NHKの大河ドラマは,残り数回になった.
前々回は覚馬の妻が不祥事で家を追い出される話であった.
徳冨健次郎(蘆花,明治元年ー昭和2年)の著書「黒い眼と茶色の目」に,その「経緯?」が描かれていることを知った.近代デジタルライブラリーで読むことができるので,オンラインで読んでみたがスキャンの質が悪く読みにくい.山下家(山本家)について書かれている部分[其一(五)山下家]をダウンロードしたので,問題の部分を紹介したい.なお,画像の汚れやコントラストを調整してノイズを減らし読み易くした.
文章に出てくる山下勝馬(山本覚馬),協志者(同志社),飯島先生(新島),お多恵さん(八重),時代さん(時栄),お稲さん(みね),壽代さん(久栄)などは実名で読み替える必要がある.又雄(時雄)さんの阿父(赤井)沼南先生は,時雄,横井小楠の関係
お稲さん壽代さんの実父山下勝馬さんは,今年六十歳,両眼盲ひ脚萎えた不自由な躰を河原町の暗い奥の間に寝たり起きたりして,名士と呼ばれて居た.会津の藩士,佐久間象山の砲術の門人,大砲頭取となって元治元年七月長州兵が禁闕に迫ったのを,蛤御門に打破った当年の勇士.慶応の末年眼病で失明し,維新の際は一方会藩の士を諭し一方朝廷に会藩の為弁疏せんとして,薩兵に捕へられ,一時入獄の身となったが,獄中意見書を草して岩倉具視に識られ,又雄さんの阿父の沼南先生が参与の職で退朝の途を寺町で刺客の難に果敢なくなった明治二年に,新政府に抜擢されて京都府の顧問になった.明治八年には新帰朝の飯島先生と意気投合して共に協志社を起し,脇差をさしたり,薙刀を提げたり,女人隊の活躍した会津落城に「明日よりはいづくの誰か眺むらん馴れし御城にのこる月影」と云ふ歌を城壁に題して烈婦の名をとった妹のお多恵さんを先生に妻あはせ,其後は京都府会議長として,府知事の顧問,当代の山本勘助と云われて,智嚢(ちのう)の名が高かった.最早其頃は山下さんの懇望,飯島先生夫妻の肝煎で,名家の子と名家の女の間に婚約は定つて居て,敬二はまだ協志社の聖書級(バイブルクラス)に居た又雄さんが諸友を催ほして山下家に話聞きに往く毎に皆にからかはれて居た事を覚えて居る.
お稲さんの実母は,其時最早居なかった.起居に不自由な山下さんの介抱は,壽代さんの生母時代さんがして居た.
時代さんはもと鴨東に撥(ばち)をとって媚を売って居た女の一人であった.幕末から明治にかけて,政治運動の中心であった京都に続出した悲劇喜劇に,地方出の名士に絡むで京美人はさまざまの色彩を添へた.其ある者は,契った男の立身につれて眼ざましい光を放った.眼こそ潰れたれ,新政府に時めく薩長土肥の出でこそなかれ,人々の尊敬も浅からぬ名士の山下さんを,時代さんは一心にかしづいて,二十一の年壽代さんを生むだ.壽代さんが生れた翌年山下さんは跛になっった.時代さんはますます実意を見せて,寝起きも不自由の夫によく仕へた.
惣領のお稲さんが又雄さんに嫁いで,家督ときまった壽代さんが十四の年,山下家では養嗣子にするつもりで会津の士人の家から秋月隆四郎と云う十八になる青年を迎えた.青年は協志社に寄宿して,時々山下家に寝泊りした.時代さんはまだ35歳で,勝馬さんは最早60歳が近かった.時代さんはわたしが十七の年生んだ子に当ると云って,養子の隆四郎さんを可愛がった.
そのうち時代さんは病気になった.ドクトル・ペリーの来診を受けたら,思いがけなく妊娠であった.一旦 帰りかけたペリーさんは,中途で引き返して来て,上り框から声高に,「おめでとう,もう五月(いつつき)です」と云った.声が山下さんの耳に入って,山下さんは「覚えがない」と言い出した.山下家は大騒ぎになった.飯島家と能勢家はその処分に苦心した,相手はすぐ養子の青年と知れた.時代さんは最初養子を 庇ってなかなか自白しなかった.鴨の夕涼にうたた寝して,見も知らね男に犯されたと云った.その口実が立たなくなると,今度は非を養子に投げかけた.最後 は自身養子を誘惑した一切の始末を自白して,涙と共に宥免(ゆるし)を乞うた.永年の介抱をしみじみ嬉しく思った山下さんは,宥して問わぬ心であったが, 飯島のお多恵さんと伊予から駆けつけたお稲さんとで否応なしに時代さんを追出してしまった.時代さんは離別となって山下家を去った.養子は協志社を退学し て郷里に帰った.離別がきまると,時代さんは自分のものはもとより壽代さんの衣類まで目ぼしいものは皆持って出た.金盥(たらい),洗濯盥の様なものまで 持って出て往った.以下略
ドラマとすこし印象が異なるが,山下家(山本家)を含め,本自体が自伝的小説であることから,問題の部分だけがフィクションとは思えない.しかし,時代さんが京都を出ていくのはもっと後という指摘もある.山下家(山本家)の後半部分(49-61ページ)は近代デジタルライブラリーを参照してほしい.
なお,寿代(久栄)とお稲(みね)については次のように述べている.
気軽に尻軽に刎(はね)廻る唇の薄い妹の壽代(久栄)さんに引易(か)えて,異腹(はらちがい)の姉のお稲(みね)さんは眼も大きく唇の厚い重くるしい感じの人であった.
(2013.11.21)