翌朝、茹るようだった僕の熱はすっかり引いた。 朝の光が瞼を撫でたとき、心の奥で何かがほどけた気がした。差し込む日の爽やかさが染み渡るのはいつぶりか。
数ヶ月ぶりの、まとまった睡眠。たっぷりと休まった体からは、昨日までずっとまとわりついていた怠重さが嘘のようになくなっていた。
ああ、寝るって、こんなに効くものだったか。
お礼のメッセージに返されるのは「念の為今日も休んどけ」の苦言。でも休めば休むほど締まるのは僕の首だ。「大丈夫だよ」の返信にそれ以上返されることはなかったが、画面の向こう、かっちゃんの渋い顔が容易に想像できる。
しんと静まり返った薄暗いフロア、いつも通りの出社。半日いなかっただけで、そこは家から職場に戻った。
定位置に腰掛けてPCを起動、早速今日のタスクを確認する。気合いを入れ直し頬を叩くと同時、チャットの通知音が重なった。
チカと光るスマホに映るのはかっちゃんの名前。そのメッセージは、相変わらず端的。
「今日の夜空けろ」
「なにかあった?作業依頼?」
「お前の話だわ」
僕の話?
「じゃあ18時」と返してスマホを仕舞う。
今日は特に用事はないはず。何か、しちゃったんだろうか。
…いや、したな。したんだった。思わず手で顔を覆う。喉から変な声が出る。
あの晩、かっちゃんは帰らなかった。
正確には、帰れなかった。
まだ夢の匂いを纏ったまま、そっと瞼を開ける。
霞みが解かれる視界、そこはいつもの天井だった。
真っ暗な部屋、どれくらい寝ていたのか、今は何時だろうか。びっしょりと汗をかいて、まとわり付く衣服が気持ち悪い。
スマホを探ろうと起こしかけた体、ふと左手にひんやりとした違和感を覚える。恐る恐る落とした目線の先、僕の左手に絡む右手が見えた。柔らかく包まれる肌が心地が良い。
いや待て。心地良いじゃない。
どういう状況だ?目の端に映る明るい髪色に、耳の奥で何かが弾けた。
ゆっくりと体を起こすと、ベッドに頭だけを預け、寄りかかるように眠るかっちゃんの姿があった。呼吸音に合わせて、伏せるまつ毛が微かに揺れている。
「かっっ…」
飛び出しかけた声を咄嗟に飲み込む。
何で彼がここにいるんだ。繋がれた手、これはどうしてこんなことになっている?思考が絡まって解けない。一体何が起きた。
「やっと起きたかよ」
僕の記憶はつながらないまま、ベッドの軋みでかっちゃんが気怠そうに顔を上げる。
解かれた指にふと胸の奥を掠めた言葉にならない名残惜しさには、そっと目を伏せた。
「かっちゃん、どうしてここにいるの」
「は?お前が帰るなって言ったんだろうが」
「えっ、…ど、どどどどういう」
「覚えてないんか」
全く覚えてない。
話を聞くと、帰ろうと腰を上げかけたかっちゃんの手を僕が掴み、「寂しい」「行かないで」とべそをかいたようだ。
馬鹿言ってないでちゃんと休めと言ってもいやいやとガッチリ離されないその手に、諦めてそのまま腰を下ろしたらしい。そして今である。
顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「ごめんなさい…本当に申し訳ないです…」
「本当にな」
「ごめんね、かっちゃん体辛かったでしょ」
「もうバッキバキだわ。誰かさんが離してくれないせいで」
「恥ずかしいから語弊ある言い方やめて…」
時計を見ると21時を回っていた。看病をさせて、醜態を晒したうえ、かっちゃんの貴重な休みを潰してしまった。申し訳なさで消えたくなる。
これは僕にしか非がないなと殴られる覚悟を決めたが、殴らないどころか、かっちゃんは怒っている様子さえ見せなかった。その目に帯びるのは労わりの色。
「体調は」
「あ、うんもうだいぶ良いよ。たぶん熱も引いてると思う」
「台所にお粥作ってあるから食えそうなら食え、常温のスポーツドリンクもそこにあるから。ちゃんと水分摂れよ」
「本当に何から何まで…ありがとうね、ご迷惑をおかけしました」
じゃあもう帰るわと立ち上がる背中を見送ろうと腰を上げた僕の髪を梳くように軽く撫でて、寝てろとだけ言葉を残してかっちゃんは帰っていった。
玄関のドアが静かに閉まる。
音のない部屋、自分の心臓の音だけが鼓膜に響く。
今のは何だったんだ。
かっちゃんのそんな優しい顔、見た事ない。いつもの人を焼きそうな顔はどこに行った。
子どもみたいにぐずる様を見られて体は茹るが、幼馴染だろ、何を照れることがあるんだ。
でも、これじゃあ。
「こんなの…恋人みたいじゃないか」
ぽつりとこぼれた言葉は部屋に溶け、鼓動が速まる。
顔が熱い、心音がうるさい、目の奥まで熱くなって、言葉が出なくなる。
僕は布団を頭まで被り、目をぎゅっと瞑った。
そんなことがあっての昨日の今日だ。正直かっちゃんにどんな顔をして会えば良いのかわからない。
昨日の話を蒸し返されたらどうしよう。腕を組んで唸っていたら「9M-2」と個人ブースの場所だけが送られてきた。気が重すぎる。
「作業工数全部洗い出すぞ」
「は?」
時間ピッタリに個室ブースに入ってきたかっちゃんは、何もなかったかのようにいつも通りだった。
「傍から見ててもお前は抱えてる作業が多すぎる。今どれだけタスク持ってんのか全部出せ」
「え、な、なんで」
「こっちがなんでだわ。また倒れてえのか」
「それはその通りだけど…でもかっちゃんの時間使ってまでやる事じゃないよ。あとでちゃんと自分で…」
「うるせえ黙れお前に拒否権はねえ。さっさとやんぞ」
「うう、はい…」
確かに忙殺されてタスク管理がおざなりになっていた自覚はある。落とした仕事は一つもないが、積みあがった問題があまりにも多すぎて、来たら打つ来たら打つの繰り返しだった。上司には何度か相談したが、「今は何とかなってるから」という姿勢で改善されずこの現状だ。
かっちゃんは別部署の人間なのに。こんな事まで指摘されてしまって頬に熱が帯びる。
「おいサボってんじゃねえ」
「はい!ごめんなさい!」
黙々と作業を洗い出し、それにかかる工数を出していく。手を進めるほどにかっちゃんの顔が険しくなっていく。どこまで目がつり上がるんだ。こわいからやめてほしい。
洗い出すだけで30分もかかった。すでにクタクタだ。
「お前こんなこともやってんのかよ、こんなのてめえで終わらせろで突っ返せや」
「言葉もないですね…」
「こんなん3人いても苦しいところだぞ…何で黙ってこなしてんだ」
「先輩は1人でこなしてたんだよ、だからこのままいけるだろって認識されてるんだよね」
「10年以上やってた奴と比べてんじゃねえ。それにそんなのは属人化してたからだろ。何なんだこの資料、作業手順書なんて最悪だ。何だ「更新用データを作成する」って、そこを書くのが手順ってもんだろうが。どんな引継ぎ受けたんだお前」
「全部口頭でしたね…ノウハウもナレッジも何も残ってなくて…自分で仕様書読んだりメーカーに問合せしながら紐解いていくしかなくてさ」
「加えてチェックリストもぐっちゃぐちゃかよ、手ェ抜いちゃいけねえところまで抜いてやがる。これ監査通らねえだろ…形骸化も甚だしいわ」
…めちゃくちゃ怒ってるな。
僕がずっと1人で抱えてた負の感情を掬って、僕よりも憤ってくれる。何だかそれだけで、もう救われる思いだ。
「かっちゃんって、…口と態度が悪いだけで、本当はすごく優しいよね」
「誉めてえのか貶してえのか殺されてえのかどっちだ」
「いや、そうじゃなくて…そういうところが好きだなぁって思ったんだ」
「…は?」
…あれ?
今僕なんて言った?何か…すごく変な事を口走ってしまった気がする。どうしよう、部屋がすごく暑いし狭い。
どうしようかっちゃん完全に黙っちゃったぞ最悪な空気だ。恥を重ねてどうする。
「あの、かっちゃんごめん変な事」
「お前それ、…誰にでもそんな感じなんか」
「え」
「…わかんねえなら良いわ」
怒鳴られるかと思ったが、返ってきたのは静かな声だった。赤い綺麗な目は伏せられていて、かっちゃんの表情が見えない。
その後僕の抱えているタスクはすべて分解され、優先度と必要な工数と人員、他に投げられるものをそれぞれ一覧化させた。できる人って、すごい。
じゃあ、と向き直る。
いつもとは違う、ものすごく真剣な顔。
「まずはこれをマネージャーに出せ。あの人のことだから多分なんともならねえが、一応仁義を切るためだ」
「う、うん」
「その上でこれを、次長も部長も飛ばして、常務に出せ。こういうのは一個や二個飛ばしたところで意味ねえんだよ、役員に持ち込むのが一番手っ取り早い。幸いお前のところの山田常務は社員の声を直接聞こうと個人面談を頻繁にしている人だ、そこにぶち込め。実際一度倒れてるんだ、手を打たないなんてことはできねえだろ」
「で、でも大丈夫かな」
「人のことなんか考えるな。自分のことだけ考えろ。ここまで放置したのは管理者の責任だ。逆にこの現状を報告相談しなかったらお前の怠慢と見做される。これだけの仕事をたった1人でやってきた人間がそんなクソみてえな目に遭うのは違うだろ」
目の前の人が、誰よりも自分のことを考えて、動いてくれている。仕事ができて周りがよく見えていて。それが格好良いだとか、そんな尊敬や憧れだけでは形容し難い、名前の付かない感情が湧いてきて、目頭が熱くなる。
「…かっちゃん」
「んだよ」
「ありがとう。こんなことまでしてもらって、すごく恥ずかしいな…でも、でもすごく嬉しい。ありがとう」
「俺は他部署の人間だからな。実際渦中にいたらこんな事できねえだろ、むしろこんな状態で一つも仕事落としてないのが引くくらいだわ」
「へへ…何とかしてみるね」
へら、と笑ったら、かっちゃんはただ目を細めた。
やめてほしい。調子が狂ってしまう。
いつもみたいな不機嫌顔か片眉を釣り上げた邪悪な顔をしていてほしい。そんな顔、しないでほしい。
「じゃあ飯行くか、奢れや」
ぱっと切り替えられる空気。
「いやもういくらでもお礼させてください…かっちゃん何食べたい?」
「中華」
「はあい」
個人ブースを出たら、またいつも通りのかっちゃんだった。それになぜか安心しつつ、何か落ち着かない胸を抑えて、揃ってオフィスを出た。
その後の流れはすべてかっちゃんの予想通りだった。
マネージャーに相談はしたけれど「検討してみるね」と言われたまま時間が過ぎた。
タイミング良く予定されていた常務面談でこれまでの現状を訴える。このままの体制では、安定運用ができないと。
普段どれだけ自分が自分のことをぞんざいに扱ってきたのか、よく分かった。それでもできる限り、言葉は尽くしたと思う。
把握しておらずに申し訳ないと謝罪を返した常務は、すぐに改善するとその場で部長へ人員追加の指示を出した。
そうすると今までの”要検討と”は一体何だったんだというくらいにあっさりと事が進み、来週早々2名人員追加されるとマネージャーから連絡があった。開発が落ち着いた他部署から、有識者を引き抜いてくるらしい。
上を叩けばあっという間だった。組織ってものはこんなもの、なのかもしれない。
今回の件でマネージャーは相当絞られたようで、僕は何度も頭を下げられた。
そんな一連の流れをかっちゃんに伝えたら、「ざまぁ」と笑っていた。
デスクに戻り、椅子に背を預ける。沈む夕日に気付いたのも、久しぶりだった。
来週からか、少し緊張する。気が合う人たちだと良いけれど。
作業の合間に少しずつでも環境は整備してきた。だから僕がここに来た頃よりはだいぶ資料もまとまってきている。それでも迎え入れるにはまだまだ整ったとは言えない状態だ。
すっかり忘れていたけど、僕の前に何人もの人が去っているんだ。着任早々に異動希望なんて出されてしまったら常務に顔向けができない。そんな事は絶対に避けなければ。
そして何よりも、自分のことを助けてくれたかっちゃんには、もう心配をかけたくない。かっちゃんは気にしていないかもしれないけれど、そんなに心配そうな顔をしているのを今まで見たことがなかったんだ。そしてそれをさせているのが僕なのが、一番堪えた。
くだらない話をしたい。仕事でも、仕事じゃなくても。それで、笑ってほしい。
顔を思い浮かべたら、なぜだか無性に会いたくなってきた。今、何をしているんだろう。打合せかな。
来週からまた忙しくなるだろうから、その前にまたかっちゃんとご飯に行きたい。
でも、誘いたいけれど、上手い誘い文句が思いつかない。何て言う?どう誘う?
…今までどうやって声をかけていた?
「…なんで?」
もっと簡単だったはずだ。
「ご飯行こう」のたった5文字で呼び出していたじゃないか。何なら2文字だ。あっちから来るのは「飯」の1文字な時もあるのに。何で?何をそんなに気にしているのか。何でこんなに躊躇するんだ。
ざわつき始める胸、フロアの音が、遠のいていく。
文字を打っては消し、打っては消しを繰り返し、手のひらの板と睨めっこし続けた僕は、その日かっちゃんにメッセージを送ることができなかった。
2025-01-19