初めて食事に誘ったあの晩から、出久とは定期的に顔を合わせるようになった。
そこに特別な何かがあるわけではない。都合のつくタイミングで、仕事帰りに食事をして解散するだけのもの。俺から声をかけることもあれば、あっちから誘いが来ることもある。お互い常時仕事を抱えているので、大抵は夜も更けた21時以降だ。
人のことは言えないが、出久の忙しさも相当のはずだ。
どこかのシステムの開発が始まれば自動的に二人三脚になるのが監視システム。作業工程はいつだって道連れだ。それだけならまだしも、稼働中のシステムの面倒も見なければならない。この会社のすべてのシステムの安定稼働を担うのが、出久の役割だ。
この不夜城を守る人間は別にいる。24時間365日、日夜直接監視をしている立場というわけではない。とはいえ、何か問題が起きれば責任者の名の下に引っ張り出されるのは出久だ。どこかのシステムで障害でも起きようものなら自動的に巻き込まれるのが、監視システムの運用責任者の定め。
昨夜も障害対応で深夜2時に叩き起こされて2時間もPCとにらめっこしていたんだと、目の前の男は笑いながら箸を進める。まるでそれが、当たり前の事のように。
そういえば下瞼の紫色がいつもより深い気がする。それを事前に聞いていれば今日の予定は取りやめたのに、何やってやがる。別に無理をしてまで予定を合わせる必要もねえだろ。
俺の言葉で一瞬きょとんとした出久は、へらっと微笑んだ。
「かっちゃんとご飯に行くようになってから、前より仕事にメリハリをつけられるようになったよ。今までずるずると仕事しちゃってたんだけど、”今日は早く帰ろう”って仕事に区切りをつけられるようになったんだ。随分健康的になったと思うよ。こんな愚痴も言えるしね」
ほぼ徹夜明けの人間の言葉とは思えない。俺も大概だが、こいつも相当いかれてやがる。その感覚の麻痺にも気付いていない。
「ダメだわ、帰んぞ」
「ええ、大丈夫なのに〜」
帰りたくなさそうにしゅんとしている出久の顔は見ないことにして、今日のところは早めに切り上げて店を出る。
「帰ったら風呂入ってすぐに寝ろ。ぜってえPCなんか開けるんじゃねえぞ。携帯も取んな、とにかく寝ろ」
「わかってるよ。…なんかかっちゃん彼氏みたいだね」
「死にてえのか」
「はは…はい、ちゃんと寝ます」
「じゃあな」
「あ、かっちゃん」
「んだよ」
「次はかつ丼が食べたいな、探しておくからまた行こう」
「腹が満たされた状態で言うセリフじゃねえんだわ」
じゃあまたねと手をひらひらとさせて、改札に吸い込まれていく。その背中は、見るたびに小さくなっていくようだった。
「かっちゃんお疲れ様~」
「状況は」
「話が早くて助かるよ~」
最後に会ってから2週間経った夜。出久から電話があったのは、日付をとっくに跨いだ深夜3時。
上司からの事前の連絡では、俺の兼務先のシステムで大量のアラートが発生したとのことだった。
本来連絡が来るはずのない俺にまで電話が回ってきた理由を聞くと、上司のところに行くまで全員の担当と繋がらなかったらしい。
記憶をたどると、今日は飲み会だと意気揚々と退社していった面々を思い出す。今は酒が回って熟睡といったところか。明日必ず全員殺そうと決める。
そんなわけで今システムのアクセス権限を持っていて動けるのが俺しかいない。さっさと始末しないと明日の仕事に支障をきたしたら面倒だ。重い瞼を押し上げてベッドから腰を上げる。
「監視システム側にも連携済だからすぐに緑谷くんから連絡が来ると思うよ」という言葉に、2週間前に見たへらへら顔が頭に浮かんだ。
「で?」
「今そっちの大量アラートでうちのサーバが逼迫しちゃって、全部のシステムの監視が止まっちゃってるんだよね」
「じゃあこっち側で転送設定を止めて独自監視する。今止まってる他のシステムのアラートは全部死ぬんか?」
「ううん、大量アラートが止まれば滞留してた分は遅延して転送されてくる。データは抜け落ちないから大丈夫だよ。遅延した分はこっちで抽出して関係箇所に連絡するから問題ない」
シャキシャキと話す声には、”こんなものもう慣れっこ”が染みついている。
「わあった」
「ありがとう」
「お前も貰い事故なんだからありがとうも何もねえだろ」
「確かにね。それを言ったらかっちゃんもだろ」
「俺は明日全員殺すからいいんだよ」
「物騒だな…」
「かっちゃん」
「んだよ」
「なんか、電話でかっちゃんの声聞くの新鮮だな、そわそわする」
「…きめえこと言ってんじゃねえ。おい転送設定止めたぞ。確認しろ」
「ありがと~」
ヘッドセットから、ブツブツと呟く声が聞こえてくる。その癖相変わらずだな。
監視システムの確認が終われば、あとは動作確認くらいだ。
対して出久の仕事はここからが長い。
影響があった各箇所に連絡をしていく必要があるのだ。自分の落ち度は、全くないのに。
きっと深夜に電話を受けて、不機嫌を返されることもあるだろう。正直そんな人間はシステム屋としてどうかと思う。
本来なら自分の出る幕はない。ないけれど、あの顔を思い出すとどうしても放っておけなかった。もう切っていいはずの電話口に呼びかける。
「影響箇所は抽出できたか」
「あ、うんできたよ。これから各担当に連絡していくところ」
「半分よこせ。上にも話を通しておくから、分担すんぞ」
「えっいいよ!かっちゃん明日も忙しいでしょ?遅くなっちゃったから早く休んで」
「いいからよこせ、元はこっちが原因だ。俺は下からやってくから、お前は上から潰していけ」
意味のない押し問答の末、出久は連絡先のリストをチャットで送ってきた。
渋々送られてきたリストを片手に、どうせこいつは家でも端末を開きっぱなしだったんだろうと呆れながら、片っ端から連絡を入れていく。明らかに寝起きの声じゃなかった。
いつでも周りに気を遣って、いつも自分を真っ先に引き算する。いや、そもそも自分を勘定に入れていない。そういうところに腹が立つんだ。
さっさと終わらせて、あいつも布団に送り込んでやる。
関係箇所への連絡は、1時間もしないですべて片が付いた。もう冷えた布団に目をやる。今すぐにでも寝たい。
「かっちゃんありがとう、助かったよ」
「さっさと寝たかっただけだわ。お前すぐに寝ろよ、起きてたら明日殺すからな」
「うん寝ます、でもかっちゃんは災難だったと思うけど、楽しかったな」
「社畜ここに極まれりだな、いいからもう寝ろ」
「だって、2週間会えなかったから」
「それで倒れたら元も子もねえわ、じゃあ切るぞ」
「そうだね。かっちゃん、おやすみ」
「…おやすみ」
もう5時だ。空は明るい。2時間も眠れないが、少しでも寝ておかないと明日に響く。もう明日でもないが。
PCの電源を切って、ベッドに潜り込んだ。
午前中の打合せさえ終わらせれば、午後はどうにでもなるな。早めにあがるための業務調整の算段を付けているうちに意識が薄れ、眠りに落ちていった。
出社して早々、事の顛末を上司から聞かされた担当者たちから謝罪の言葉とともに頭を下げられた。まさに今から殺されるかのような肩の震え具合だ。
夜に電話を受けた時はどう絞めてやろうかと考えたものだが、昨日の出久とのやり取りを思い出すと不思議と怒りは収まってしまい、そんなこともあると片づけた。
実際夜間や休日に必ず電話を取れるかといったら、人間なんだからそうもいかないだろう。何度も同じ目に遭わされたら黙っていないが、今回はたまたま不注意で起きてしまったミスだ。
人間なんだから当然ミスをするものだし、失敗しない奴なんかいない。だからこそチームで動いているのだ。
夏に雪でも降ったかのような顔をされたのは腹が立ったが、「解決したから別にいい」の一言でその場を終わらせた。
それよりも、チームという単語で思い浮かぶのは、出久の顔。
確かもう一人のベテラン社員はすでに異動したのではないか。だとしたらあいつは今一人で社内のすべてのシステムを抱えている。
上司のフォローがあったって、チームで動いていなければ結局実作業は10割負担だ。夜間に呼び出されようが、翌日の作業を代わるものなどいない。
時間がないと食事さえ摂らないなんてふざけた生活をしているようだが、あの後ちゃんと寝たのだろうか。
そもそもフロアも違うから普段顔を合わせることなんてない。それなのに、よりにもよって午前中の打合せは基盤部と。
…そこまで気にする必要があるか?自分でもそう思う。でも。
打合せは予定通り終了して時刻はちょうど昼休憩に入る。
生存確認だけして戻る、それだけだ。
フリーアドレスのフロア、パッと見渡しても誰がどこに座っているか分からない。座席管理アプリでもどこにも着席していないようだった。業務以外のことを適当にしやがって。
休みだったらそれはそれで良い。ただ、これは勘だがきっとあいつは休んではいない。
少し前、隣り合って作業をしたマシン室。その部屋は消灯されて真っ暗だ。
何となく、ここだと思った。そう思って覗いてみたら、広い部屋に一人、前と同じ席で机に突っ伏している出久の姿が目に入った。
前回はぶち破ったドアを音もなく開ける。傍に立つと、規則的に上下する背中と呼吸音が聞こえる。倒れてるのかと思ったじゃねえか。心配して損をした。
隣の椅子を引き、静かに腰掛ける。閉じられた瞼の下にあるのは、前より濃くなっている隈。
眠る出久を、しばらく眺めていた。小さい頃からあまり変わらないこの顔は、寝ていると一層幼さが増す。これで鬼のように仕事ができるのだから、すごいギャップだな。頼んだ仕事は確実で物腰が柔らかいから、尚更仕事を振りやすいのだろう。このままだと潰れるぞ。
右手の親指で、そっと目の下を撫でる。全く起きる気配がない、相当疲れているのだろう。
静まり返った室内、かすかな空調音と秒針の音だけが、遠くの世界のように聞こえた。すうすうと寝息を立てる幼馴染の隣、何もない天井に目を向ける。
昼休憩終了の鐘が鳴り、隣人の瞼が薄っすらと開く。ブリキのように固まった身体を伸ばす出久は、数秒遅れて横の気配に体を跳ねさせた。
「ぅわ…っっちゃん!?」
「起きたか」
「起きました…どうしたの、なんでここにいるの」
「午後半休取った。お前ももう午後の予定ないから帰るぞ」
「え?えっと僕午後は打合せと作業が入ってて」
「打合せはお前の上司が代打だ、もう言ってある。作業も相手側で確認できるものでしかなかったからてめえらでやれで終わらせてきた。よってお前の仕事はもうねえ」
「えっ」
「そんな目の焦点が合ってない状態で何してもミスするだけだろ。自分で熱あるかもわかんねえのか」
「あ、あー…確かにちょっと前が良く見えない…」
「支度しろ」
「はい…」
一人でも帰れるよとほざいてきたが、足元も覚束ないやつの言うことを信じられるか。
一旦家まで連れ帰って出久をベッドに放り投げ、鍵を預かり買い物に出る。
食料品などを一通り買い家に戻るとそのまま倒れていたので、クローゼットを漁り適当に着替えさせた。
食料品を冷蔵庫に入れ、飲み物を枕元に置き、作り置きのお粥を準備して、さっさと帰る準備をする。
良く考えなくても正直いい大人なのだからここまでする必要もない。しかし背負ったあの体温。汗をかき紅潮した弱弱しい顔。どうにも放っておけず世話を焼いてしまい、今に至る。どうやら自分も疲労で頭が回っていないようだ。何でこいつにこんなことを。
長居しても負担をかけるだけだ。もう帰ろうと立ち上がろうとしたところで「かっちゃん」と声がかけられる。その声はか細かった。
くぐもっていて良く聞こえない。膝を立てて耳を近付けると、火照った顔で少し苦しそうに言葉を続けた。
「かっちゃん、ごめんね」
その瞳は滲んでいた。自分が手一杯に抱えていた仕事をこんなにもあっさりと片づけてもらったことがありがたいけど情けない、申し訳ないと零す、息にも近い声。
「それはお前の責任感が強いだけだろ、今はマイナスの方にしかいかねえから仕事のことは何も考えるな。とにかく寝ろ、どうにも無理ってなったらすぐに呼べ」
「…呼んで良いの?」
「死なれても困るんだわ」
「ありがとう…」
大きな瞳からこぼれた涙が頬を伝う。これまで堪えていたものが堰を切るように溢れて止まらない。
「かっちゃん、ごめん…本当」
「気にすんな」
無意識のうちに体が動いた。指先で頬をぬぐうと、出久はぼろぼろ泣いたまま弱く笑った。
「はは、…かっちゃんの手、冷たくて気持ちいいな」
すり、と手の甲に頬を僅かに摺り寄せる仕草にじわりと体温が上がる。頬の熱が手から全身に広がっていくようだ。
気付きたくはなかった。
心の隅に居座り続けるこの感情が、ふと動いた気がした。
出久が泣き止んで眠りにつくまで、その指は流れる涙をただぬぐい続けた。
2025-01-17