かっちゃんが受け持つ新規システムが、総合試験期間に入った。
総合試験中は、特に忙しい。試験計画から始まり、環境やデータの準備、試験実施だけでなく、全体の進捗管理、不具合管理、変更管理、関係箇所との調整、メーカーから来ている技術派遣の社員もかっちゃん一人でまとめている。最近は家にも帰れず、ホテルに泊まる日も多いそうだ。
食事の約束はいつの間にか消えた。メッセージは未読のまま画面の奥へと押し込まれ、呼び戻すには指を伸ばさなければならない。忙しさが、距離を自然に広げていく。
文句を言う理由はどこにもなかった。元々必ず行くと約束していたものではないのだから。
「お前ちゃんと食べて寝ろよ。また倒れたら今度こそ殴るからな」
口うるさく言われた3週間前を思いかえす。その言葉はそっくりそのままお返ししたい。️
僕のフロアは9階、かっちゃんは11階。姿を見たわけでも声を聞いたわけでもない。彼は愚痴を零すことはあろうとも、それも些細なものだ。泣き言を言うタイプではないから、こちらから聞かない限り知る術はない。
なのになぜかっちゃんの状況を事細かに知っているのかと言うと、先々週から一緒に担当する事になった二人のうちの一人、かっちゃんと同じ部署から来た飯田さんが逐一教えてくれるからである。
飯田さんは僕の二つ下の女性社員。シャキシャキと仕事をし、言うべき事は言うがまわりの空気を汲んで対応できる聡明な人。情けない話だが、すぐに何でも抱えようとする僕とは違って、できない事はできないとはっきり言える。いつもピンと伸びた背筋に、縮こまった自分の背中は正される。
「うちの戦力をまさかお前に取られるとはな」
強い舌打ち。彼女がここに来る事は当然かっちゃんも聞いていた。
「あいつが入るならだいぶ楽になれるんじゃねえか」の言葉が、ちくりと刺さる。
「昨日の夕方に残ってた引継ぎで11階行ったら、爆豪さんすごい顔してましたよ。眉間がマリアナ海溝って感じ」とケラケラ笑っていた。緑谷さんに見せるからこっち向いてくださいとカメラを向けたらスマホをはたき落とされたそうだ。
かっちゃんは嘘をつかない。彼の口から、あんな言葉が出るのは珍しい。僕には世話を焼いてくれたのに。胸がざらつくのを隠して、笑いに変えた。
うちに来てくれた戦力は飯田さんだけではない。
僕より八つ上の早瀬さんは、飄々とした面白い人だ。よく気付く視野の広さには、仕事面だけでなく精神面でも頼りになる。
「いやぁむしろ一人きりだったのにここまで整えてくれて助かるよ、ここからはチームで少しずつブラッシュアップしながら作業も分担していこう」
整備が間に合わなかったこの環境に仏のような言葉をもらい、視界が少し滲んだ。
早瀬さんはかっちゃんと直接話した事はないものの、同じくした会議で姿を見たことはあるらしい。相手が誰でも臆せず発言していて、若いのに肝が据わっててもう仕事の鬼だよねぇと笑っていた。
人事の采配に、心の底から感謝する。
正直こんなに即戦力になる有能な人を引き抜けるだなんて。飯田さんは勿論だが、心許ないところに先輩社員が来てくれるのはやはり精神的な安定に直結する。
次第に減っていく残業時間と積みあがっていたタスク。ようやっと、水面から顔を出して息ができるような感覚だった。
こんな、定時退社が許される日が来るなんて。
仕事帰り、スーパーが開いている事に感動する。鼻歌交じりに、自然と向いた足。
店を賑わす声の中、ふと、ちゃんと食事を摂れと叱ってきた幼馴染の顔を思い出す。
かっちゃんのおかげで、今やっと自炊をしようとまで思えたけれど、かっちゃんは今どれくらい忙しく過ごしているのだろう。
スマホを握る手が震えた。送ろうとして、指が止まる。何度もやめてはまた開き、画面の前で固まってしまう。あの日から、一度も言葉を送れずにいる。
「この前はありがとう」だけでもさっさと送れば良いものを、何をいつまでもうだうだと悩んでいるのだろうか。でも、ホテル暮らしをするほど忙しくしている彼に、「暇になったから連絡しました」なんてお気楽な言葉を投げかける勇気はない。
握っていたスマホの画面はいつの間にか暗転していた。八の字になった眉の、情けない顔が映る。深いため息をついて、天を仰いだ。
「…かっちゃんって、今どんな感じか知ってる?やっぱり忙しいのかなぁ」
昼休憩、向かいでベーグルサンドにかぶりつこうとしていた飯田さんが怪訝そうな顔で言葉を返す。
「爆豪さんですか?この前見た感じだと、だいぶ忙しそうにはしていましたね…というか、それ私じゃなくて、本人に直接聞いた方が良いと思いますよ」
「ごめん、そうだよね。もしかして知ってるかなと思っただけなんだ」
「違います。そうじゃなくて、一昨日爆豪さんにも同じことを聞かれたので」
「え」
「あいつはちゃんと生きてるかとか、早く帰れてるんかとか、11階に行く度に緑谷さんのこと聞かれるんですよ。私を伝書鳩にするならお金取りますよ、ラーメン奢ってください」
「…そうなんだ、そっか、えっと、ごめんね」
「緑谷くん気になるなら11階行ったら良いんじゃない?仲良いんだし、別に怒られはしないでしょ」
「いやぁ仕事の邪魔はあんまりしたくなくて…僕ちょっと先に戻りますね」
なんかラーメン食べたくなっちゃったなあと話し始めた早瀬さんと飯田さんを残して、早めに昼休憩を切り上げた。
よし、いい加減連絡しろ。
人に探らせてばかりでどうする。
音一つない部屋、ひとり正座でスマホを握りしめる。耳の裏から心臓の音が聞こえる。
メッセージアプリを開こうとした途端指が固まった。着信音に跳ねた手からスマホが滑り落ちる。画面には「かっちゃん」の文字。
驚きすぎて声が裏返る。
「はい!」
「生きてるんか」
「うん、ちゃんと生きてるよ」
「なら良いわ」
鼓膜に響く掠れた声に、 喉から何かこぼれかけた。
「あの、かっちゃん、最近忙しそうだけど、大丈夫?連絡できなかったけど、気になって」
「まあ立て込んではいるが、問題ねえ」
「そっか…何か手伝えれば良いけど総合試験はどうにならないもんね…僕はあんなに助けられたのにな。何かやれることあったら、言ってね」
かっちゃんは少し黙り込んで、口を開いた。珍しく、伺うような声色。
「じゃあ、来週の日曜、空いてるか」
「え、日曜?それは全然、空いてるけど…ご飯?そんな事で良いの?」
「いいか、約束したからな、忘れんじゃねえぞ」
「?うん、わかった」
「じゃあ仕事戻るわ、またな」
「まだ仕事中だったんだね…頑張ってね、電話ありがとう」
「ん」
途端、身体が浮ついた。
結局自分からは動けなかった。でも久しぶりに聞けた声に、情けなく頬が緩む。ここが家で本当に良かった。
でも日曜か、休日に会うのは初めてだ。まあ平日は埋まってるだろうし休日一択だよな。しかしふと目を落としたカレンダーに、一瞬思考が停止する。
…いや、そんなわけはない、だろう。
上がりそうになる口角を引き結ぶ。青い空にないはずの虹が見える。
遠足を楽しみに待つ幼稚園児の如く仕事をこなしていたら、なんか楽しそうだねと早瀬さんに突っ込まれた。でも実際に浮かれてしまっているから仕方がない。日曜日まで、あと2日だ。
「緑谷くんって結構全部顔に出るよね。何があったかわからないけど、かわいいからそういうのに落とされる子多そうだなぁ」
「僕モテたことないのでないと思いますよ」
「そう思ってるの自分だけだと思うよ」
こんな雑談もできるようになった職場環境に胸が躍る。
「緑谷さん伝書鳩ですよ」
「伝書鳩…飯田さん、何かあったの?」
「まあ大したことではないですが、爆豪さん最近もうずっと土日も休出してるっぽいですね。あの人ほとんど顔に出さないですけど、無理してそうでした」
「…ええ、全然大したことだよ」
「今週末も潰れそうって、他の人も言ってました。まあもう終盤ですし、緑谷さんの幼馴染はタフだから大丈夫なんじゃないですかね」
喉の奥に鍵がかかったみたいに、舌が詰まった。
全然大丈夫じゃないだろう。喜びも束の間、一気に気が重くなる。
土日も休出なんて、平日も帰れてないのに、身体がもつのか?いくらタフとは言え、かっちゃんも人間だ。
というか、日曜日、約束してるけど…どうしたら良いんだろう。かっちゃんから連絡がないから分からないけど、さすがにやめておいた方が良いんじゃないか。
頭の中に雑音が反射し始める。手放しで喜んでいた自分が恥ずかしい。
何よりも、心配さえさせてもらえない事が苦しかった。弱音を吐いてもらえないほど、頼りないのだろうか。️
頭の中は「やめる」「やめない」が行き来し続けたまま。
「やめよう」と言われるのが怖くなってしまった僕は連絡ができず、そのまま土曜になってしまった。
…もう土曜日の23時だ。
結局明日のことについても何も話し合えていない。予定は無しになるのだろうか。
会えないのも辛いけど、それ以上に、かっちゃんに無理をさせるのが耐えられない。何も話されないことが、辛い。
これはもう、自分から断りの連絡をするべきだろう。
震える手でタップした通話画面は、3コール目で繋がった。
「どうした」
「あ、あのさ、明日のことなんだけど」
「ずっと連絡してなくて悪かった。今終わったから」
吐きたくない台詞を、浅い息に乗せる。
「あのさ、明日、会うのやめにしよう」
「…は」
「だってかっちゃん、疲れてるでしょう?少しでも休んでほしいんだ。僕は前よりずっと時間空いてるし、また別の日にでも」
「別に大丈夫だわ、俺の仕事のことは気にすんな」
「嫌だ、やめよう。本当に無理してほしくないんだ。このままだと倒れちゃうよ」
「それくらい管理してるわ。お前が気にするまでもねえんだよ、俺のことをお前1人で勝手に気にして結論出してんじゃねえよ」
いつもより掠れた声にこもる熱、怒りを帯びていくのが分かる。今しんどいのは僕じゃなくて、かっちゃんだ。
それでも、ひりつく皮膚は冷える空気でも冷めることはなかった。
昂る感情が抑えられなくて、もう歯止めがきかない。
「…帰って少しでも早く寝てよ!心配くらいさせてよ…君はいつも僕のことを助けてくれたのに、僕はあんな風に助けてあげられなくて、何も返せなくて…悔しいんだ…ずっと休みなしだった事も、昨日初めて知ったんだ」
「本当は休ませてあげたいのにどうしても会いたくて、こんな時間になるまでやめようって言えなかったんだ」
「今だってかっちゃんは何も悪くないのに、勝手に悩んで勝手に決めて…もう八つ当たりだこんなの」
かっちゃんは、ずっと黙って聞いていた。
しばらく置かれた沈黙ののち、落とした言葉は重かった。
「言いたいことは、それだけか」
「…うん、だから、明日は会わない」
「…そうかよ」
だからおやすみ、と通話を終了させようとした背中に、重苦しい空気には不似合いなインターホンの音が響く。
「え」
「もう着いたわ」
「…え、かっちゃん?な、なんで」
通話は繋がったまま。
ドアの外から零れ落ちるようなそれは、息に近い声。
「会話を疎かにしたことは、悪かった。俺が悪い」
「でも、返せるものがないなんて、そんなことをお前が言うな」
「俺のスケジュールを優先して、何日にも渡って試験に時間を割いてくれたのは、誰だ」
「自分の仕事でもないところにまで動いてくれたのは、誰だ」
「深夜のアラートにも、嫌な顔ひとつせずに最善の方法で収束させてくれたのは、誰だ」
「そんなのは…当たり前の事で」
「お前が当たり前のようにこなしてる事は、当たり前のことじゃない。お前は役に立てないなんて言うが、どれだけ支えになってると思ってる」
「それにもう、返せる返せないじゃねえ。俺が、ただお前と一緒にいたいだけだ」
ドア越しに連なる言葉、目の奥まで熱くなって、言葉が出てこない。
もうどうしようもなくなって、声がぐずぐずと崩れていく。
「かっちゃん、ぐちゃぐちゃでまとまらないけど、聞いてくれる?」
「全部言え」
「…気付いちゃったんだ。僕が君に向ける感情は、幼馴染のそれじゃない」
「ただ仕事終わりにご飯を一緒に食べて、笑ってたらそれで良かったんだ、最初は。幼馴染として仲良くなれて嬉しかった、それだけだった」
「でも、それ以上のものが欲しくなって。そんなのはダメだと思って、蓋をした。僕は…その、男だし。かっちゃんには飯田さんみたいな、可愛い女性が似合うとか、そんな事考えちゃって。僕は、僕にとって、そういう意味の気持ちを、どうにもできなくなっちゃった」
「…どうしよう、僕、かっちゃんのことが好きみたいだ」
少し遅れて、地を這うような低い声が響く。
「おい、開けろや」
「む、むり」
「…顔が見てえ。お前の顔を見て、言いたいことがある」
「顔が、顔がもうひどくて、見られたくない」
「開けねえなら、開けるまでここにいるぞ。ぜってえ帰らねえ、いくらでも待ってやる」
静かな部屋に、呼吸音だけが聞こえる。
触れたドアノブは冷たかった。ゆっくりと鍵を開ける。
押し付けられているように顔を上げられない。扉の先、かっちゃんの足元しか見られない。
シャツの裾を握る手の震えが止まってくれない。
「出久」
固く握っていた両手を掬われる。迷子のようにうろついた僕の目は、緋色の目に真っ直ぐ射抜かれた。光を吸ってきらきらと光るような、綺麗な目。
「今日これを言いに来たんだわ」
喉が絞まって、肺が縮こまる。呼吸の仕方が分からない。水の中で溺れているようだ。
握られている手が冷たい。でもこの手の冷たさは、僕はよく覚えている。
「出久」
「好きだ、一緒にいたい」
だめだ。
もう涙がこぼれてしまいそうで、瞬きができない。
君にはいつも恥ずかしいところを見られてばかりだ。
でも、僕も知りたいと思った。今君が、どんな顔をしているか。
は、と息を漏らす。かっちゃんの目は、赤をにじませていた。
そんな泣きそうな顔、初めて見た。
「俺のほうが、お前のなんかよりずっと好きだわ」
「ふざけんじゃねえ、先に、言いやがって」
もう、無理だった。あふれだす言葉は止まってくれない。
この気持ちを枠にはめるのが、勿体ないくらいだ。
「僕も、かっちゃんのことが大好き」
「僕を、恋人にしてくれる?」
言葉より先に、腕を引かれ掻き抱かれた。
「ぐぇ」と間抜けな声を出して、胸の中に収まる。
おずおずと腕を背中に回すと、ぎゅうと力を強められる。
かっちゃんの甘い汗の匂いにくらくらする。
肌を分かつ布さえもどかしい。
伝わる体温と心拍数で、もう脳が溶けそうだ。
「…本当に俺の言いたいことを全部先に言いやがって…てめえちょっと黙れや」
肩に頭を摺り寄せられて、胸が満たされる。
本当にこの瞬間が、ずっと続けばいいのに。
僕の肩を軽く押したかっちゃんと向き直る。
細める目。髪を撫でる手の優しさに、肩が跳ねる。
頬に添えられた手、親指がそっと唇をなぞり、少し意地悪そうに笑った。
「日付変わってんぞ。…なんか言う事あんだろ」
僕は、この人が大好きだ。
「…かっちゃん、誕生日、おめでとう」
「だいすきだよ」
自分よりも少し高いかっちゃんの首に、腕を回す。
体が熱い。
きっと、首も顔も耳も真っ赤だろう。それを分かられてしまうのが恥ずかしい。
でも、ああ、愛おしいな。
滲む瞳で微笑んだ君の顔は、きっと一生忘れない。
「馬ァ鹿、俺の方が大好きだわ」
震える息を奪うように、僕の唇はゆっくりと塞がれた。
2025-01-20