菊池武光公騎馬像

菊池武光公騎馬像

平成17年,崇城大学に薬学部が新設された際,隣接キャンパスの芸術学部学部長(副学長兼務)であった中村晋也先生から,医学の父であるヒポクラテスの胸像(文末資料参照)が学部に寄贈された.薬学部の発展と医療の原点を見つめる心を失うことがないことを祈念して,初代学部長(国枝武久)は学部長室に設置した.学科主任として学部ホームページの制作を担当していたので,さっそくトピックとしてトップページに胸像写真を掲載した.ところが,二年後に,中村先生は文化勲章を受章され,胸像写真は現在もトップページに掲載されたままになっている.

中村先生の作品としては,菊池武光公の騎馬武者像が菊池公園にあるので一度作品を拝見したいと思いながら,「近くだから何時でも見れる」という安心感が先行し,実物を見るのが今日(12月8日)になってしまった.

菊池渓谷方面へドライブする際は,いつも日田街道(城址を通り抜ける)を通っていたが,一帯は公園化されているため城跡という印象が少なく,通過することはあっても立ち寄ることはなかった.熊本城等の近世の城を見慣れているためか,石垣,堀,土塁などの存在にとらわれ過ぎて,中世の城(山城)の特徴を理解していなかったと言った方が正確かもしれない.

騎馬像は,菊池神社参道脇の公園広場の一角にあった.元菊池市長の荒木修氏の時,「ふるさと創生資金」を活用して建立され,平成4年に完成した.

菊池武光騎馬像(参道脇公園)


台座を含めると10メートル近い像の下に立つと,実に見事な躍動感のある騎馬像である.後で写真を処理する段階で思ったのだが,本騎馬像の迫力を画像で再現することは無理である.

ところで,肥後三賢人のひとり,武光の父親である菊池武時の事蹟については,安達謙蔵(「三賢堂の建立」の項)の講演内容を紹介した.武時の騎馬像も菊池神社に建立されているが,武光像は大きさ,動きにおいて数段勝る作品である.14世紀の中頃,小弐氏の支配下にあった大宰府を奪取し,新たに「征西将軍府」を開設するために,菊池一族の本拠地を出陣する雄姿を表現したものと云われている.


菊池神社武時、武重、武光の三公を顕彰祭祀)

延久2年(1070年)後三條院の御代,藤原則隆(「隈本と熊本」でも触れた)が,太宰府から菊池郡に下向し,この地で菊池姓を名乗って以来24代,菊池家は約500年にわたり続いた.菊池一族が南北朝時代に本城としたものが菊池城である.菊池一族は,文武共に秀で,元弘の変や南北朝の動乱で,その後の歴史を左右する活躍をした.

特に,12代武時は「建武の中興」の功労者として世に知られている.1333年(元弘3年/正慶2年),後醍醐天皇の綸旨を受けて、博多の探題(北条英時の館)に討ち入ったのが,少弐・大友の協力が得られず,頼隆(子),隆舜(子),寂正(義弟)らと共に戦死した.このことが倒幕運動のきっかけとなり,2ヵ月後に鎌倉幕府は滅亡し,6月に後醍醐天皇が「親政」を開始した.

13代武重は「寄合衆内談之事」という民主主義的合議制に基づく「菊池家憲」を定めた.さらに,足利尊氏討伐の折に考案した「菊池千本槍」の伝承でも有名である.注)武器が無くなり,短刀を6尺竹の先につけて戦い,足利勢を敗走させた.

15代武光は征西将軍官懐良親王を菊池城に迎え,1361年に大宰府を占拠,1363年に征西将軍府開設し南朝の要とした.

現在の菊池神社は, 明治3年菊池城本丸跡に,武時、武重、武光の三公を顕彰祭祀するために建てられた.注)戦時中は軍神的存在であった.


ところで,肥後史を調べる過程で,500年にわたり菊池一族が拠点とした菊池平野の歴史,文化を理解するためには.菊池地域の風土を知る必要がある.熊本から日田街道に沿って菊池へ向かう途中の(花房)台地から菊池平野へ下り始める地点から眺める菊池平野,さらに遠く玉名側へ広がる景色は雄大である.それとは反対側の低い丘稜に在る菊池神社(菊池城の跡)に登って山を背にして平野を眺めると,城を構え都市を形成するのにうってつけの土地であることが容易に理解できる.

菊池平野は,阿蘇外輪山の西に源を発し玉名市をへて有明海に注ぐ菊池川(主な支流だけでも5本を有する)が走る肥沃な平坦盆地であり,熊本平野,八代平野とならんで地域特有の歴史と文化を育む条件を備えている.

Google地図を地形に切り替えて広域にして見ると分かりやすい.

有明海から阿蘇カルデラを含む広域図(切り取り図)

広場から見える小高い丘は,菊池武光から武敏の時代にかけて築城された「隈府城」,「守山城」(「雲上城」)の本丸,二の丸,三の丸のあったところ,現在は本丸跡に「菊池神社」があり,二の丸,三の丸は「城山公園」になっている.


平成25年12月8日の紅葉(参道脇公園から)

石段登り口

神社本殿の左手の小高い場所に「菊池本城本丸跡」の碑が立っている.その碑の左側には二段の石が積まれた碑がある.これは博多の探題襲撃の際に武時と共に戦死した頼隆(息子)の逆襲碑と云われている.

菊池神社

「菊池本城本丸跡」の碑と三男・菊池頼隆の逆修碑(左)

参考資料

ヒポクラテス胸像 制作者 中村晋也

中村晋也氏の経歴

  • 1992年(平成4年)鹿児島大学退官、名誉教授となる。

  • 1994年(平成6年)日本彫刻会理事長となる。

  • 1996年(平成8年)中村晋也美術館を鹿児島県松元町(現鹿児島市石谷町)に設立。

  • 1999年(平成11年)崇城大学副学長、芸術学部長。勲三等旭日中綬章受章。

  • 2002年(平成14年)紺綬褒章受章、文化功労者、

  • 2007年(平成19年)文化勲章受章。筑波大学名誉博士。日展顧問。


関連リンク

大刀洗遺産 - 菊池武光銅像 / れきしびじょん - 大刀洗町

菊池武光 大保原の戦い

福岡市 菊池霊社

菊池武時 - Wikipedia

菊池神社 | 文化財情報検索 | 福岡市の文化財

菊池観光協会 - 菊池十八外城

菊池一族の歴史年表


(2013.12.31)