U市畑進:「英雄のいない国は不幸だ !」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」2025.06.29 Home
「英雄のいない国は不幸だ !」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」
その昔わたしの知人の東大生が「プルタークの英雄伝」をいつも持ち歩き、ぜひ読めと云う。
読んでみても、まったく感激しない。現代の思考からかけ離れている。現代的にはプーチン、エタニエフ、今回のイラン攻撃からトランプも殺人者だと云ってよいだろう。人を殺しても平然としていられると云うのは人ではないだろう。日本の御前会議のメンバーは殺人者として記憶されるべきだろう。
ドイツの首相だったアンゲラ・メルケル氏の新刊回顧録には「自由」というシンブルなタイトルがついている ( K A D O K A W A刊 )。人を人であらしめる「自由」の擁護者であり続けたい。つよい意思の刻印なのだろう。東ドイツ時代の回想には、たとえば次のような下だりが頻繁にある。「東ドイツにおいては文書のコピーは極めて政治的な行為なのだ。 (中略 )コビー室の女性室長がコピ ーされたペ—ジのすべてを記録した」
東独といえば、悪名高かった国家保安省 (シュタージ、いわゆる秘密警察 )の監視が人々をおびえさせ、社会を締め上げていたことで知られる。「私たちはいつも誰かに見られている、いつも誰かに聞かれていると、想定していなければならなかった」
あるときはシュタージから、学生たち動向を把握したいと協力を求められた。「私にスパイをしろと言いたいのですか?」。機転を利かせて断ったが、そのあと望んでいた大学での研究職の道を閉ざれてしまう。
東独政府は、隣人や同僚はかりか家族をも監視・密告する協力者として多くの国民を秘して使っていた。陰湿な圧制をくぐってきた人に「自由」とは決して当たり前のものではない。
メルケル氏の回想録をひもときながら、国家の闇から人間らしい一条の光が差してくる映画を思い浮かべた。
「 1 9 8 4年東ベルリン 国民は国家保安省の監視下にあった 10万人の職員と 20万人の密告が すべてを知ろうとする独裁政権を支えた」
こんな字幕とともに映画「善き人のためのソナタ」 ( 2 0 0 6年、独 )は始まる。冷徹で寡黙なシュタージの手練れの職員 (大尉 )が、反体制とみられる劇作家と女優の暮らすアパートを 24時間監視するよう命じられる。だがそうするうち、盗聴器から伝わってくる人間らしい語らいやピアノの調べに心の内で何かが変わりだしていく。監視国家の歯車に徹してきた男が、堅氷が緩みだすように遂巡しつつ人間らしさへの共感に目覚めていく。灰色だった表情が仄(ホノ))かに変容していく。そして最終的に、彼はひそやかな勇気をもつて国家に背を向けるのである。心の変化が兆し始めるのは、監視するアパートから持ち出したドイツの劇作家で詩人のブレヒトの本によってだった。美しいー編の詩「マリー・Aの思い出」を彼は夜、ひとり読む。 9月のブルームーンの夜 スモモの木陰で青ざめた恋人を抱きしめる 彼女は美しい夢だ (字幕から ) その場面から、ソ連から米国に亡命したノーベル賞詩人ブ ロッキーがこんなふうに語っていたのを想起する。「芸術や文学、とりわけ詩は、人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結びます。だから大衆の支配者たちに嫌われるのです」。
振り返れば、民衆の不安が独裁を招き入れた歴史もあった。ドイツに限ったことではない。それはしばしば、歓呼とともに登場してきた独裁者に、人々がやすやすと自由を差し出してきた苦い記憶でもある。ブレヒトの劇「ガリレイの生涯」に名せりふがある。「英雄のいない国は不幸だ !」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」 (岩淵達治訳 )
コロナ禍のさなかのメルケル氏のテレビ演説を思い出してみる。移動や旅行の自由を制限する必要について語りかける言葉には、一方で、不安にかられる人々が政治により強い統率や介入を待望しがちな意識を、静かに解毒していくような思慮を感じたものだ。喝釆を求めることのなかったこの人は今、自分が聳え立つことを欲してやまないナルシストのリーダーたちを醒めた目で見ていることだろう。民主主義に英雄はいらないのですよ !!と。
ふくしましんじ 元朝日新聞編集委員。 2 0 0 7〜 16年に天声人語を執筆。