▇ 北陸トンネルの開通
今から60年前、三河島事故から1ヶ月ほど経った昭和37年(1962年)6月10日、北陸本線の敦賀・今庄間に当時日本最長の北陸トンネル(総延長13,870m)が完成し、敦賀駅で盛大な開通式が行われ、その様子がTVで中継されました。喜びに満ちあふれた大勢の列席者の中に一人沈痛な面持ちの人がいました。国鉄総裁十河信二です。十河は「三河島事故で亡くなられた方の四十九日も納骨もまだ済んでいないので…」とテープカットも辞退しました。
地元の人全員が喜んでいた訳ではありません。複雑な思いをいだいている人達もいました。トンネルの完成とともに廃線になる旧線の沿線の人々です。明治29年(1896年)以来、生活の一部となっていた鉄道が無くなってしまうのですから寂しい気持ちの方が大きかったでしょう。TVのインタビューに「昨日は、列車の写真を撮ってお別れしました」と涙を浮かべて話す女性の姿が印象的で、十河の様子とともに記憶に残っています。
それから10年後の昭和47年(1972年)11月6日未明、その北陸トンネル内で列車火災が発生し、乗員乗客に744人の死傷者を出すという大惨事が発生してしまいました。
北陸トンネル敦賀口(左に慰霊碑)
▇ 急行「きたぐに」火災発生
EF71型電気機関車が牽引する客車15輌編成からなる大阪発青森行き下り急行「きたぐに」は、乗客761人を乗せ、この日の午前1時4分、定刻より2分遅れて敦賀駅を発車、 午前1時8分、北陸トンネルに入りました。ところが、間もなく11輌目に連結されていた食堂車の休憩室から出火。食堂車の後方12輌目のデッキにいた乗客がこれに気付き、13輌目の車掌室にいた専務車掌に連絡。専務車掌は、火災を確認し直ちに緊急停車の措置をとり、午前1時13分、列車は入口から約5.3kmの地点に停車。車掌は他の乗務員と共に消火に当たります。しかし、煙が立ちこめていたことから火元が特定できず、延焼防止のため12輌目側のドアを閉め、食堂車側からだけの消火であったことなどから消火できませんでした。そこへ駆けつけた機関士の提案で食堂車の切り離しを行うことになり、まず、食堂車と後方の12輌目の客車の切り離しを行いました。ところが、運転乗務員の信号確認の妨げになるという理由からトンネル内の照明が消されており暗闇での作業で、また、現場が緩い上り勾配であったこと、さらに、元々乗務員はこのような切り離し作業に不馴れであったこと等のため手間取り、午前1時34分、漸く作業を終わりました。
午前1時39分、食堂車を含む前方の客車部分を70mほど前進させ、食堂車と前方の10輌目の客車の切り離しにかかりました。しかしこの時、食堂車からの煙が強くなったため、ここをあきらめ9輌目と10輌目の客車の切り離しを行いました。やはり、作業は難渋しましたが、連結器のみ開放できたので他のホース類やケーブル線、それに貫通路の幌は引きちぎるつもりで列車を発車させようとしました。ところがこの直前の午前1時52分、下り線は停電してしまいました。これは、トンネル内の湧き水を処理するため取り付けられていた塩ビ製の樋の真下に食堂車がきたため、火災の熱で樋が変形し垂れ下がり架線に触れ、変電所の緊急遮断器が作動したことによるものでした。
▇ 食堂車前方乗客の避難
これにより「きたぐに」は動けなくなってしまいました。やむを得ず、乗務員は乗客を徒歩で避難させることにしました。「きたぐに」には食堂車、郵便車、荷物車の従業員を含めると30人ほどの乗務員がいました。ところが、最初の切り離し作業の後、これらのほとんどが後方に残ったままになり、前方には、指導機関士、機関士、機関助士と乗務掛(車掌)の4人のみでした。それでも彼らは手分けして乗客を起こし、今庄側に向かって避難するよう指示してて回りました。
起こされた乗客は列車を降り、前方(今庄側)に向かって歩き始めました。暗闇の中でトンネルの壁に手をつきながらの避難で、転倒などにより負傷する乗客も多数出ました。それでも、彼らは1.5kmほど歩くと前方に煌々と輝く二つの灯りを眼にしました。上り電車急行「立山3号」のヘッドライトです。「立山3号」は、午前1時23分、今庄駅を通過、さらに南今庄駅を過ぎて北陸トンネルに入りました。ところが、現場から約2km手前の木の芽信号場まで来た時、信号が赤に変わったため、午前1時40分、停車しました。これは「きたぐに」の乗務員がとった措置によるもので、乗務員は、三河島事故を教訓にして作られた軌道短絡器を携帯していました。名前は大げさですが、電線の両端に磁石を付けただけの簡単なものです。この磁石を隣接する線路(上り線)の2本のレールに吸い付けることにより、あたかもそこに列車がいるようになり信号を赤に変え、上り列車の突入を防ぐことができるのです。三河島事故の教訓が活かされました。
しかし、午前2時1分、信号が青にかわりました。これは、避難する乗客が電線を足に引っかけ磁石が外れてしまったためと思われます。しかし、異常を感じた「立山3号」の運転士は警戒し徐行して進みました。すると、午前2時3分、前方に「きたぐに」から避難してきた乗客を発見、そこに停車しました。「立山3号」の乗務員と乗客は協力して「きたぐに」の乗客225人を車内に引き入れました。避難してきた乗客はまだ残っていましたが、「立山3号」の車内にも煙が流入してきていたため、これ以上の収容は危険と判断し、上り線を逆行して南今庄駅に避難しました。761人の乗客の中でこの225人は最も幸運な避難を果たした乗客でした。「立山3号」に収容できなかった乗客も午前5時50分、今庄側から入ってきた救援列車に救助されました。
▇ 食堂車後方乗客の避難
一方、食堂車の後方12輌目は普通車の指定席車、13輌目はグリーン車、14輌目が郵便車で15輌目は荷物車でした。ここには100人ほどの乗客がいました。彼らの内約30名は、乗務員の先導で敦賀側に徒歩で脱出しました。暗闇の中を5kmあまり、煙に追われての避難でしたが、乗務員が一緒だったのが彼らを勇気づけました。残り70人余りもこれに続きました。しかし、後方約400m、後続の貨物列車が停車している辺りに来ると煙が強くなってきました。そこで彼らは元の客車に戻るとドアや窓を閉め、乗客だけならばできなかったであろう天井の通気口も閉めることができ、煙の流入を最小限に抑え救助を待ちました。そして、午前3時30分、敦賀側から最初に入ってきた救援列車によって救助されました。彼らも幸運な避難をした方でした。
しかし、残り(300人以上)の乗員乗客にとっては、この後、地獄のような苦しみが待っていました。火災は午前4時頃、最大となりました。それまでくすぶり続けていた火災は、フラッシュオーバーといって爆発的に炎上しました。結局、死者30人(乗客29人・乗務員1人)、負傷者714人という大惨事になってしまいました。負傷者の中には転倒したりしたことにより外傷を負った人もいましたが、死傷者の大半は一酸化炭素中毒によるものでした。この事実がトンネル火災の恐ろしさを物語っています。
▇ 起訴された機関士と専務車掌
事故の後、機関士と専務車掌が業務上過失致死傷の容疑で起訴されました。もう一人、機関車に同乗していた指導機関士も起訴される対象者でしたが、彼は、トンネル内の非常電話から「送電して」と連絡した後、鼻にボロ切れをあてたまま息を引きとっていました。
裁判で、検事は乗務員が列車を止めたことを追及しました。停車せずそのまま走れば、時速60kmで走っても8分あればトンネルを出ることが出来たというのです。確かにその通りです。事故の後、国鉄は列車火災の大規模な実証実験を行いました。宮古線猿峠トンネルで同じような客車に火をつけてトンネル内を走らすという実験も行った結果。火災車両のドア、窓を閉めておけば火災車両の前方にはほとんど影響が無く、後方の車両の走行にも影響は少ないことが判明しました。
しかし、それは結果論とも言えるものでした、当時の国鉄には、このような長大トンネルにおける列車火災に対する対処法が確立していませんでした。そのため、乗務員は三河島事故の後決められた、「何か異常が起きた場合は直ちに列車を停車する」という新しい方針に従ったのです。
▇ 消防署の警告を無視した国鉄
実は、この事故の5年前(昭和42年10月)、地元の敦賀市消防本部は北陸トンネル内に於ける列車火災の危険性を指摘し、指揮命令系統の確立、列車の緊急停止方法の徹底、火災・酸素欠乏に備えたマスクの常備、消火栓・小型動力ポンプの設置、外部への連絡方法等の対策を立てるよう警告しました。ところが国鉄は「電化区間に於いては火災は起きない」との誤った認識からこの警告を無視し、何の対策も立てませんでした。
さらに、この事故の3年前(昭和44年/1969年12月6日)、この北陸トンネル内を走行中の上り寝台特急「日本海」の電源車から火災が発生しました。しかし、この時の乗務員は機転を利かせ、そのまま走り続けトンネルを出たため大事に至りませんでした。ところが当時の国鉄は、これを規則違反として乗務員を処分しました。「きたぐに」の事故の後この処分は取り消されたということですが、「きたぐに」の乗務員にもこの事実が頭にあったのではないかとも言われています。また、実際にこのような列車火災が起きていたにもかかわらず、依然として、国鉄はトンネル火災の対策を立てませんでした。
▇ 機関士、専務車掌とも無罪
こうした事故の場合、どうしても現場にいた者だけが責任を追及されます。もちろん、この事故に於ける乗務員の行動が適切なものであったとは言えません。一般的な火災でも「風上の建物に延焼する可能性は少ない」ということは常識です。ですから、少なくとも食堂車とその後方の客車を切り放した後であれば、他の車輌への延焼の恐れは無くなり、食堂車とその前方の客車だけで今庄側に避難することが出来ると考えられたはずです。実際、専務車掌も、機関士から食堂車の切り離しを提案された時は、その様にするものだと考えていました。しかし、8年に及ぶ裁判の結果彼らは無罪となりました。彼らの過失より「重大な警告を無視した過失の方の責任が大きい」として無罪という判決になったのではないかと考えられます。
▇ 石勝線列車脱線火災事故
(あわや大惨事!活かされなかった北陸トンネル事故の教訓)
北陸トンネル火災事故によって得られた貴重な教訓は「トンネル内で火災が起きた場合は速やかにトンネルの外に避難する」ということです
平成23年(2011年)5月27日21時55分頃、釧路駅発札幌駅行特急「スーパーおおぞら14号」(6輌編成)は、石勝線・新夕張駅~占冠駅間清風山信号場構内に於いて異音と振動を感じたため、同構内の第1ニニウトンネル内に入った所で緊急停止しました。この時点で列車からは既に白煙が吹き出し、炎も確認されたにも関わらず、乗務員は乗客を避難させること無く、現場にいない列車指令とのやりとりに終始しました。結局、車内に白煙が充満し危険を感じた乗客がトンネルからの脱出を決断。列車のドアコックを操作してドアを開け避難しました。
このトンネルは全長685mで、列車の先頭が停止したのは入口から約150mの地点でしたが、単線で、出火したのは最後部6輌目であったことから、距離の短い入り口側に避難することはできません。そのため出口側まで500m以上、煙が充満した暗闇の中を歩かなければならず、乗員・乗客全員の避難が完了したのは停車から1時間半以上経っていました。乗客・乗員252人のうち79人が煙を吸うなどして軽傷を負いましたが、幸い死者は出ませんでした。その直後、列車は炎上し、全車両が焼損しました。もし、避難がもう少し遅れたら北陸トンネル事故を上回る惨事となっていた恐れがありました。
また、この先には、当時北海道内最長の新登川トンネル(5825m)があり、もし、このトンネルで事故が起きていたらさらに恐ろしい結果になっていたでしょう。
▇ 事故を風化させてはいけない
この事故は、北陸トンネル事故から40年近く経ってからの事故で、事故が風化し、その教訓が活かされませんでした。鉄道は大量輸送機関であるため、ひとたび事故が起きると惨事につながる恐れがあります。だからといって鉄道が危険な乗り物と言うわけではありません。鉄道事故で死者が出る確率は、飛行機の100分の1、自動車の500分の1以下であると言われています。しかし、鉄道が最初から安全であった訳ではありません。長い歴史の中で事故を教訓として改善が図られてきたからです。その貴重な教訓を活かすためにも事故を風化させないことが大切であると思います。
ただ、「三河島事故後編」で述べたように過去の事故を教訓とした対策が全ての事例に有効であるとは言えません。手放しで規則に従うのでは無く、現場の状況を出来るだけ正確に判断し、臨機応変の対応が必要であると考えます。とは言え、いきなり緊迫した状況下におかれた乗務員にそうした対応を求めるのは酷なことです。やはり、日頃の訓練が欠かせないでしょう。
▇ エピソード
「肉まん」「あずきバー」等で知られる菓子メーカー「井村屋」の女性会長・中島伸子氏は、19歳の時に北陸トンネル火災事故に遭いました。火災発生時、3人の子を連れた母親から「この子だけでも逃がして」と5歳の子を託され、その手を取り炎の中を逃げましたが意識を失い倒れ、救助されたものの半年間入院しました。目覚めた後、母子は4人とも亡くなったと聞かされ、その子を救えなかったという罪悪感と、自身も煙で喉を痛め夢だった教師への道を閉ざされた絶望感に苦しむ日々が続きました。しかし、「亡くなった人の分もしっかり生きて働いて、社会に恩返ししなさい」という父の言葉が支えとなり、井村屋福井営業所のアルバイトから現在の地位まで上り詰めたということです。