はじめに

2018年12月30日

  

この論考は、海外史書や考古学的資料や遺跡や金石文から不動点(時・人・場所の交わり点)を求め、日本の古代史を検証し、再構築した。

日本書紀は、日本が大和を中心に、血脈で受け継がれた天皇が支配してきたとしている。書紀が書かれた時期は、唐の東アジアへの進出によって、百済・耽羅が滅亡し統一新羅に、高句麗は渤海にかわり、倭国もまた日本として再生してきた時期である。書紀の編纂者は国家形成のために歴史が必要と考え作成した。 

地球上のどの地域も民族の移動があり、王朝の変遷がある。日本が特別ということはなかったと結論される。考古学的には、5世紀の河内の大発展があり、大陸から、干拓・灌漑土木・鉄・縫製・馬などが持ち込まれ、経済的に発達した。河内には全国制覇を成し遂げた獲加多支鹵大王もいた。大和が太古より倭国の中心であり続けたわけではなかった。

民族移動に起因した半島国家の消滅(辰国の滅亡、百済国の南遷、伽耶地方の消滅、百済国の消滅、高句麗国の消滅)があり、日本列島には複数の王族が流れ込んだ。このような中で、過去からひとつの王権が永続することはありえない。河内は倭の五王の後、6世紀も日十大王からアマタリシヒコ大王が王権を構成していた。書紀は、五王の後の王権を淀川水系の継体に移し、大和の欽明へと繋いだ。書紀が王権を迂回させたのは河内政権を歴史に残したくない意向が働いているからである。

マクロに見れば半島の辰国が時間をかけて倭国に移動した。辰王の分派が倭国に到来した(倭の五王)。半島に残った分派が百済を興した(百済辰朝)。百済は昆支を河内に派遣し、昆支系は倭の五王系を襲った。昆支系を新たな百済支脈(翹岐)が襲う形で倭国の百済系脈を保全した。百済は白村江敗戦によって最終的に倭国に根を下ろした。このように、分派を繰り返しながら、辰国の王族は倭国に到来した。

この論考では各タイトルで、以下を論じ証明する。

倭の五王=辰王----高句麗の南下圧力により、辰王が河内に渡り、倭の五王政権が生まれた。

昆支王(軍君)----百済から倭国に渡り、百済系大王の元を作った。

継体天皇と日十大王---- 北陸の継体は大和に出て、日十王と大王位を争って敗れ、淀川水系勢力の主になった。河内は昆支王系(日十大王~アマタリシヒコ大王)が支配した。昆支系大王の朝貢が約100年間なかったことは半島の都督権放棄に繋がり、任那割譲と関連する。河内に大王がいる限り、継体は大王ではない。河内と継体の関係を論じる。

欽明天皇=脱知爾叱今 ---- 任那が百済・新羅に吸収される過程で金官伽耶から王弟の脱知爾叱今が到来し欽明となった。

阿毎多利思比孤=聖徳太子 ---- アマタリシヒコは昆支王の子孫で、河内の大王であり、史料上は聖徳太子である。法隆寺釈迦三尊像光背で上宮法皇と記される人物でもある。倭国を広く支配したが、支える貴族(蘇我)とともに滅ぼされた。

翹岐=孝徳天皇---- 百済 王弟の翹岐王は河内に渡り、蘇我入鹿を滅ぼし、昆支王系を絶った。翹岐は難波に都して倭国を律令政治で統治し、後に孝徳天皇と呼ばれた。

扶余勇=天智天皇----白村江の敗戦で扶余勇は百済から渡来し、筑紫から近江を支配し、後に天智天皇と呼ばれた。

天武天皇=孝徳天皇皇子----大海人は翹岐の子供で、扶余勇の従兄弟である。大海人は扶余勇を補佐したが、扶余勇崩御後、新羅の外圧を利用し、天武政権を打ち立てた。

辰王位----辰国は倭の五王系と百済辰朝に分派した。倭の五王系は河内に到来し、倭国を開拓した。百済辰朝は半島に残留した。扶余隆の墓誌に百済辰朝人の記載がある。百済辰朝は唐・新羅に滅ぼされ、貴族は大挙して倭国に渡り、倭の五王系と合流し、辰国は完全に倭国に移動した。倭国と百済の間には辰王の正統性を巡る争いがあったと思われる節があり、辰王位を仮定して歴史上の出来事を紐解く。

・付録   遼史日本国王府(白河院政)----遼史の百官志の北面官に日本国王府の記述があり、北面の武士との奇妙な一致がある。白河院政とは遼の日本国王府、前九年後三年は朝廷の女真族との闘い、源平の戦いは遼軍の内部抗争、奥州藤原は女真族、頼朝は契丹と見られる。

論考過程の概略

最初、日本の朝鮮山城に興味があった。朝鮮山城は防衛戦闘のためとされていたが、現地を踏査すると戦闘に適さない立地のものがあり、統治様式だと思えた。旧唐書で扶余勇を発見し、彼が倭国でどうなったかを考えると天智天皇の行動がそれであると結論が得られた。考察中に発表された禰軍墓誌もこの線で解釈できたので確信を得た。近江政府が扶余勇のものであることがわかると、中国史書に書かれている日本国号のいきさつが読めた。天武が旧唐書にでる倭国王(酋長)である事も自然に解決した。

書紀の一角が崩れたので、中国史書にあって日本史書にない倭国の人物に興味が沸いた。倭の五王については海外史料が豊富で、その時代の古墳や発掘品は日本でよく研究されており、まとめるだけで辰王に到達した。

次にアマタリシヒコオオキミを考えた。聖徳太子であることは明らかなのだが、書紀やその他の史料との矛盾があり、それを解く必要があった。唯一の金石文(法隆寺釈迦三尊像光背)から得られた結論が史実であり、その他の原典がない金石文のコピーには改竄があり、後世作の史料は創作があると考えた。大王(オオキミ)称号は獲加多支鹵大王が使っているので、アマタリシヒコが河内の人であることが浮かび上がった。アマタリシヒコは実在したので、日本書紀を作った政権はアマタリシヒコを隠す意思があると感じた。

続いて、翹岐に着目した。皇極紀は小説に思えた。翹岐がぱったり姿を消したので、彼が孝徳であることは明らかだったが、証明が必要だった。前期難波宮の建物は孝徳が外国人である証拠として十分であった。前期難波宮が翹岐の親である百済武王の宮殿遺跡と立地やサイズの上でほぼ同じであることは十分すぎる証拠だった。皇極譲位から天智称制までの皇統のイレギュラーの連続は皇統を創作した跡だと思い、もっとも普通のストーリーである孝徳の王子が倭国王になった場合を考えると、すでに、扶余勇の考察で、大海人皇子=元倭国王の結論が出ていたので、大海人皇子=孝徳の王子はスィートスポットのようにはまった。「なぜ、扶余勇が簡単に倭国を治めることができたのか」の疑問は、大海人皇子は扶余家であり扶余勇と従兄弟で、扶余家存続のために扶余勇に協力せざるを得ないということで解決した。

入鹿暗殺を考えているとき、「貴族は支える王族を自ら替えることはありえない」に気づき、聖徳太子と蘇我のペアは昆支と蘇我満智ペアの子孫であると結論され、アマタリシヒコが昆支系であると判定された。これが、河内の王権の本流だと思えた。すると、上宮法皇(=アマタリシヒコ)の不審な死と入鹿暗殺から、昆支系は結果的にその貴族とともに滅ぼされたことになると想起された。

三国遺事の金官伽耶を調べていると、新羅に投降した金官伽耶王は王統の将来のすべてを新羅に託したのだろうかと疑問に思え、王弟の脱知爾叱今の処遇(食邑の長)があまりに不自然であったので、王統を守るために倭国に渡ったと仮定すると、倭国内のさまざまな事件が解決し、欽明紀の記述とも矛盾がなく、欽明であると確信が得られた。

最後に継体を考えた。継体が北陸で活躍したのは、武の治世下で、大王が武から日十大王に代わるときには、継体が大和にいたことが、人物画像鏡の銘文によりわかった。継体が大王交代後に淀川水系の王になったのであるから、継体は日十大王に負けたと思えた。日十大王の後裔にアマタリシヒコ大王がいるので日十大王は昆支系であることもわかった。継体が水運で淀川水系を制覇した説はスケールが小さいと思え、淀川水系には巨椋池があると強引に考えた。越前平野の開拓はまさに縄文海進海退による低湿地開発だったので、継体の巨椋池開拓説は的中していると思った。縄文海進海退は全国的なものなので、同じ時期に各地の沖積平野は鉄器によって開拓され、古墳の低地化巨大化が同時期に起きたことも説明できた。

別々に解いたジグゾーパズルのピースがきれいに繋がるので、この論考の示すところはかなり真相に近いと思っている。自国で完結する史観が日本の歴史学を支配しているようだが、ゲノムワイドな遺伝子解析結果が示すとおり、人類は地球上動き回っており、この島国も例に漏れない。王たちは、やむにやまれぬ事情から、大陸からきて新たな支配領域を求めたのである。海外の歴史では、このような例を多数示しながら、自国に関してはないというのは歪んでいる。有史後も多くの王族が渡り支配権を争ったことをここに示した。


歴史には不動点がある。客観的に書かれた歴史書、金石文、遺跡、副葬品、自然現象などは不動点である。歴史書は不動点を説明できなければならない。不動点は歴史書の試金石である。古代史は詳細が欠けていることが多く、不動点から論理を考えるパズル的要素がある。例えば、扶余勇は中国史書に明記され、倭国に渡ったと書かれている。これを不動点とすれば、扶余勇が倭国の誰なのかは解かれなければならない。タリシヒコは倭国王で男性である。これは不動点で、タリシヒコに符合する男性倭国王が存在しない歴史書は怪しいのである。書紀や古事記は怪しい歴史書すなわち改竄されていると思わなければならない。このように考えていけば、少ない不動点からでも、真の歴史の骨格を得ることができる。奇抜な思い付きで歴史を説明しようとする例もある。そのために多くの仮説を積み上げる。あるいは、事実を否定するために、歴史をつまみ食いしたり、捏造したりする。所詮それらは空中楼閣である。この論考で使った論理は不動点からの積み上げである。歴史を客観的に解析したければ、史学は理科系の学問に分類すべきだと思うが、文科系に属させられているのは、歴史を意志通りに作りたい気持ちがあるからだ。今でも人類には客観的真実を認めず、歴史は作られるものだとする人々がいるということだ。