手永制度

手永制度

旧藩時代の熊本を語る時,「手永」,「手永制」について知っておく必要がある.

熊本藩年表稿(細川藩政史研究会編)に「手永」という言葉が出てくるのは,嘉永11年(1634)である.家光の治世,肥後は忠利の時代である.

嘉永12年の項では,「手永の名称多くみられ、領内では一般的となる(県立図書館 蔵地撫帳)(県史・資料)」と記されている.

熊本藩年表稿の全ページについて「手永」で検索すると,約600件ほどヒットする.

実例を以下に示す.地域のお知恵拝借,労役,救済,願と許可等が手永単位の対応であることがわかる.


◯寛永14年 (1637)丁丑(家光)忠利 絵地図書き人徴用

11.18 天草一揆衆ら、富岡城を攻撃するも落城せず(天草譜)(耶蘇記)。 芦北郡各手永より、天草絵地図書きを2名宛出すことを命ず(徳富)。

◯万治元年 7.23改元(1658)戊戌(家綱)綱利 灌漑用水路の工事

2月 益城郡やばの村、上さぶた普請行わる。益城郡二手永より34,697人の夫役出る(玄察)

◯元文2(1737)丁巳(吉宗)宗孝 銅山採掘

10月 田浦手永大河内村銅山掘方に付鉄道具拝借願(年覚)。

◯宝暦3(1753)癸酉(家重)重賢 惣庄屋の任命

2.24 池田手永京町村四郎助、惣庄屋となり横手五郎左衛門と改む(覚)。 田迎幸助惣庄屋御免、後任決定まで手代が代役(覚)。

◯明和4(1767)丁亥(家構) 重賢

7月 沼山津手永木山町より竹宮村の問に御腰掛1ケ所建設に付その場所を定む(年覚)。

◯明和8(1771)辛卯(家治)重賢 多数の出願・許可の記載がある

9.27 佐敷手永白木村のうちに金山らしき所あり、願により自勘にて試堀を許す(年覚)。

此年 甲佐手永船津村より堤堀添えの事願あり許可(覚)。松山手永立岡村新しく堤を築きたく出願許可(覚)。田手永永津留村より新たに井手1ケ所堀たく出願につき許可(覚)。

◯安永4 (1775)乙未(家治) 重賢

4.14 池田手永島崎村のうち日向崎に御腰掛(休息所)出来る(肥)。

◯安永5(1776)丙申(家治) 重賢

八代郡野津原手永の村々は零落甚しいので宝暦6~安永4年迄の20ケ年間に毎年465石余の救米を与え、本年からは救銭170貫目余渡す外に、悪田作治仕法を適用して救米と諸公役米免除合計371石6斗を毎年与えることにする(熊史24・鹿子木量平「御奉公実紀」)。

◯天明6(1786)丙午(家治・家斉)治年 庄屋リコール

4月八代郡種山手永北種山村にて庄屋排斥の騒動、翌天明7年7月3日判決(肥後藩の政治)。 遠坂関内奉行副役となる(本)。

内田手永下社村分村を出願(覚)。

◯寛政3(179t)辛亥(家斉)斉妓 金鉱採掘

9.14 矢部手永長田村にて金鉱採堀(郷歴)。

◯天保3年(1832)壬辰(家斉)斉護 往還工事費用

内牧・坂梨両手永阿蘇谷往還筋道造費用について、此地方近年災害続きゆえ別段を以11貫目余5年賦無利足で拝借とす(年覚)。

◯天保8年(1837)丁酉(家斉・家慶)斉護 手永会所の備蓄による救民

深川手永窮民取救のため非常備より50貫目惣庄屋引受来暮まで拝借認む(覚).

矢部手永民食乏しく樫実5,000俵会所より賦つ(肥)。

◯嘉永5(1852)壬子(家慶)斉護 通潤橋の架設

12月 矢部手永惣庄屋布田保之助、通潤橋の架設に着手、安政元年 8月竣工(肥)。


「手永制」は,細川氏特有の行政区画で郡と村の中間に位置するものである.

手永制では,その地域の実質的な統括者である惣庄屋(そうじょうや)を,郡奉行の助役として,手永に任命し,政治,経済,軍事を,民間に委託して行なわせた.村は手永の下に置かれ,小庄屋(村庄屋)が地方を統治した.

細川忠利は,前任地である小倉藩時代から,こうした制度を導入している.手永制は単に郡を機械的にいくつかに分けたものではなく,地域の歴史的人的関係を十分に考慮したものであった.寛永九年(1632),肥後に入国した細川氏は,それぞれの地域に影響力を有する加藤,阿蘇,菊池,小西,島津,相良,大友の家臣等,戦国末の豪族の子孫,大庄屋などを惣庄屋にしている.惣庄屋は耕地を所有し自営しながら,一方では藩主より知行地を得て藩政機構の末端の支配者層に属する存在であった.

100年を経て,1747年(延享4年),8代目の細川重賢が領主に就いたころには,幕府への出費や工事の負担要請によって熊本藩は窮乏していたが,1752年(宝暦2年)の「宝暦の改革」の際は,手永制度を更に進めて,地方行政に直接かかわらないようになったと言っても過言ではない.手永の諸村願により御救米を下附したり,石炭掘方願,金鉱採掘,各種鉱山の採掘,御山伐採,檜の植林,樟脳製造,温泉の仕立,水車設置なども手永に許可を与える方式をとっている.御馬屋の普請,御茶屋修繕なども惣庄屋が行っている.

民間が必要とするものを民間にやらせることで,藩の予算を節約する代わりに,利益が出たら手永会所という役所に蓄えることを許した.その管理はすべて惣庄屋が行なった.橋をかけるのも,そのようにして蓄えた資産を利用した.嘉永5年に矢部手前惣庄屋布田保之助は通潤橋の架設に着手し,安政元年8月に竣工するが,手永制を活用した典型的な例である.熊本には,このような橋工事例は数多く存在するが,地域の人たちによって造られたものである.肥後には「肥後の引き倒し」という言葉があり,誰かが抜きん出ると足を引っ張り前へ進めないと云われているが,手永制では皆で協力して解決する気風が育っている.在地勢力である土豪と妥協しながら,農民の力を活用した細川氏の統治能力は注目に値する.天正15年(1578)九州征伐の手柄で肥後国を拝領した佐々成政は太閤検地を強行し,国人の反発を招き「肥後国人一揆」が起こった.成政はその責任をとり切腹させられている.細川氏が惣庄屋に土豪を任用した手永制は,このような歴史的背景を考慮した対応であったと思われる.手永制施行100年後には惣庄屋の地域依存性は薄らぎ,現代流の転勤が見られるようになる.

肥後藩の郡

12の(九重,鶴崎等の豊後地区の領地を除く)で構成

飽田郡、詫摩、宇土、益城、八代、葦北、山本、玉名、山鹿、菊池、合志、阿蘇


飽田郡(熊本市中心部を囲む地域)を例に手永制の変遷をみると,

加藤藩時代は,郷組制であった.当初の10組は,翌年の寛永14年には5手永に統合されている.

坪井源右衛門 京町太郎右衛門 五町甚右衛門 島崎次郎介 横手又右衛門

横手五右衛門 嶋五郎左衛門 権藤次郎右衛門 権藤源左衛門 銭塘与兵衛


寛永12年 9名で統治,

→寛永14年 5手永 統合

→正保元年 5手永 統合 組み換え(完成期,1644)

→延宝8年 4手永 統合 組み換え


藩政の整理期(宝暦)には4手永になった

五町手永 35村 立田,弓削,陣内,壺井,室園,柿原,鹿子木,河内,岩戸,釜尾村等

池田手永 33村 京町,池田,徳王,井芹,牧崎,島崎,谷尾崎,高橋,松尾村等

横手手永 30村 横手,戸坂,筒口,春日,田崎,阿弥陀寺,宮寺,古町,八島村等

銭塘手永 33村 河尻,野田,南中牟田,銭塘村等

明治時代の熊本市(白川と坪井川に挟まれた部分と熊本城周辺)

飽田郡は北側,西側,南側に位置する.東側白川対岸の大江村は飽田郡ではなく,詫摩郡本庄手永内の村である.

最初100を超えた手永(その前身である郷組は150以上)は,統合,組み換えを経て幕末には51存在した.


参考資料

熊本藩年表稿 熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System

◯惣庄屋の石高

熊本藩年表稿の寛永15年 (1638)戌寅(家光)忠利の項に次の記載がある.

7.4 惣庄屋のうち特に由緒ある者 61名に、 150石~20石の地方知行を与える(郡文)。 6 芦北郡惣庄屋田浦 助兵衛・水俣吉左衛門、五二手永惣山二五町甚右衛門知行150石宛行わる(郡 文)。 7 芦北郡二見乱淫五右衛門尉、惣庄屋給として二見村30石を宛行わる (県中・鳥井)。 同じく大津村斎藤喜兵衛も30石宛行われる(忌中・斎藤)。

◯熊本大学学術リポジトリ 松本寿三郎,「豊後国速見郡由布院の村落構造 一 近世初期細川藩にお ける農村支配 : 「手永」の成立を中心として」1962年

熊本県市町村合併史(三訂版)第3章 近世の地方制度 - 熊本県庁

(2013.9.6)