祖父の足あと(明治30年代 )

祖父の足あと(明治30年代 )

明治9年の秩禄処分断行の後,明治政府は旧士族の生活維持のためいろいろな施策を施した.しかし,政府の方針に不満を持つ士族は各地で騒乱を起こしたが,西南の役の敗北で反政府運動は終止符が打たれた.役後,明治政府は財政窮乏の中,家禄奉還者に一時賜金・秩禄公債(起業資金)の交付,屯田兵制度による北海道開発等の救済策を実施した.蜂起に参加した者達は逆賊扱いをうけて出世の道は絶たれ,その後の生活に苦労したはずである.

我が家の曽祖父,祖父も例外ではなく,両人共,村政(嶋崎村)に関与していたということを伝え聞いた程度で詳細は不明である.祖父は父が2歳の時に早世しているので,父の書き残した記録は物心が付いた後に母親等から聞いたものである.

NHKの「ファミリーヒストリー」に刺激されたわけではないが,殆ど情報のない祖父(父方)のことが気になり,父が書き残していた資料(手帳)に書かれている「県農会の幹事」を手掛かりに国会図書館で調べてみた.

「熊本県農会,明治」で検索した結果,熊本県立図書館に農会報第2号(明治34年)と第6号の複写版が2冊だけ存在することが分かった.当館にはインターネットで読めるデジタル化資料は存在しないので,全国の複数の図書館を横断検索できるサイトを頼りに調べたところ,各県の農会に関する資料は独立行政法人 農業環境技術研究所図書館のデータベースにデジタル化資料 (PDF) として集められていることが分かった.そこまで辿りつくのにたいへん苦労したので今後のためメモを取っておいた(付記).

熊本県農会報は53件ヒットするが,祖父が県農会に籍を置いていた時代(〜明治40年まで)のものは6件だけであった. 本データベースは,目次や主なキーワードが抽出され登録されていないため,すべての画像資料を目で追うしか方策がない.他の公共図書館では類を見ない全ページ画像データベースであるので,国会図書館並に主な内容が判るような(目次,主要項目付加)方式にしてほしいものである.

スキャンされた農会報の記事中に祖父の氏名を求めて全てのページを目で追ってみたが発見することができず,半ば諦めかけて目次や巻末の奥付を見ると印刷所 九州日日新聞社(熊本日日新聞社の前身)の横に「編輯兼発行者 飽託郡嶋崎村千二百六十五番地 原野一男」と書かれていた.住所も熊本市に編入される前の先祖が住んでいた屋敷のそれであった.今回探し当てた第3号(明治35年)から第8号(明治37年日露戦争開戦年)まで,すべての編輯・発行者となっていたことが判った.

そのことを知って改めて記事を見ると祖父が従事していた仕事の内容が次第に見えてきた.

明治37 (1904) 年2月発行の熊本縣農會報の表紙と巻末の奥付

データベース名:

AgriKnowledge

農林水産省 農林水産技術会議事務局筑波事務所

Tsukuba Office, Agriculture, Forestry and Fisheries Research Council Secretariat

県農会は県下26郡町村の系統農会(議員数27名,内評議員5名)を束ねる形で,当時県庁が在った南千反畑町に本部を置いていた.掲載されている決算報告の記載内容から事務組織は会長,副会長,幹事,書記,小使で構成されており,国の補助金,各支部からの会費を用いて農業の改良,発達,農業従事者の福利増進をはかるため会報を発行していたことが分かった.さらに,事務方の俸給決算報告から判斷し,会長,副会長は名誉職的な存在であり,幹事が実質的な責任者であることが分かる.

明治43年熊本県産業便覧によると,「明治29年(農会令発布前)既に系統的に県郡町村に農会を組織し,県農会事務所を県内務部の内に置きていたが,明治33年農会令実施の際に,之を継続し,事務所を県物産館内に移した.爾来,漸次発展し普通農事を主とし,副業には蚕桑の業及び園芸事業を奨励し,兼ねて耕地整理の調査設計を行っていたが,明治41年度より耕地整理を県庁に移し,更に普通農事の奨励事項を拡張し着々其の功を奏しつゝある」と書かれている.

広報は,論説,統計,農会,雑報,法令,会告,広告等で構成されていて,年2回発行され,当時唯一の地方との聯絡手段であると書かれている. 会報の最初には,毎号数編の論説が掲載されている.当時帝国大学農科大学教授(後に東京農業大学初代学長)で,後に「近代農学の祖」と言われている横井時敬(横井小楠の流れを汲む)によるものが四篇見受けられる.

熊本縣農會報 論説 農学博士 横井時敬

第参号(明治35年1月6日)論説 地主の前途

第四号(明治35年5月20日)論説 小作人問題

第六号(明治36年4月24日)論説 今日の社会事情と農界肥後の方針

第七号(明治36年8月30日)論説 肥後の経済策に就きて

横井は,農村人口の都市への流出による農村の荒廃,農界の地主が都会地主的に一攫千金を夢見て投機的振る舞いをする等を憂い警告を発しており,現代に通じるものがある.又,「熊本の如きは工業を起すべき土地であるまい,余は之を理想に近い学校町であると公言している」とも述べている.祖父は編輯兼発行者として,彼の考えに接し,大いに啓蒙されたものと思われる.戦後,熊本県は豊富な水を餌に各種の企業を誘致してきたが,必ずしも成功したとはいえない.昨年来話題になっている大手半導体工場の撤退はその典型的な例である.最近,県は熊本大学と連携して「学園都市構想」を打ち出しているが,百年前に先人が出した答えである.

日露戦争開戦直後に発行された第8号(明治37年2月27日)では,全国農事会からの檄文「農界ニ檄ス」が掲載されている.また,県農会は出陣軍人の家業の補助や開戦による大豆粕肥料輸入杜絶に対する対策を促している.

祖父は第八号を発行した3年後の明治40年に,13歳の長男(20歳で死亡)と2歳半の父(三男)を残して37歳で早世した.我が家には茶色に変色し汚れた写真一枚(おそらく昭和28年水害で被災した)と「書」を表装した掛け軸二幅が残っている.紋付羽織を着た仲間達(総勢31人)と写っているが,今回の発見から,おそらく農会議員27名との集合写真と考えることができる.新しい時代が到来し,農村の発展に尽くそうと努力する中,知己も増えこれからという時に病に倒れ無念であったであろう.

付記)

父の手帳には,「東京遊学」も書かれているが,現在のところ手掛かりがない.

熊本県立図書館に県政資料として,熊本県農会報第2号(複写版), 熊本県農会通常会日誌 明治34年度が残っていることがわかった.

検索過程

二度と検索できないようなルートである.

Webcat Plus(熊本県農会で一致検索) → 検索結果の選択(発行年の無いものを選択) → 表示結果のNCID CiNii Booksで表示 → 表示結果から独立行政法人 農業環境技術研究所 広報情報室を選択 → 利用方法URL:http://www.niaes.affrc.go.jp/ → 図書館利用案内 → 図書資料の検索 → AGROPEDIA → AgriKnowledgeを選択 → AgriKnowledgeで検索 (同一名図書が複数存在)


参考資料

農会(のうかい)

農会法によって公認された農業団体.町村・郡・府県と系統的に設けられたことから,系統農会とも称される.

1899年,農会法によって農業団体として公認される.

1910年,系統農会の中央機関として帝国農会が法制化された.

1922年,新農会法の施行,会費の強制徴収が可能となる.

1943年,産業組合などの農事諸団体とともに農業会に統合された.


横井時敬(よこい ときよし/じけい)

安政7年1月7日(1860年1月29日) - 1927年11月1日)農学者・農業経済学者、東京帝国大学教授・東京農業大学初代学長である.「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という言葉を残している.

肥後熊本藩士横井久右衛門時教の4男.父時教は横井小楠の高弟.明治4年熊本洋学校に入学,アメリカ人教師ジェーンズの助手として勉学に励んだ.明治11年9月駒場農学校農学本科(東京大学農学部)を首席で卒業. Wikipediaより引用

明治43年熊本県産業便覧

明治29年(農会令発布前)既に系統的に県郡町村に農会を組織し県農会事務所を県内務部の内に置きしが明治33年農会令実施の際之を継続し事務所を県物産館内に移せり爾来漸次発展し普通農事を主とし副業には蚕桑の業及び園芸事業を奨励し兼子て耕地整理の調査設計を為せしも明治41年度より耕地整理を県庁に移し更に普通農事の奨励事項を拡張し着々其の功を奏しつゝあり而して同会の経費及び事業の成績は左の如し 以下省略

AgriKnowledge(アグリナレッジ)

農林水産研究総合ポータルサイト「AGROPEDIA(アグロペディア)」で提供している各コンテンツや,外部の情報も含めて効率的に迅速にアクセスできるように,検索機能を強化した統合検索ツールの名称です.今回の場合, 時代に応じて再発行されているため,同じタイトルが複数存在し,絞り込みの際に混乱した.

(2013.3.5)

追記)

明治35年1月6日発行の第3号の目次