渡邊玄察日記
(項目別年譜)
渡邊玄察日記(項目別年譜)
渡邊玄察の「渡邊建長以来之故事(渡辺先祖以来今事記)」によると,玄察は18歳で「三社の社職を受取」と書いている.早川厳島神社については,「渡辺先祖以来今事記」や「早川故事」の中で早川三社のひとつとして詳しく書かれている.「早川故事」の冒頭には,三社について次のように書かれている.
肥後国益城郡甘木之庄半済早川付三社と奉申候は厳島明神熊野権現天満大自在天神是を三社と奉申候
肥後の國益城郡甘木の庄の半済(年貢の半分を徴収)早川の三社と言うのは厳島明神,熊野権現,天満大自在天神の三社のことである.
渡邊家が神主を務めるようになった経緯については,「渡邊建長以来之故事」の中に,建長5年(1253年)阿蘇51代之神主惟國益城矢部菅の城住みであった渡邊近江守秀村に早川に新城を築き治めさせたと書かれている.以来,武家である渡邊家は益城の早川三社の大宮司も仰せつかった.
時代は下って江戸時代初期,渡邊玄察によって建長以来の故事が整理され後世に伝えられた.遷宮地視察に訪れた郡奉行弓削太郎右衛門に神社の由来等を説明したことなどが,玄察日記(年代記)にも記されている.
玄察日記の記載事項を大まかに区分けすると次のような項目に分けることができる.なお日記中長文にわたる部分は簡略化した.
当地の状況 村,隣村の様子,天候,災害,行事,流行病,作況,寺社,祭礼,村民の名前をあげて記載
熊本の状況 全般 藩主参勤 寺社の動向 火災
江戸の状況 江戸屋敷 明暦の大火 生類哀之御ふれ 浅野内匠守の事件
京都の状況 地震 洪水 火災 噂話
長崎の状況 切支丹 島原の乱 南蛮船事件の詳細
幕府の動向 将軍家,御沙汰 貞享三年生類哀之御ふれ
藩主の動向 甲佐地区との関係,御上使 御國廻
給主の動向 御能
早川神社のこと
近隣寺社の様子 熊本の寺社を含めた祭礼,修造,勧進
村人の様子 災害,作況,流行病など
以下主な項目について流れが判るように年譜にした.
藩主の動向
上使,国廻の動向
給主の動向 知行
甲佐との関係 やな等 甲佐川の鮎,甲佐谷での鷹狩など
作況 虫害 旱魃 飢饉 主要穀物の相場 100銀で買える米の量
流行り病 疱瘡 はしか ほおばれ 悲惨な流行病の様子
地震,噴火の項
「寛文三年高来温泉山動揺して」について
高来は音来の説あり.
温泉岳は普賢岳のこと
祭礼
周辺寺社を含めた雨乞いのための祭礼多数
お能
熊本藩家老が催す能の見物(演目,舞人の詳細)一例を以下に示す
明暦改元年 此年之四月八日に長岡監物殿下屋敷にて能御座敷を見物仕候覚
高砂 道成寺 兼平 監物殿
谷行 籠太鼓 山姥 唐船 楊貴妃 伊織殿 中村伊織は能の達人,教える立場であったことが判る
うたう 源太郎殿 呉羽 千太郎
付録 文字データ
藩主の動向
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寛永 九年 六月 加藤肥後守忠廣様出羽之国へ御流罪に御逢被成候
十一月 細川越中守光(忠)利様御當國被遊御拝領豊前之國より當御國へ被遊御入国候
十八年 (編者云十一月當作十月 光當作忠)
正保 四年 越中守光利様御逝去 肥後守光尚拝領
長崎へ南蛮船着船 當藩からも陣立
慶安 元年 大船長さ二十五間舟のあつさ上にて壹尺 ポルトガル船の長さ25間
二年 御太守様御国廻
三年 細川光尚様江戸にて御逝去(追腹の氏名記載)
承応 二年 六丸(綱利)改易なし 若すぎて改易寸前であった
明暦 三年 六丸様越中守綱利様に御異名
萬治 三年 江戸城石垣普請
寛文 元年 太守様御座船横四間長サ十八間に川尻にて被成御作候 肥後藩主の舟の長さ18間
四月廿八日 太守様御入国 恐悦歓喜 上下三千人
六月 六日 御入国御祝之御能花畑にて御執行
三年 此年太守様度々河狩 綱利は川狩が好きだった
太守様松平讃岐様之聟御に被遊御成候
四年 太守様麻生原村下之川原に御河狩被成御座候
五年 三月 太守様大津山にて鹿狩日仰付候
六月 細川左京殿御新知貳萬石御拝領
七月十日太守様山出前川に御河狩
初秋太守様豊内へ御河狩
九年 此年より豊後ひたくすの天下御領當太守様に御預けなされる
十一年 十月太守様従江戸被遊御着座候
元禄 十年 此年八九月中に四度 太守様甲佐御やなに彼為成候
綱利公官位昇進 少将様と奉申候
十一年 此年御國絵図被成御取候
三月四日太守様豊前国小倉より御船にめされて御発駕
十三年 興一郎様水戸様之聟御様に被遊御成御国中上下萬民奉恐悦候 水戸藩との縁談成立し皆喜んだが翌々年他界
十四年 興一郎様御他界
浅野内匠頭殿吉良上野殿殿中にて喧嘩 内匠殿之御舎弟も被成御預候
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上使,国廻の動向
給主の動向 知行
甲佐との関係 やな等 甲佐川の鮎,甲佐谷での鷹狩など
作況 虫害 旱魃 飢饉 主要穀物の相場 100銀で買える米の量
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寛永 十三年 大きゝん銀百目に米八斗大麦三石粟二石八斗 1600年初頭は1石20銀,中頃は40銀に高騰した
十七年 さねもりといひならはし候むしでき候て田をくひからす従公儀むしおひおどり被仰付御惣庄屋村々手永ぎりぎりにもあひ候て
色々のしたくにて道をそここゝおどりまはりたいこかねをうちひやうしをそろえおどりありき申候見物事
十九年 天下一同に大きゝん銀百目に米八斗五升粟二石
慶安 二年 之九月中旬比より明る四月迄一日間に雨降り大小麥あしく銀百目に大麦四石小麦二石
慶安 四年 此年之暮に銀百目米貳石粟四石大麦四石五斗
萬治 元年 此年の暮に銀百目に大麦四石小麦二石米二石二斗粟三石
二年 此年きゝん春銀百目に米一石七斗大麦三石八斗小麦二石八斗粟二石七斗
此年大豆高し銀百目に二石 此年米たかし
三年 九月比米大豆高直銀百目に米壹石七斗大豆二石
寛文 元年 米下直とよろこび銀百目に二石
三年 田畑不作七八十年に無之と老人共申候
九年 此年田畑之作わろし
十一年 此年田にむしいりほかれいたし候
十二年 此年田にはむし大分おゝし
延宝 八年 大きゝん餓死多し 熊本御城下町で飢人にかゆの炊き出し
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流行り病 疱瘡 はしか ほおばれ 悲惨な流行病の様子
寛永十四年 ほうそうはやるなべぼう丸も此年疱瘡いたし候
寛文十九年 ほうそうはやる當所中に四十余人の小児共ほうそういたし候に其内廿人死す 疱瘡死亡率50%
春秋當所向ひ川原之道をよなよな女の聲にて上り下りなきさけぶ然處に其秋より痘瘡はやりふゆにかけて右之通に廿人死す
けい事と後々さたいたし候
慶安 三年 痘瘡はやる當村かろし
明暦 元年 ほうそうはやる
三年 方々狂病はやる
萬治 二年 疫病はやる
寛文元年 此年之冬疫病流行ほうばれ多し
二年 六~十一月中方々大疫病流行
三年 當南早川中に82人疫病人有内孫左衛門娘甘酒餅をくひ令食傷卒死共外81人自分薬治候にすきと令快気候 集団食中毒
疱瘡流行當村は去十月よりほうそういたしはじめ候
夏秋大疫病流行
八年 疱瘡流行
九年 はしか流行老人もはしかいたし候
十二年 此年おこり痢病はやる
延宝元年 此年女のしわがれ聲にて春夏の間向ひ川原其外にも當所にかぎらずなく聲きこゆる
此年おこりあかはら(痢病)白はらのやまい流行
元禄四年 此の年はしかにて小児共多く死す
八年 此年ほうほうはやる
十三年 此年疱瘡はやる當所へ疱瘡児七十余人内五人死す
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家畜 狂病 牛の病
寛永十六年 此年天下一同にうしことごとく死す 狂牛病的な記述
寛文十二年 此年の八九十十一十二月明る六月迄に牛ことごとく死す
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天文 ほうき星 流星
萬治 元年 正月三日の夜より丑寅の方に赤雲毎夜立つ
十一月九日いぬの時に東の方より火いで候て西の方にとふ空中よりいで空中にいる UFO?出現的な記述
萬治 二年 十二月極日子の刻に東より西の方に火飛ぶ
寛文 四年 此年之九月よりほうきぼしいづるひかり西の方にさす後には又ひがしにさす
延宝 元年 九月廿一日寅刻に火玉東より西へとぶ
七年 ほうき星四五夜見ゆる
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災害 噴火 地震 気候 大雨 洪水 雷害 旱魃 火災(熊本城下 江戸 京都 長崎 鶴崎)
大風 (多くの記載あり)
寛文 五年 五月十二日より同廿一日迄南風ふく同廿二日大雷大水
七年 四月廿三日希有之大風
八年 春中に大風三度同二月四日猶大風
九年 八月十一日より十二日迄北東之大風
延宝改元年 六月八日土用之中大風ふく
二年 八月十九日大風ふく
四年 七月三日に大風ふく
承応 二年 八月五日未の刻より大風 古今無双之大風 いわはり風 幅広い岩も吹き割る風
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水害 (毎年のように襲来)
正保 元年 六月大雨大洪水小川町ことごとく流れ死人多し
萬治 元年 五月十二日大洪水
六月廿七日夜大風 大雨洪水 鵜之瀬 有安村之前川ともきるる
寛文 四年 四月大水折々洪水 五月三日大雨大水
夏御船川希有の大水御船町中ほどより下町に水あぐる
七年 五月二日大洪水
九年 六月十八日大洪水(早川村,糸田村,上豊内町,大塘七ヶ所切れ候)
八月十二日の晩大洪水六月之大水にひとし
延宝改元年 五六月折々洪水
三年 四月中に大洪水
四年 四五月数度大洪水
元禄十二年 當国北目大洪水大津町がしらのどて山水にてきれ町にそんずる同所御惣庄屋其洪水町にて水死南目は少洪水
右之大水熊本古町に三尺水揚る 大津水害と熊本古町の水害・・・・平成24年熊本水害と類似のケース
十四年 京都大雷大洪水(詳細記載あり)
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地震,噴火
承応 二年 此年あその御けふりあらし(1653)
寛文 元年 七月十日大なへゆる翌十一日迄中小ゆる事三度(天草灘)
二年 九月十九日之夜大なへ(日向灘,外所地震 )
京大阪大地震京都二条之御城も奉損候などゝ風聞仕候(若狭地震)
あそのけふりはなはだし 豊後九ぢうだけにけふりいづる(1662)
三年 十一月廿三日之夜寅卯の刻に高(音?)來温泉山動揺して翌朝煙見ゆる
五年 四月十日大なへ一日中に四度動く
延宝 三年 此年あその御十ふりあらし(1675)
元禄 四年 阿蘇のけふり前代未聞にあれさせられ候 五月日あそ中やみとなりひるたいまつをともす.降灰で昼松明(1691)
八年 四月大地震
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火災
承応二年 内裏御炎上
明暦元年 熊本坪井御侍小路に火事
明暦三年 正月十七八日江戸大火事焼死人十七萬人餘 振袖火事
萬治元年 正月又々江戸に大火事 三月廿七日さるの刻より同ゐの刻迄熊本坪井大
火事本家四百餘軒やくる
二年 いせ宮火事
三年 正月十四日江戸大火事
同月同日に尾張駿河御城下も火事と申候沙汰有
此年豊後鶴崎に大火事
寛文 元年 正月十八日より同廿日迄江戸大火事 内裏炎上二条通迄焼る
三月熊本坪井に火事
二年 十一月十三日之夜熊本古町火事同順正寺失火
同月十四日に同京町に少火事
三年 二月坪井火事五百餘家焼る
三月八日より同十日迄長崎火事二千九百一軒焼る三千餘人焼死
五年 四月七日熊本坪井手取に火事二千間焼くる四十餘人焼死
此の年藤崎宮社僧両寺火事
八年 二月江戸十の物八つほどの火事と令風聞候
三月十四日之夜熊本ゑんせうぐらに火入る
延宝七年 熊本山崎小路に火事
元禄元年 此春熊本坪井に火事
二年 熊本せんだんばたに火事出来致候
四年 熊本坪井大火事 坪井ひろ小路になる
十一年 四月長崎大火事
八月江戸大火事 當太守様御類火無し
(火災の多さには驚かされる.特に熊本坪井町)
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切支丹 踏み絵,豊後から長崎への移送状況 切支丹が大分から長崎へ送られる際,当地を通っていたのであろうか
寛永十四年 十一月より肥前国島原に切支丹謀叛を起す
十五年 細川光利守様御家侍陣佐左衛門殿うち候 天草四郎を討ったのは陣佐左衛門と書いている
萬治 三年 六月より十月迄豊後国に切支丹あらはれ数百人はこにいり長崎へ通る. 大分から熊本を通り長崎へ移送
寛文 元年 三月豊後より切支丹数人長崎へ通る
寛文 二年 夏大分切支丹豊後より長崎へ通る
八月豊後之内よりさつま金山へ参候て罷在候切支丹取に當村御給主中村伊織殿御出
寛文 三年 切支丹数十人豊後より長崎へ通る
寛文 四年 此年より切支丹之影ふみ始まる
御郡奉行弓削太郎右衛門殿牧八郎右衛門殿之御郡代之時浅井喜兵衛庭にてはじめてふむ 踏み絵が始まる
此年又豊後より切支丹長崎へ通る
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自分 成長記録 神主業 能見物 旅行 湯治
寛永 九年 自分事寛永九年壬申二月十一日に誕生
寛永十四年 此年より鍋坊丸六つになり候十一月十五日より手習はじむる三日にいろは箪立覚え候
萬治 二年 自分落髪
明暦 三年 自分伊勢参宮小倉にて取候書物有
五年 手足脚気自分相煩ふ灸治にて快気
寛文 六年 二月十二日弓削太郎右衛門当地を御覧候(辺田見村御一泊,視察)
十二年 玄察ざしき立る大工八代之住横山次左衛門
延宝三年 参宮致し候伊勢高野山へ参り父母兄弟の日牌月牌たて證文取置候
五年 手足脚気自分相煩ふ灸治にて快気
天和二年 三月當厳島宮へ石の鳥居立つ
元禄七年 彦山宰府高良山博多福岡致見物候
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寺社 造営 修造 勧進
甲佐周辺,熊本地区の寺社について記載あり.阿蘇神社は別格であることが読み取れる
萬治 三年 此年甲佐三宮之鳥居たつ鳥居木は津志田村八幡の杉八まん修造の為にうる
寛文 三年 釈迦院本堂修健願主禅瑞 彼禅瑞は奥州之僧にて候道者にて候
五年 厳島明神穢気多いため遷宮を検討(宮島より矢満下へ)
六年 厳島宮之善神王建立仏師熊本五福町五郎兵衛と申者にて候
天和 二年 此年之三月當厳島宮へ石之鳥居立つ 此年の四月鳥居よせのおどり致候
貞亨 四年 此年之正月十二日より厳島宮之造営に仕掛り申候
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祭礼
周辺寺社を含めた雨乞いのための祭礼多数
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お能
熊本藩家老が催す能の見物(演目,舞人の詳細)一例を以下に示す
明暦改元年 此年之四月八日に長岡監物殿下屋敷にて能御座敷を見物仕候覚
高砂 道成寺 兼平 監物殿
谷行 籠太鼓 山姥 唐船 楊貴妃 伊織殿 中村伊織は能の達人,教える立場であったことが判る
うたう 源太郎殿 呉羽 千太郎
明暦 二年 米田監物殿下屋敷にて能有見物
三年 八月米田監物殿下屋敷にて能を見物
寛文 元年 六月六日御入国御祝之御能花畑にて御執行
五年 師走に御花畑にて御能御座候
九年 四月豊後国臼杵稲葉能登守様へ中村伊織殿被成御出候に供仕参上 金春一流之能を伝習 歓待の様子が長文記述
元禄 十年 此年折々御花畑にて御能有り
元禄十一年 春折々御花畑にて御能有り
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その他 うわさ話,夢の話など
慶安 二年 京都に恠事多し
明暦 元年 痘瘡とねずみの話
二年 八月十六日之夜夢中に人有てつげていはくだくしゃくはむしなり生甘草を一味服用候へは平癒すとつげをきゝゆめさむる
三年 十二月廿五六日に川尻にて銀百目に中しび(まぐろ)二つ同参拾目にふり一つ買い候
萬治 元年 高直(高価)なる事古今なしと川尻町人衆各申候
二月九日に糸田村次右衛門と云人之女房辺田見村にわなれうちする
二年 二月十七日に辺田見村彦七と云者之後家の馬石子をうむ
江戸一のあやつり太夫喜大夫といふ者熊本こうらい門にて太平記をあやつりにいたし候
三年 十月下益城守山村八まん社の悪魔はらひの由来
寛文 二年 春より大力もの相撲取申候者共従公儀被遊御穿鑿被召出候人々 一覧有り
八年 村人の飼犬の話(居ないはずの犬が子犬を連れて現れ一両日後行方不明)
九年 十一月廿四日熊本長谷寺観音の夢(中風と付附子理中丸)
此年之六月熊之庄宗閑と云町人之小者河童とすもうをとる
注)「渡辺先祖以来今事記」および「早川故事」は肥後文献叢書に収載されている.
(2013.4.1)
追加資料
中村家は加藤家、細川家共に表向きは武家として仕えていたが,同時に加藤家では武家太夫、細川家では金春流家元格として免状を発行していた(明治l10年頃まで)金春流肥後中村家