林 宇一翁の傅(原文)

林 宇一翁の傅(原文)

先に,林 清五郎先生の曽祖父である林 宇一(孚一)について紹介した.原本である「日本薬業家名士伝」(金光万錄, 1893)は,前編のみ近代デジタルライブラリーで見ることができる.紹介されてもよい古い有名薬舗が見当たらないことから,当然後編が存在するはずであると確信し,国会図書館webcat plusで調べてみたが,出版されていないのか,見出すことはできなかった.

林 孚一翁は時代背景が異なるかもしれないが,一薬舗の店主の範疇では考えられないスケールの大きい人物である.当時,薬舗等で成功した家に勤王の志士が身を寄せた例はほかにもあり,下関の伊藤家を擧げることができる.

「林 宇一翁の傅」のスキャンデータを文字化する際に,句読点を適当に追加した.漢字は新旧混用である.送り仮名は原文に従った.

原文の宇一は孚一である.さらに,稿末の文は,前に紹介した内容と異なる.親子二代が兄弟として書かれている.


翁は,当主 源十郎氏の父にして備前国児島郡木目村に生る.幼にして父を喪ひ,親族某に養はる後,林源助氏の養子なり.其家を継ぐ.家世々薬舗を以て業とす.当時,林家赤貧にして儋石(たんせき)の貯え(わずかな貯え)なし.翁黽勉(びんべん,精を出す)家務に従事し漸く家聲を擧ぐ.

天保八年,凶作にして悪疫流行す.翁,私財を抛ち(なげうち)之を救ふに汲々たり.嘉永癸丑(6年,1853)以來,天下騒然,勤王攘夷の説起るや,翁首として勤王論を唱へ,大に天下の志士と結託し,東奔西走馳席の暖るなし.大和の碩儒(大学者)にして,当時勤王の名高き森田櫛斎の倉敷に寓するや,翁節斎と刎頸(ふんけい)の交を結ひ,国家の為に盡くす.翁,皇室の式微(衰え)を慨欺すること久し.

文久癸亥(3年,1863)二月,江戸の人鈴木重胤と共に京師(けいし,都)に到り,内待所より紫震殿を拝するの榮を得て,茲に益々王政治復古の念を起す.此時,藤本鉄石,轟武兵衛,河上玄齋箏の勤王家京師に會し,大に諜議せんとする所の者あり,翁も亦参集す.議論頗る過激,翁其軽挙事を誤ることを恐れ,別れて国に帰る.島田泰夫医を以て倉敷に寓するや翁泰夫と親密,慶應二年泰夫京師に上り國家の為に奔走す.翁家に在り遙に泰夫を助く.

元治元年,大澤逸平,眞木和泉の遺書及松本大膳太夫に奉する書を懐にし,長州に赴くの途次追捕を恐れ翁の家に來る.翁逸平を家に囲ふこと年余後,遂に長州に達せしむ.水戸の藩士等本能寺に於て幕兵に破らるゝや翁旅費を松本正忠に托し,水戸の蒲士数名を家に招き之を囲うこと久し.


大政維新の春,岡山藩朝命を奉じ,二備美作を鎭撫(乱を鎮める)す時,松山藩未た帰順せす.岡山の国老伊木若狭之(家老の尊皇家)を攻めんとす.松本正忠,其軍を督し兵を募る急なり.松本,事を翁に托す.翁,奔走して数十の兵を募る.偶々松山藩降る.岡山藩其領地小串村に関を設け,出入の船舶に重税を課するや,翁単身京師に到り,書を太政官に致し,岡山藩の無状(無礼)を訴ふ.太政官土倉某を岡山に使はし,関門を撤去せしむ

明治二年,倉敷県を設置す.翁,其年七月縣廳より賞詞及び賞金三百疋を賜はる.翁王政復古の目的を達して以来復古公事を語らず.

明治三年,伊勢氏華,倉敷の令尹となり赴任するや,氏華大に翁を信じ,牧民の事大小となく翁に謀る.明治三年,高松の藩士党を結ぴ,執政松崎澁右衝門を殺害し,窃かに不軌(謀反,反逆)を謀らんとす.松崎の仝志逃れて翁の家に来る.翁,之を止むること百余日後,弾正臺(明治2年(1869)太政官制下に設置された警察機関)に告訴して不軌の徒を刑に処す.翁,爾来專ら風俗改良貧民救助に汲々,或は儲穀倉或は貯金所等を設け,一般の利盆を謀ること勘なからず.叉,翁が家常に三四名の棄児を養ひありしといふ.翁,倉敷県の時,郡中議事掛,勧業掛,郡中頭取助勤,庄屋勤等を命せらる.

壬申(明治5(1872)年)三月第一大区二大区戸長を拝命し,明治七年小田県より堤防浚川仕法掛を命せられ,後区長に任せらる.

明浩八年小田県を廃し,岡山縣に合するや更に仝県より西十五大区々長を命す.尋で(ついで)勧業掛,学区取締の兼務を命ぜらる.

明治十一年九月窪屋郡長に任す.

仝十三年十二月年老を以て辞職を請願するも許されず,十四年十二月両び辞表を呈するも亦允されず.

十五年十二月三たぴ其職を辞して遂に許さる.翁其職にある間,専ら誠実を以て入民に接す.故に郡民の翁を慕ふこと赤子の慈母に於けるるが如し.十五年十二月翁の其職を辞するを聞くや人民挙て其留任を縣廳に請願す.亦以て翁の徳望の一般を知るべきなり.

明治二十二年六月正七位に叙せらる.翁が公共の為めに竭(つ)くし,郡役所縣廳等より賞状賞品を受けたる者枚挙に遑(いとま)あらす.


翁に三男一女あり.長子は即ち源十郎氏なり.氏父の遣訓を受け品行方正にして能く家業を勤め,大に資産を起せり.次男醇平氏は府県会規則発布以來県会議員の職に在り,而して今は即岡山縣会議長たり.三男甫三氏は岡山藥学部に在り医薬分業の為め奔走し居るとのこと.


孚一 には,長男 甫蔵,次男 欣二,三男 醇平がいた,甫蔵は長男 蘇太郎が出生した年に逝去した.そのため,次男 欣二が

蘇太郎の養父となった. 甫蔵の長男 蘇太郎は甫三,源十郎と改名している.

(2013.2.5)

追記

林源十郎記念室の紹介が日本薬史学会 薬史レターに掲載されている J S H P 2012 年 6 月 - SQUARE - UMIN一般公開ホームページ ...