四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟りかとうら悲しく」という一節があります。ここで「日暮里の火の光り」とは日暮里火葬場の火葬の模様を指します。
一葉は、明治26年(1893年)7月から、明治27年(1895年)5月までの一年近く、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を営んでいました。当時、諏訪台の東側には一面田畑が広がっており、火葬場から南西に2km以上離れていた竜泉からも火葬の煙や火が見えたのでしょう。明治22年(1889年)7月に亡くなった父則義は、この日暮里火葬場で荼毘に付されており、一葉は、その煙を特別な想いで眺めていたのかも知れません。
当時の火葬は夜の8時から10時までの深夜に行い、拾骨は午前8時から午後3時に行うことと定められていました。また、身内の女性が遺骨を拾集して帰るのが慣習でした。明治27年(1894年)7月1日、従兄の樋口幸作が入院中の上野桜木の丸茂病院で亡くなり、その日の内に日暮里火葬場で荼毘に附されましたが、7月2日の一葉日記には「早朝、母君およびおくら(幸作の妹)と共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく」と書かれています。
一葉は、それから2年後の明治29年(1896年)11月23日、24歳の若さで亡くなりました。その葬儀が築地本願寺で行われたのは間違いないようですが、火葬が日暮里火葬場であったかどうかは定かでありません。
■日暮里火葬場と與楽地蔵
ところで、日暮里の火葬場は何処にあったのでしょう。平成元年に発行された「荒川区史」には数頁に亘って日暮里火葬場の設立から移転までを説明していますが、その場所は「字(あざ)蛇塚」とだけで詳しい住所は書かれていません。そこで、字蛇塚(現・西日暮里一丁目の西側付近)の辺りの路地という路地をくまなく歩いてそれらしき痕跡を捜してみました。すると、道灌山通りに面した西日暮里郵便局の脇の路地を入った角に「與楽地蔵尊」という地蔵堂がありました。さらに調べて見ると、荒川区教育委員会発行の「街角で拾ったよもやま話集」には次のような話が掲載されていました。
「西日暮里郵便局の裏に、お地蔵さんがあります。『与楽地蔵尊』といいます。いつも、花やお線香やろうそくがお供えしてあります。元の日暮里七丁目(今の西日暮里一丁目付近)のお地蔵様あたりが、昔、火葬場のあとだったということを近所のおじいさんから聞きました。そこには、大きな池があり、コイやフナがいて釣りもできました。その池にいたい(遺体)を焼いた灰を捨てました。『なげし』と言って、鉄などを売る仕事をする人がいて、池の底の方から砂などを取って、ふるいでふるって釘などを拾っていました。
日暮里火葬場・ゴミ焼却場
明治38年、火葬場は町屋に移りました。その後、近所の人が、三人続けて死にました。病気の人が一人と元気な人二人です。不思議に思って調べて見ると、そこが、火葬場の跡だったことがわかりました。近所の人達は、たたりを恐れて、お地蔵さんを作って祭りました。それから亡くなる人がいなくなったそうです。そこで、諏方神社の近くの浄光寺というお寺のお尚さんに『与楽地蔵尊』という名前をつけてもらいました。『与楽』という意味は、みんなに楽を与えるということだそうです。毎年、四月二四日にお祭りをしているそうです」
確かに、東日暮里六丁目本町会の七十周年記念誌に載っている明治30年の地図には日暮里火葬場が記載されており、明治42年の地図にはこの跡地付近に池らしき表示があります。
また、この跡地付近一帯の土地を所有する地主さんは東日暮里六丁目本町会の会員で、その方の話からも、このあたりに火葬場があったのは間違いないようです。
與楽地蔵尊
日暮里塵芥焼却場
火葬場とともにゴミ焼却場も嫌われる施設です。昭和40年代には、杉並区高井戸の清掃工場建設計画に地元が反対運動を展開。これに対し、東京都のゴミの大半を処理していた夢の島をかかえ、永年ゴミ公害に悩まされていた江東区は猛反発。杉並区のゴミの搬入を阻止するという強硬手段を取り、「ゴミ戦争」と言われる事態に発展したこともありました。
かって、その焼却場も日暮里にありました。場所は荒川区日暮里町6-640(現・西日暮里5-26)で、三河島駅の北側にある真土公園の所です。
この焼却場は、昭和6年(1931年)12月に日暮里町営として竣工しました。敷地面積は540坪で、焼却夫7人で運転し、焼却能力は一日30tonで、翌7年10月、荒川区誕生とともに東京市に移管されました。
焼却場が着工する頃には、東京市がそれまでの15区から35区制になり、日暮里町が東京市に編入されることは分かっていたと思われますが、始めから東京市への移管を想定していたのでしょうか。
焼却場は空襲で被害を受けたようで、昭和25年(1950年)2月に復旧されたということですが、昭和49年(1974年)廃止されました。老朽化し、規模が小さく、敷地の拡張も困難で、また搬入路も狭く大型車の進入も困難であったためと考えられます。
跡地は、真土小学校の第二グランドとなりましたが、真土小学校が第四日暮里小学校と統合されひぐらし小学校となり、新校舎が四日小跡地に建設された後、公園として整備されました。
日暮里塵埃焼却場
昭和50年、焼却場廃止後の航空写真
廃止の翌年の写真ですが、まだ建物が残っています。
三河島駅上り線側下の貨物駅(現在、公園や「せせらぎの小路」になっている)も廃止となっていて、既にレールが撤去されています。