昨日ひさしぶりで美術展を見てきました。昨年5月の大吉原展、10月の田中一村展以
来のことでした。府中市美術館で5月11日まで開かれている司馬江漢と亜欧堂田善の
特集で題目は「かっこいい油絵」です。当時流行の浮世絵に対して「かっこいい」絵
であったということのようです。たいへん印象深い美術展なので取り急ぎお知らせし
ます。都心の大美術館で開かれる新聞社主催の美術展と違って閑散そのもの、もった
いないと思いながら充実した内容を落ち着いてゆっくり鑑賞してきました。これなら
連休の最中でもゆっくり見られると思います。
どういう文脈の中であったか、この2人の名前は歴史の教科書で知ったように記憶し
ています。遠近法を取り入れた西洋画のハシリだったように思いますが、鎖国時代の
彼らの作風はその後の明治時代の洋画とは区別されて「洋風画」と呼ばれるとのこと
です。洋風画家たちは彼らがそれぞれ興味を持った洋画の特徴を取り入れて世間を驚
かせ、また好評も博したもののようです。例えば、透き通った青空は浮世絵にはな
かったものでした。この2人の衣鉢を継ぐ弟子たちもいましたがやがて本格的な洋画
に呑み込まれたとのことです。司馬は1748年の生れで亜欧堂とほぼ同年、初期浮世絵
師の鈴木春信(1724~70)の弟子で春重という名前で絵師の道に入りました。北斎
(1760~1849)、広重(1797~1858)より先の人ということは予想外でした。
絵の歴史には司馬江漢や亜欧堂田善について一、二枚の代表作の写真は見ていました
が小さくてなにもわからなかった。彼らの作品、とりわけ司馬江漢の作品がこれほど
あるのかと驚きました。前後に分けて入れ替えはありましたが総合計2人合わせて1
85点ありました。亜欧堂田善は私の第二の故郷の近く、須賀川市の出身であること
は薄々は知っていましたが、地元の須賀川市立博物館に亜欧堂の最大のコレクション
があることは初めて知りました。須賀川は旧白河藩の領地で風流人でもあった松平定
信が亜欧堂を定信に仕えた江戸絵師、谷文晁に弟子入れさせたと伝えられています。
司馬よりもかなり遅れて47歳の時でした。ちなみに白河はダルマ市が有名でそのダル
マの絵は谷文晁の手になるものと伝えられています。亜欧堂の亜は亜細亜、欧は欧州
からきていますがこれも定信の命名と言われています。
日本画では屏風などによく虎の絵が描かれるのを別にどうとも思わずに見ていました
が、禅の世界では「虎が吼えれば風が起る」という考えがあり、虎は室町から江戸に
かけて好まれた題材だったということをここで学びました。司馬江漢の一枚に「円窓
唐美人図」があり「府中のモナリザ」と名付けられているのが面白い。椅子に掛けた
女性の背後の円窓の彼方に景色が遠望される構図はモナリザそのもので独特の魅力の
ある「かっこいい油絵」です。七里が浜や二見が浦の景色は江戸時代を通じてよく描
かれたということです。この2人の画家もその風景を丁寧に描いています。大吉原展
でもそうでしたがこの「かっこいい油絵展」の中心も隅田川周辺、金竜山之図(浅草
寺)の古い江戸風景、さらには洲崎、鉄砲洲などから海を隔てた富士の遠望でした。
魅力的な花鳥風月の絵もありますが私がとりわけ引き付けられたのはより独特な魅力
を備えているこれらの風景画でした。
亜欧堂田善の「陸奥国石川郡大隈滝芭蕉翁碑」が当時よく売れた旅行案内書に出てい
ますが私はとっさに「乙字ヶ滝じゃないか」と思いました。遠足で行ってその河原で
弁当を食べた思い出の滝に違いないと思ったのです。カタログには乙字ヶ滝の文字は
出ていません。ネットで大隈滝を調べると九州にその名の滝が一つ出ているだけで
す。しかし乙字ヶ滝は日本の滝百選にも出ているもので、かつては石川郡玉川村(現
在は須賀川市)に接したところにあったのです。須賀川市を流れる釈迦堂川の一部で
2段の乙字になって阿武隈川に注いでいます。
画の中に芭蕉碑がありますが芭蕉は『奥の細道』で須賀川を訪れています。そこで奥
州俳壇の有力者、等窮(相楽伊左衛門)の家に4,5日滞在して「世の人の見付けぬ
花や軒の栗」の句を残しています。私の母は晩年俳句を習っていましたが宗匠は須賀
川の人でした。伝統が残っていると言えるのかもしれない。現代人が知る須賀川出身
者はマラソンの円谷幸吉ですがオカリナを普及させた元祖の火山久(宗次郎が師と仰
いだ)も須賀川の出身です。今では事実はまったく知られず、いろいろと伝説に彩ら
れてしまいましたが、私は彼にまつわる伝説のほとんどすべてが作り話だということ
を説明できます。なぜなら彼は私の中学時代の音楽の先生だったからです。渡辺久三
郎という名が本名の型破りな先生で、本人の望みに従ってQ先生、あるいはQさんが通
称でした。
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森正之兄
連休はどう過ごされましたか。
小旅行から帰ってネットのページを見たら府中美術館の見学期の閲覧数が128になっているので驚きました。
実働の会員数は大幅に減っているはずですがそれ以前を含めても記録的な数字だと思います
美術展の紹介記事は短くて読みやすい(万人向き)のと添付写真も珍しくて悪くないとは思います。
しかし、真相は火山久、私にとってはQ先生、について貴兄が大量に添付してくれたリンクのせいではないかと推測しています。
貴兄のご意見をお聞かせ願いたいと思います。
大島昌二
6
shoji oshima2025/05/09 18:07
森正之兄
在職は私の記憶では中学1年(昭和23年)の2学期から2年(昭和24年)の1学期頃まででした。 レコードコンサートのプログラムは今も手許に保存してあります。 放課後に指名した生徒を10人ぐらい集めてレコードを聞かせてくれたのです。 シューマンのトロイメライが会の主題曲、ほかにはシューベルトの「魔王(エルケーニッ
豊かな情操教育の環境が福島県にはあったのですね。
私は東京都港区の私立高輪中学校に預けられていましたが、音楽の先生から何を学んだか全く記憶にありません。試験に「荒城の月の歌詞を書け」というのが出題されたのを覚えています。
公立の新制中学校は未だ建設されず、近くの私立中学校に預けられていました。
ただ、その高輪中学校は、四十七士の墓のある泉岳寺境内にあり、私の家は泉岳寺の山門の隣だったので、始業のサイレンが鳴ってから家を飛び出しても授業に間に合っていました。家の斜向かいは駐留軍将校家族が住んでおり、山門は常時カービン銃を肩に掛けた兵士が警備していました。
many thanks!
shoji oshima2025/04/30 11:34
「かっこいい油絵」にたくさんのリンクを加えてくれて有難う。 写真の添付具合も良くできています。 80人を超すviewer が記録されていますがこういう写真入りの記事がよく読まれる のですね。 リンクの「須賀川市」をおしてその中の「須賀川牡丹園」を押して見てください。 私はここへも乙字ヶ滝と同じように遠足で行きました。
オカリナを普及させた元祖の火山久(宗次郎が師と仰いだ)も須賀川の出身です。
今では事実はまったく知られず、いろいろと伝説に彩られてしまいましたが、
私は彼にまつわる伝説のほとんどすべてが作り話だということを説明できます。
なぜなら彼は私の中学時代の音楽の先生だったからです。
渡辺久三郎という名が本名の型破りな先生で、本人の望みに従ってQ先生、あるいはQさんが通称でした。
**************森
Q先生が栃木県にオカリナ工房を建ててオカリナを作り始めたのは、先生が何歳くらいの時ですか。
火山久先生の工房は栃木市の山の中の一軒家だったけれど、先生の後継者の工房は少し里に下りてきているようです。
今朝の下野新聞に5月4日のオカリナ大会の記事が大きく出ていました。20年続いているそうです。
火山久先生はwikiに無いので、ネットで先生の情報を探しましたが、見つかりません。残念です。
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2025年4月30日(水) 11:34 shoji oshima <oshima3@work.email.ne.jp>: